閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

178 八百円

 ある平日の晝、麺麭の一枚を焼くのも面倒に思はれたから、近くの定食屋といふか飲み屋といふのか、兎に角そこに行つた。そこに行かうと思つたのは、定食が旨いからで、これまでは七百五十円だつたのが三十円値上げになつたのは気に入らないけれど、日替り定食の品書きを確かめなくても外れないから、文句を云つてはいけない。文句を云つて定食を止められては困る。

 なので外れのない日替り定食を、ごはんは普通盛りで(お晝の定食は大盛りが無料なのである)くださいと註文して、日替り定食が目の前に出てくるまで、それが鶏肉の甘酢炒めなのを見過ごしてゐた。仕舞つたと思つた。まづいからでないのは勿論だから、なら何故仕舞つたと思つたのかと云ふと、このお店の甘酢仕立てが美味しいのは既に知つてゐたからで、そんなら別の一品を試してみたいと思つてゐたからだ。一品料理でも二百円を追加したら、ごはんとソップとお漬物とちよつとした野菜…即ちごはんセットを追加出來る。

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 出されたものを、品書きを見てゐなかつたから別のにしてくださいとは云へない。だからそのまま食べ始めたら、予想通りにうまい。旨いのはいいとして、併しその旨いのは既に知つてゐる。甘酢仕立ては好物でもあるから、その点は非常に満足した。とは云ふものの、意図しない形で追体験を強要されたやうな気分でもあつて、何となく尻の坐りが惡くなつたが、後から來たお客が日替り定食を頼まうとしたら、女将さんが済みません、けふの日替りは終つたんですと謝るのが聞こえてきたので、幸運だつたなあとほくそ笑みたくなつた。七百八十円を払つてからお店を出て、切りよく八百円にすればいいのにと思つた。