閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

280 80%

 仮の話である。何かの切つ掛け…たとへば“日本國民ハ法ノ定ムルトコロニ拠リ常用スルレンズヲ決ル義務ヲ負フ”といつた状況になつたとして、我われはどのような態度を取ればいいのか。圧政と暴虐に叛旗を翻す方法も考へられなくはないが、それはどうも血腥くていけない。平和的に“義務ヲ果ス”方向で態度を決めてゆきませう。

 常用レンズとは併し何だらう。常ニ用ヰルと書くくらゐだから、あらましの想像は出來なくもない。では常ニ用ヰヌ…非常用のレンズがなければ不自然だとなつて、詰り常用レンズといふ考へは、レンズ交換が出來るカメラで成り立つのかと気がついた。表意式の文字はこんな時に便利でいい。尤もこれでは“常用レンズとは何だらう”の答には不十分で、わたしにも明確な定義があるわけではない。ごく大雑把に手持ちのレンズを賣り払ふとして、最後まで残る1本を指すのではないかと思ふ。

 何でも自在に撮れるわけではない。

 だけれど80%くらゐはどうにか撮れる。

 さういふのが、常用と呼べるレンズではあるまいか。異論や反論や疑義もあらうが、一応はそんな風にとらへておきたい。

 それで80%くらゐがまあ撮れるとすると、その80%が何かといふのが問題になる。なつてくる。詰り花が80%のひとと、鳥や飛行機が80%のひと、食べものが80%のひとと、スナップと呼ぶしかないのが80%のひとでは、常用に足るレンズは丸でちがつてくる。何も80%にも到らないひともゐる筈で、矢張り常用に足るレンズは異ならないとをかしい。さう考へると、300ミリ/F2.8でも15ミリ/F8でも、常用レンズに成り得ることになつて、“法ノ定ムルトコロ”は案外なほど穴だらけと云へなくもない。

 さて。

 何が80%に達するかで常用レンズが変るなら、一般論風に、“決定!これが現代の常用レンズだ!”と見出しをつけるのは無理なのがはつきりして、であれば個々人で決める外にないとなつて、あなたとわたしでそれが違つてゐても、それは寧ろ当然と云はねばなりません。さうすると周囲の意見には目を瞑り、自分の話に終始せざるを得ないのもまた当然のことになる。

 わたしが主に撮るのは呑み喰ひと、結果的にスナップと呼ぶしかなささうな寫眞(但し所謂スナップを意図して撮ることは殆どないのだが)で、そこから考へるに、先づ望遠系統のレンズ…90ミリ前後より狭い画角は全部手に余る。あれば便利とは思ふが常用は出來ない。極端な広角(21ミリより広い画角)も矢張り手に余る。何だか詰らない話になつてゐる気がされる。現實はこんなものか。

 便利…使ひ勝手なら、ズームレンズだよといふ意見はある筈で、その見方は正しい。ことに広角寄り…21‐35ミリや28‐50ミリ辺りの具合のよさは経験的にも解つてゐる。ただこの手のレンズはどうしても大ぶりになつて、持ち出すのが億劫になる。持ち出しにくいレンズに値うちはない。それに寄つて撮るのも些か無理があつて、詰り80%を占める呑み喰ひを撮りにくくもあつて、“常ニ用ヰル”には少々の躊躇を覚える。…と書いてわたしの“常用に足る”レンズの輪郭が浮んできた。

 先づ単焦点であること。

 序でに小振りであること。

 次に寄れること。

 そして極端な画角ではないこと。

 当り前だよそれは、と云はないでもらひたい。当り前を当り前のままにしておくか、当り前の事情を考へるかでは、当り前の質が異なつてくるものです。さういふ理窟を捏ねて輪郭をもう少し明瞭にしてゆくと、極端ではない画角であれば、おほむね28ミリから60ミリくらゐに収まる。ぼんやりと眺めるところから注視に到る辺りが、これくらゐだからで、この範囲であれば大掴みに掴み易く(余分なものが寫ることがあつてもかまはない。寫眞は寫つてゐなければどうにもならないもの)、不自然にならない程度に広い画角が望ましい。

