閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

408 巨視的な年末年始

 師走の晦日には蕎麦を啜つて、正月の三ヶ日にはお雑煮を食べておせちをつまむのが我が國の伝統で、多分二百年とかそれくらゐの歴史があると思ふ。たかが二百年と笑つてはいけない。二百年前は元號だと文政の初期。判りにくければ明治維新のほぼ半世紀前と云へばいいだらうか。そこから百年の激変を考へると、しぶとく生き延びてゐるならはしではないだらうか。矢張り判りにくいと嘆くひとの為に、文政の百年後は大正の半ば…武家町人の時代から文明開化を経て、デモクラシーがどうかうと人びとが囀ずるくらゐまで変化があつた…と云つておきませう。それに較べれは大正半ばから令和初年に到る百年の変化は大した事もないと思ひたくなる。

 

 巨視的な話をする積りぢやあなかつた。惡癖ですね、反省しませう。

 

 そこで話題を一ぺんに小さくすると、早鮓と冷たい蕎麦がわたしの家族の大みそかの例年で、蕎麦は母親の知人が新潟から送つて下さるのを啜る。正しい呼び方は知らないが、こちらではへぎ蕎麦と呼んでゐる。ざる蕎麦式に食べるのだが、漬物(山形のだしのやうに細かく刻んだ野菜で粘りけがあり、山形のだしと異なり山葵がきいてゐる)を、つゆには入れず、食べる分だけの蕎麦に乗せる。その場で擦り下ろしたのなら兎も角、チューブ入りの山葵より余程うまい。蕎麦マニヤは厭な顔をするか知ら。

 翌正月元日にはお雑煮を食べる。このお雑煮に入れるお餅も、へぎ蕎麦同様に新潟から送つてもらつたもの。トースターで少し焦がしたのを澄し汁に入れる。歯応へといひ香りといひ、これなら普段の毎朝に食べてゐる食パンから交替させるのも吝かではないのだが、入手は六づかしいだらうな。さうさう、肥満を気遣つて呉れる貴女の為に云ふと、わたしは身長百七十センチメートル、体重五十八キログラム(いづれも公称)なので、毎朝のお餅のひとつやふたつくらゐなら、どうといふ事もない。序でに云へば、正月元日の一ばん最初はお芽出度うを云つて[久保田]をお屠蘇にする。

 

 蕎麦の食べ方やらお屠蘇代りの銘柄はさて措き、大晦日から正月元日にかけての食卓は三十年余りの習慣である。例外は妻がゐた短い期間で、年越し蕎麦の代りに当時の義母が作つて呉れたちやんぽんを啜り、元日と翌日は双方の實家や親族の挨拶廻りをした。どんな感じだつたかは記憶に無い。

 元日には"ニューイヤー驛傳"を、翌二日と三日は"箱根驛傳"を観る。こちらで例外だつたのは十数年前に沖縄市にゐた年で、観たくなかつたのではなく、単に中継されなかつたからである。あの時は確か年越し蕎麦代りに、那覇市の屋台でまづい醤油ラーメンを啜り(積極的にまづいと思へたラーメンは今のところ、あの一ぺんきりである)、元日にカップ麺の沖縄そばを食べ、おせちではなく[A&W]でハンバーガーを囓つた筈である。呑んだのは勿論お酒ではなくオリオン・ビールと泡盛だつたが、泡盛の銘柄は記憶に残つてゐない。

 

 さうでない年には、正月二日には母方の親族の集りに参加した。過去形なのは数年前、母方の祖母が浄土に向つた後、お開きになつたからである。わたしは十月生れなのだが、早くも翌年の集り(月齢二か月半くらゐ)には参加してゐたさうで、大叔父から大枚五百円…半世紀前の五百円ですよ。大隈重信のお札だつたのは云ふまでもない…のお年玉をもらつたといふ。祖父母にとつて初孫だつたし、叔父叔母が結婚する前でもあつたから、特別扱ひだつたのだらう。

