閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

490 麦酒を下さい

 内田百閒は冬の麦酒を好んだといふ。"味が引き締つてうまい"のださうで、そんなものなのかなあと思ふ。[たいめいけん]の初代は常温…温めた麦酒を好んだらしい。温かい麦酒が旨いのかどうか。確かに醸造の中でお湯を通しはするけれども。エセーの中で初代は、仕事終りにホット・ビールを呑むと"ほつとするのです"と駄洒落を飛ばしてゐて、お弟子さんには同情したくなつてくるなあ。

 ごく平凡な舌の持主であるわたしは、当り前に冷した麦酒を悦ぶ。但し稀に何かうらみでも買つたかと思へるくらゐ冷たい麦酒を出されることがあつて、あれはまつたくの話、感心しない。お酒や葡萄酒を冷しすぎるのには口やかましいひとも、ことが麦酒だと、まあいいやと妙に寛容な態度を示しもして、アルコール類の中での格の低さが見え隠れする。

 實際のところ麦酒は、清潔で厚みのある小振りなグラスと適切な冷し方、丁寧な注ぎ方で味はひのほぼすべてが決る。後は注がれた麦酒をだらだらはふり出さず、ぐうつと呑み干せば、それで十分に美味い。わたしのやうな無精ものにはまことに具合が宜しい。勿論ここで麦酒純粋令を持ち出し

 「矢張り麦酒は麦とホップと水で醸らねばならぬ」

と肩に力をこめてもかまはないけれど、こちらは厳密主義に与しない。ドイツ人は眉を逆立てるか知ら。

 併し醸り方への膠泥はさて措き、ドイツ人がえらいと思ふのは、ソーセイジやザワー・クラウトを生んだことで、いや種々の馬鈴薯料理も忘れてはならず、詰り麦酒で食事をしたためるにはゲルマン方式が最良に一ばん近いのではないか。ギネスを醸つたアイルランドで、さういふ食べものが浮ばないのは、わたしがもの知らずなだけだらうか。アイリッシュ馬鈴薯の扱ひには長けてゐるだらうし、何で讀んだか、羊の腎臓のバタ焼きといふえらく旨さうな食べものがあつて、併しそれが朝食だつたから一驚を喫した記憶がある。羊肉も麦酒に似合ふのは、我が國のジンギスカンとサッポロの組合せでも明らかなのに。

 羊肉の話ではなかつた。兎にも角にも麦酒には食べものを欠かすわけにはゆかず、羊肉はその中で有力な候補になる。イギリス式のフィッシュ・アンド・チップスもヴィネガーは遠慮しつつ、うまいものだと思ふ。では翻つて我が國ではどうか。前述のジンギスカン、或は焼賣や焼き餃子、馬鈴薯のコロッケ、ミンチカツ。思ひ浮べながら、自分の想像力の貧しさに呆れてゐる。とは云へ鯖の塩焼きや鰯の丸干しならお酒の方が適ふし、臓物の煮込みだの豚の角煮だのは焼酎が慾しくなる。鯖や鰯や臓物に麦酒が適はないのではないが、決定版とは呼びにくい。麦酒会社のひとは厭な顔をするだらうが、我われに馴染み深い我が國の麦酒は、大体の食べものに似合ひながら、よくも惡くも

 「かういふ食べもの…食事に適ふのです」

といふはつきりした主張が實に見えにくい。なのでこいつを平らげるなら、この銘柄でなくちやあとは思へず、結果として取敢ず

 「麦酒を下さい」

に留まつて、一番搾りヱビス赤ラベルをプレ・モルをドライをと指名しにくい。例外に近いのはオリオンで、ポーク玉子やちやんぷるーには、これでないとしつくりこない。

 ここで我われは当り前の、併し大事な…詰り酒精と食べものは不二であることに気がつく。本來ある土地の酒精と食べものは不二を保つて育ち、ゆつくりと変化するところを、アメリカの施政下にあつた沖縄人はまことにしぶとかつた。視点の当て方は幾らでもあるのは認めるが、麦酒を主眼にすれば、僅か廿七年…沖縄、琉球の食生活史から見れば決して長いとは呼べない…で、ステイクとタコライスとポーク・ランチョン・ミートを受け容れ、琉球式に消化した過程で麦酒も取り込んだと思へる。米軍の占領施政下にあつた都市で、かういふ例は外にあるのか知ら。話が生眞面目な方向に進みさうですね、もつとのんびりしませう。

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 要するにわたしが気にしてゐるのは、麦酒と不二の食べもの…正確に云ふと、我が國の麦酒と不二にな(り得)る食べものである。と考へると、ソーセイジ一族から聯想が働くだらうか、矢つ張り少々脂つこいのが好もしい気がする。たとへば牛肉や豚肉の脂の多いところの味噌漬け。分厚い玉葱なんぞと時節によつては茄子を添へれば十分かと思ふ。日本の麦酒なら、ちよいとくどいかと感じる濃厚さでかまふまい。これをホークで刺せるくらゐに切つて(但しあまり小さくしてはならない)、大振りのお皿で出してもらふ。予め切つておくのは、何しろ片手は塞がつたままになる(筈だ)からで、味噌漬けに限らず、麦酒にあはすのは片手でつまめるか、ホークで刺せる程度の大きさと堅さが望ましい。かういふのを二人か三人で取合ひながら、麦酒を呑むのはきつと、愉快にちがひないし、ドイツ人だつて羨むだらう。[たいめいけん]で出してもらひたい気もするが、ホット・ビールでどうぞと云はれるか知ら。