 結論。

 28ミリ。

 明るいレンズでなくていい。F2.8…何ならF4でも十分である。ぼけがどうかうより、全体がシャープに寫る方が好もしい。後は出來る限り(さうですな、切替なしで10センチより近く)寄れれば文句はない。これならわたしが使ふ分に、80%以上に対応する。それに現代の設計基準から見ると難問には属さないだらう。何とも面白みに欠けた、また地味なところに落したと自分でも思ふのだが、かういふレンズに案外な需要がありさうな気がされなくもない。尤も出してくるとしたら、数値の地味さを素材や仕上げで嵩上げした価格になるだらうとも予想出來る。高額なレンズは“常ニ用ヰル”1本には似つかはしくない。うーむ。折角色々と考へたが、平和的な解決は六づかしい。残念なことだが、圧政と暴虐に叛旗を翻すしか方法はないのか知ら。

279 数ある中の

 数々ある玉子料理の中で、どうもわたしは玉子焼きが一ばん好きらしい。煮抜きや韮の卵とぢ、ベーコン・エグズ、煎り玉子に目玉焼き、オムレツ、その他諸々あるけれども、玉子焼きといふ響きには及ばない…まあ、わたしにとつては。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も同じだらうが、かういふ食べものは大体、をさない頃に食べた味が後年に到るまで、ひとつの基準になる。それで外で食べた時に一驚を喫するまでがお決りで、わたしの経験で云へば、ふはふは柔らかくて甘い玉子焼きに驚かされた。

 本人も認めてゐるから遠慮せずに書くと、母親は料理が上手ではない。流石にまづいものは作らなかつたが、細やかな調理が苦手で、玉子焼きの場合は表側にほんのり焦げがあつて、切れ目にを見ると、巻き具合がはつきり判つた。味つけは塩と若干の胡椒。そこに醤油を垂らすか、おびいこをまぶすかして食べる。

 これが、うまい。

 いやいやいやいやと忙しく手を、或は首を烈しく首を振るひとが出てきさうで、その気持ちは判らなくもない。尤も貴女の玉子焼きの話を聞いてたこちらが、いやいやと手または首を振つても、それは諒としてもらはなくちやあならない。それが公平といふものでせう。

 ところで先ほどわたしは、甘くてやはらかな玉子焼きに驚かされたと書いたが、實はもうひとつの驚きがあつて、それは大根おろし薑とを添へることであつた。こちらは好もしい驚きではあつたが、お菓子のやうな甘い玉子焼きに、大根おろしと薑を添へる理由は今もよく解らない。

 とは云ふものの、葱や韮やしらすを混ぜた、甘くない玉子焼きに、大根おろしと薑の組合せは嬉しいもので、お酒にもごはんにも適ふ。實際、ごはんとお味噌汁と玉子焼きがあれば、食事は立派に成り立つし、一合の徳利に玉子焼きがあれば、お酒だつて立派に成り立つ。以前にも書いたが、吉田健一が我われに

「お酒に適ふものは大抵熱いごはんにも適ふ」

と教へて呉れたのは丸々の眞實であつて、玉子焼きが例外にならないのは勿論である。どちらにしても甘いのは遠慮したい(なので多少なりとも気の知れたお店では、“あまくないの”を註文する)けれど、まあここでは一応、ささやかな問題だと考へておきませうか。

 併しかうなるとわたしは何故、玉子焼きを好むのだらうといふ疑問が浮ぶもので、これは何とも解らない。幼少のわたしは体の弱い子供だつたから、栄養をつけさせ且つお腹を壊さない気配りも含めて、母親が知恵を絞つたのか。だとすれば心配りには深く感謝しなければならないが、これなら倅は歓ぶからといふ安直の可能性だつて否定はしにくい。聞かぬままにして、また玉子焼きを焼いてもらふのが吉であらう。