 その集りでお年玉が樂みだつたのは当り前として、もうひとつ、祖母が炊いて呉れた棒鱈がまつたく旨かつた。一体におせちは少年にとつて嬉しくないもので、黒豆だの鰊の昆布巻きだのの何が美味しいのか、さつぱり判らなかつた。集りの食卓で主役を張るのは蟹すきだつたが、外につつくのは蒲鉾か玉子焼きが精々で、併し棒鱈は例外中の例外だつた。健勝だつた頃の祖母は年の瀬になると、干し鱈を買つて水で戻し、ゆつくり時間を掛けて焚き染めて、大鉢に盛るのだからまづい道理を考へる方が六づかしい。

 

 きつと我が若い讀者諸嬢諸氏は、何とも古めかしい話だと呆れてゐるだらうな。

 

 尤も丁寧に一讀すれば、年越し蕎麦を歓ぶのは兎も角として、おせちが旨いとはまつたく云つてゐないと解つてもらへるにちがひない。實際、今に到つてもおせちと聞いて思ひ浮ぶ食べものは嬉しいと思へない。昆布巻き、蒲鉾、牛蒡や蒟蒻や人参の煮もの。そのくらゐがあれば十分で、いや棒鱈も出來合ひがあれば食べるけれど、とても祖母の棒鱈には及ばない。記憶の改竄があるとして、その分を差引きしても断定しておく。

 併しおせちがまづいと云ふ積りもなくて、吉田健一が"東京のおせち"(『私の食物誌』に収められてゐる)でこんな風に書いてゐる。

 

 芋と人参と牛蒡と蒟蒻と焼き豆腐しか入れない東京のが(中略)昆布出しを取った間違いがない出來のものならば大木な丼に盛ってあっても三ヶ日を過ぎてまだ残っているということは先ずない。

(中略)

 兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出來上ったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。

 

 確かにその通りと膝を打ちたくなつてくる。何故かと云ふに"大晦日からお正月に掛けての気分"が残らず詰つてゐるからである。勿論大晦日ナポリタン・スパゲッティを啜つた後、正月元日の朝にシェリーとロースト・ビーフのサンドウィッチをやつつけたつて構はないし、叉焼麺と酢豚と青椒肉絲と杏仁豆腐、それから紹興酒だつてよからうし、カレー・ライスにピザにソップに麦酒でも文句は出るまい。併しそれだと吉田の云ふ"飲んでいる時の気分と言ったらない"境地に達するのは非常に困難なのではなからうか。我が國の歴史が何年あるかは議論の余地が残されてゐるとして、千年に余るのはまあ確實と云つていい。さうなると二百年かそこらの時間は、それだけを見ると長いとは思ひにくいが、千年でいへば五分ノ一を占める。ナポリタン・スパゲッティやカレー・ライスや紹興酒がその坐を奪はうとしたところで、この先何百年かの風習にならなければ無理なのは疑念の余地が無い。それが詰り文化と呼ばれるもので、もつと云ふとそれは作るものではなく、守るものではないかとも思はれるのだが、いけない、また巨視的な方向に走つて仕舞つた。

407 焼酎の格

 ブランデーが葡萄酒などの果実酒を蒸溜したもの、ウィスキーがビールを蒸溜したものであるのと同じく、日本の酒やその醪を蒸溜したもの

 

 焼酎について、坂口謹一郎博士は『日本の酒』(岩波文庫)でかう書いてゐる。すつきり、頭に入つてきますな。いい焼酎のやうだ。巻末の年譜によると坂口博士は明治卅年の新潟生れ。東京帝國大學農學部卒業。農林省食糧研究所所長(昭和十八年就任)を経て、昭和廿八年に東京大學応用微生物研究所所長就任。平成六年に死去とある。その中で注目に値するのは、昭和卅三年に歌集『醗酵』を刊行とあつて、『日本の酒』の冒頭に十三首が収められてゐる。正直なところ、あんまり上手とも思へないが

