閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

123 外れ(續ビアもつ)

 前回、もつ煮(と壜麦酒)は完全食ではないかと勘違ひしたことに少し触れた。その時には頭の働くひとに、その辺りを考へてもらひたいと書いたけれど、もしかすると勘違ひではないかも知れないと思へてきた。なので自分で書くことにした。

 さてここで我われは先づ、もつ煮は(厳密ではないにしても)(大体のところ)かういふ食べものだといふ、共通の認識を持つのが望ましいと思ふ。そこでわたしはもつ煮を

・豚または牛或は鶏の臓物を

・大根、牛蒡、人参、蒟蒻、豆腐、厚揚げ、長葱や玉葱と一緒に

・味噌または醤油或は塩で

・時間を掛けて煮込み

・器に盛つてから刻んだ白葱をあしらつて

・七味唐辛子を振りつつ

食べる“簡便な”料理であると考へたい。これが“簡便”なのかと疑念を抱くひとは、もつ煮を自分で作つた経験がないのだらうと思ふ。實際にやつてみると、六づかしくも何ともない。時間は掛かりますがね、ただそれだけの話で、これが簡便でないなら、即席麺をうがくのだつて、複雑な作業といふことになる。…といふ厭みはさて措き、おほむねのところ、かういふのをもつ煮と呼んで、同意してもらへるにちがひない。

 さて改めて材料を見ると、意外に思へるほど、よく整つてゐる。ここに玉子のひとつもあれば(實際、鶏卵や鶉卵を用ゐる場合もある)、ほぼ文句は出ないのではないか。栄養価がどうかといふ具体的な数値は知らないけれど、これだけ色々焚きこむのだから、心配の必要はないだらう。ではこれを完全食と呼んでいいのかと云ふと、非常に近い位置にまでは到達してゐるが、断定するのは躊躇はれる。

 麦酒(または酎ハイ)のつまみだから、と云つてもつまみで旨ければごはんに適ふのも当然だから、理由にはならない。

 冷えるとまづいとは正しい指摘だけれど、ちよつとづつ盛れば済むのだから、これも理由とするには無理がある。

 食べ進んだ時の器の汚れがと云ふ指摘だつて、途中で白葱を追加すれば、多少なりとも目立たなくなるから、理由にはなりにくい。

 詰り完全食と呼び難いのは、何か決定的な事情乃至理由があつてといふより、もつと漠然とした気分、雰囲気がさう思はせてゐるのではないか。と書けば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、ご先祖は肉食の習慣がなかつたからなあと呟くかも知れず、ただそれは半分しか正しくないと思ふ。たとへば彦根井伊家には毎年の正月、将軍家に牛肉の味噌漬けを奉る慣例があつたし、江戸の下屋敷跡からは獸骨が見つかつてゐるさうだし、ももんじ屋が猪を賣つてもゐたといふから、こつそり肉を食べる樂しみはあつたらしい。

 併し臓物まで食べたかどうか。

 食べはしたと思ふ。思ひはするが、獸肉以上にこそこそした樂しみだつたらう。厳密な意味からは外れるが、“マツロハヌ者ども”…賎民階級の食べものだつたとも思へて、町民や三下奴も知らない味だつたらうと睨んでゐる。大きな鍋だか寸胴だかに何もかもをはふり込んで、ごとごと焚いたものは、禁忌を感じる以前に食べものと思はれもしなかつたのではないか。良し惡しではなく、それが歴史といふもので、我われは未だ、臓物を喰らふのに馴染みきつてゐないのだらう。もつ煮を完全食とは呼びにくい気分や雰囲気は、その辺りに淵源があつて、身も蓋もなく云へば、そこに土俗的な躊躇を感じるからではならからうか。

 自分で云ふのも何だが、割りといい線を衝いた推測だと思ふ。我われの遠いご先祖は血を穢レと忌んでゐた(神事が源流の儀式や催事が女性に開かれないのはその名残り)から、臓物の扱ひが血を扱ふのと同義、近似と受け取られても不思議ではない。さういふ土俗的な感情…禁忌は拭はうとして拭ひ切れはしないもの。併し食べてみると臓物…もつ煮は旨い。その旨いと禁忌の残滓がせめぎあひ、まだ折合ひをつけかねてゐるのが、我われともつ煮の関係と見るのがおそらく正しい。血のソーセイジに平然と舌鼓を打てるヨーロッパ人には、きつと想像も六づかしからうが、それが歴史なのだから、どうにもならない。またそれだから、今のところもつ煮を完全食と呼ぶのも、困難であることが判つた。狙ひは外れたけれども、これはもう如何ともし難い。