278 蛸の味

 西班牙や希臘では食べる。

 印度から中國では食べない。

 猶太は“鱗のない魚”として忌避する。


 我が國では歓んで食べる。


 タコの話。


 英語ではoctopusと綴る。そのoct乃至octoは羅典語で“8”の意。october(こちらは“8番目の月”)と同じ語根で、あの生きものを端的に示す呼び方ではなからうか。漢字では蛸が一般的と思はれるが、鮹または鱆、章魚とも書く。

 語源には色々の説がある。ざつと見ると、足が多いから“多股”と呼ばれてゐたといふのが、比較的にしても有力らしい。と書くと厳密な讀者諸嬢諸氏は、それだけだと“虫扁の説明がつかない”と眉を顰めさうだが、中國の“蛸”は我われが云ふ“蜘蛛”を指すのださうで、大陸人はタコを“海蛸子”と呼んでゐたらしい。この字が輸入された時、我らがご先祖は頭を捻つた揚げ句

「なんだ、おれたちが喰つてゐる、あの“多股”のことぢやあないか」

と気がついて、“海蛸子”の中から“蛸”の字を抜き出したのではなからうか。想像ですからね、信用されてはこまる。


 改めて云ふと、地中海文明の地域で、蛸は馴染みの深い生きものであつた。古代希臘の壷に蛸の紋様が描かれた例もあるくらゐだから、余程ありふれてゐたらしい。

 どんな風に食べてゐた…ゐるのか知ら。

 希臘と云へばオリーヴ油だから、グリルにするとかマリネー風にするとか、或は揚げたり煮込んだりもするのだらうか。何せわたしには、古代現代に関はらず、希臘…地中海の友人がゐないものだから、その辺ははつきりしない。どうであれ葡萄酒に似合ふのは確實視出來る。きつと西班牙も同じで、さういふのに縁遠いのは、人生の損失なのだらうなと思はれる。

 併し我が國にも蛸を用ゐた料理は沢山ある。お刺身で旨いのは勿論、唐揚げにしてもうまい。おでんで飯蛸があれば嬉しくなつてくるし、外にも蛸飯なんていふのも有名ですな。些か聲を潜めて云ふと、わたしが一ばん好きなのは、蛸と胡瓜と若布の酢のもので、どこだつたか、カウンタ席だけのごく小さな呑み屋で註文したら、その場で手際よく仕立ててくれて、それがえらく旨かつたのは忘れ難い。呑んでゐたのは濁醪と記憶してゐるが、あの獨特の甘みと三盃酢だか二盃酢の相性があんなにいいとは思はなかつたよ。


 もしかするとピーマンや玉葱、パプリカを使つて、檸檬かヴィネガーで、でなければピックルスと組合せて仕立てたら、洋風の酢のものになるのだらうか。ソーセイジやハムやベーコン、或はシュニッツェルや煮込み料理の隣に、さういふ小鉢があれば、いい具合の箸休め…訂正、ホーク休めになりさうな気がする。但し佛國人には任せない方がいい。きつと、おそろしく凝つた酸つぱいソースを工夫して、何々・ア・ラ・フランセーズとか何とか、物々しい名前で出してくるに決つてゐるもの。佛國の食卓に蛸がなくて(併しかれらは牡蠣を食べる。蛸とどこがちがふのだらう)よかつた。

 佛國ソースの惡くちはまあ宜しい。

 それより奇妙なのは、蛸は旨いねえと云ふ時、我われは必ずしも蛸の味を舌に思ひ浮べてはゐない。それは出汁や塩胡椒や酢やウスター・ソースの味と殆ど等しく、同じ頭足類の烏賊が、烏賊それ自体の仄かな甘みを連想させるのと対照的である。だがだつたら酢のものから蛸を抜いても変らないかといふと、それは決定的にちがふ。どこがどうちがふかを説明するのは六づかしい。蛸の歯触りや香りは明らかにあつて、さういふ舌とは別の部分で感じられることが、蛸の味に繋がつて…蛸の味を暗示してゐさうな気がする。旨いなあと思はず口に出るのは幸せであるけれど、中々ややこしい感嘆でもあるのだ。

