閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

522 ピリ辛気分

 お品書きには"玉子と春雨のピリ辛煮"とあつた。お晝の定食。旨さうである。併しわたしはお箸の扱ひが致命的に下手であつて、さてどうするか、悩ましい。

 

 緑豆などの澱粉で作つたのが春雨なのださうで、かういふ工夫に熱心だつたのは云ふまでもなく昔の中國。十一世紀頃といふから北宋…我が國では、藤原氏の望月が輝いてゐた時期…にあたる。

 何でまた、こんなものを。

 といふ事情は例によつてはつきりしない。王朝としての宋はまつたくのところ脆弱だつたけれど、文化的には余程に成熟してゐたのだらう。さうでもなければ、製法は無闇に面倒なのに、それ自体が旨いとは云ひにくく、栄養の面でも特筆出來る点の無い食べものを生み出せはしまい。政治的には憐れを催す一方、別の面では豊かでもあつたのだらう。

 正直なところ、春雨の喜ばしさは、滑かな口触りに尽きると思へる。マーケットの惣菜賣場で馴染み深い"中華風サラド"でも春雨は欠かせないが、あの味はドレッシングとハムと胡瓜の担当で、春雨の役目は嵩増しと口触りに徹してゐるでせう。代りに茹で刻んだ青梗菜やキヤベツや炒り卵を使つても"中華風サラド"は成り立つ筈ではないか。さう考へると春雨は寧ろ、非常に贅沢な…身も蓋もなく云ふと無駄な…食べものと云つてよく、千年も前によくもまあと感心せざるを得なくなる。

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 かういふことを、"さてどうするか"と首を捻りつつ考へたわけではない。勿論。お品書きを見て気になつたのは、わたしの箸使ひで綺麗に食べられるだらうかといふ不安だけで、その辺はどうにかなるだらうと、お店に入つた。

 「"玉子と春雨のピリ辛煮"定食をお願ひします」

待つこと暫し。登場したのが画像のそれで、画になる食べものではない。幸ひ匙が添へてあつたから、お箸で匙に乗せつつ頬張ると、期待通りにうまい。"ピリ辛"といふほど辛くはないけれど、何せ定食だからこの場合は正しい。玉子が効果を發揮したのかも知れないが、わたしの知る限り、このお店は味つけを穏やかに纏める癖があるので、定食向けに辛さを抑へたのかどうか、疑問の余地はある。

 とは云へ、疑問の余地の広さより、食べて旨いかどうかが大切なのは、今さら強調するまでもない。そしてその大切な点でこの"玉子と春雨のピリ辛煮"は、二重丸を附けたくなる味であつた。ひとつ、苦言を呈せば…と書いたら専門家風で恰好いいでせう…、お皿の底に残つた汁気を綺麗に平らげにくかつたのは困る。この手のおかずはお皿を舐め取るやうに食べ尽くすのが本來だもの。ごはんに打ち掛けてもよかつたかと思つたが、耻づかしい気もされて、さういつた気分もまた"ピリ辛"なのか知ら。