277 ハラミとカシラとネギマ

 何しろわたしは老人である。他人さまに云はれると腹は立つが、老人であるのは事實であつて、我が若い讀者諸嬢諸氏もいづれ老人になるのだと思ふと、ざまあみろと厭みな笑みが浮んでくる。

 老人であると自覚したのは、先づ食べものの嗜好の変化で、何度か触れた記憶があるから、ここでは繰り返さない。もうひとつはこの稿で取上げる話題の狭さで、どう狭いかは(数少ない)讀者諸嬢諸氏ならきつと、ああ成る程と納得してもらへるだらう。

 話題が狭い理由は幾つか考へられる。順に挙げてもいいのだが、さうすると我が浅學菲才を詳らかにすることになる。浅學菲才は自明だからかまはないとしても、懇切丁寧に説明すると、この手帖を續ける気力が失せさうになる。序でに耻づかしくもあるから、止めておきます。併しひとつくらゐは出さないとこの稿が續かない。そこで安定志向を挙げたいと思ふ。

 大成功は見込めなくても、派手に失敗る心配もせずに済む。と云ふと安易安直の謗りを受けさうだが、さういふ話題を(主に)撰べば、偶さか、捻つたことを書いても…かういふ場合は大体うまくゆかないと相場が決つてゐる…、感じる負担は少なくて済む。ほら、ハラミとカシラとネギマを註文しておけば、取敢ずは安心出來て、変り種のひとつも試してみるかと思へるでせう。

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276 距離を厭はず

 好感を持つてゐる…詰り行つてみたい土地への運賃を順不同で調べてみたらかうなつた。金額は正価。すべて新宿發である。


◾️金沢:吉田健一を尊敬すると公言してゐるんだもの。矢張り、訪れないわけにはゆかない。

 大宮経由/新幹線はくたか;13,390円

 大宮経由/新幹線かがやき;13,910円


◾️新潟:仮にもお酒好きですからね。それにめしだつて、うまいにちがひない。

 大宮または上野経由/新幹線とき;9,840円


◾️仙台:近世と近代が混ざつてゐる気がする。ずんだに牛たんといふ印象は単純だけれど。

 大宮経由/新幹線やまびこ;10,160円

 東京経由/新幹線やまびこ;10,370円


◾️浜松:鰻に餃子ですよ、行かない理由がどこにあるのだらうか(文章の技法でいふ反語)

 小田原経由/小田急から熱海経由/東海道本線;3,900円

 小田原経由/小田急/新幹線ひかり;6,380円


◾️広島:恩も義理もないけれど、牡蠣に限らず、呑み喰ひならきつと、間違ひはない。

 東京経由/新幹線のぞみ;18,040円


◾️博多:焼酎にもつ、ラーメン。忘れちやあならない博多の美人。それから天麩羅饂飩。

 東京経由/新幹線のぞみ;21,810円


 外にも庄内青森函館に札幌、或は富山高知長崎鹿児島と訪れたい土地はあつて、ことに伯耆は断然、足を運ばねばならぬと思つてゐる。あすこには尊敬してやまない植田正治の寫眞美術館があるし、うまいお酒があるのは判つてゐるし、そのお酒に負けない肴があるだらうと見当だつてついてゐる。併しどう調べても新宿發で伯耆は遠い。飛行機に乗る手もあるとして、割高なのが気に入らないし、大体わたしは飛行機を好まない。であれば間にどこか立ち寄つてからになつて、どこに立ち寄ればいいのか。距離を厭はないとは云へ、変な慾が出てきさうで、非常に悩ましい。