 

 うまさけはうましともなく飲むうちに醉ひての後の口のさやけき

 

は本文中にある"さわりなく水の如くに飲める"お酒の基本的な性質を卅一文字に巧く纏めてゐる。後に續く

 

 おいしいクリームを含む牛乳が特に美味を感ぜず、太陽の光線が、内に七色の華麗を藏しながら、何の色も示さないのと同じである。

 

といふ譬喩には及ばないにしても、かういふ文學的な技法を用ゐるのは大した事(牛乳云々には反論が出るだらうけれど)ですよ。醗酵といふひとの手では如何ともし難い現象、お酒といふ多分に主観が混ざる飲みものを相手にすると、科学的な用語だけで文章を書くのは六づかしいだらうとは想像出來るが、一方で元々文學志向のあつた青年が醗酵の道に進んだとも考へられる。青雲の志、讚すべし。

 

 焼酎に戻りませう。

 この酒精は大きく連續式蒸溜(甲類)と単式蒸溜(乙類)に分けられる。無味乾燥な分類だなあと思ふけれど、官僚の言語感覚に期待してはならない。『日本の酒』を参照しつつ云ふと、甲類は"芋や雑穀、廃糖蜜をパテント・スチルといふ大規模な蒸溜機で"蒸溜を繰返し、無臭の純アルコールにしたもの。ウォトカと同類。後者は"米や黍や稗、栗、甘薯、麦や黒砂糖を使ひ、小規模なポット・スチル蒸溜機で"造つたものを指す。蒸溜は都度、一回限り。坂口博士は乙類、中でも麦と黒糖の焼酎を

 

 後の二者はさしずめ日本のウィスキーでありラムであるといってもよく、またそれらの南方諸国は日本のスコットランドともいえよう。

 

たいへんに褒めてゐる。念の為に云ふと甲類…純アルコールについても博士は、ホワイト・リカーとして(ウォトカに張り合へるくらゐ)發展さすのがよいとも記してゐるから、決して一方的な言辞ではない。

 

 パテント・スチルやポット・スチルの厳密な仕組みはこの際目を瞑る。焼酎は原料と蒸溜法で呼び名…といふより味はひが丸で異なるのだと大掴みに掴んでおけばよく、併しその"丸で異なる"味はひが問題。甲類はそれだけで呑まないのが原則で、親戚のお祖母ちやんが漬けた梅酒や居酒屋の檸檬サワーを連想すればよい。乙類…"本格"焼酎と呼ぶ向きもあるが、この稿では甲乙で区別する…は水割りかお湯割りが宜しい。詰りうまい。体験的に云ふと、"焼酎好き"が云ふ焼酎は乙類を指す一方、"どうも焼酎はなあ"と云ふひとが指すのは、甲乙両方に跨がつてゐる感じがする。甲類だとただの呑み過ぎか下手糞なカクテル擬きの所為だが、乙類相手だと、いきなり癖のある銘柄を口にした可能性がある。

 「あのきつい癖が堪らんのだよ」

と自慢気に云ふひとは、獨特の癖を解つてゐるんだぞと見栄を張つてゐるだけの事だから、信用してはいけない。断定出來るのは若いころのわたしがさうだつたからで、グレンフィディックアードベッグ…どちらにも特有の泥炭臭がある…を呑んだのは、見栄が第一の理由だつた。實際にその泥炭臭を含め美味いと感じて呑めるに到つたのは、何年も経つてだつたと白状しておかう。要は美味い酒だと思へる範囲が、齢を重て広がつた結果で、これ計りは何杯か、または何杯も呑み、失敗をしなくちやあ身につきやしない。

 

 何の話だつたか知ら…さう、焼酎。好ききらひがはつきり分かれ易いのは事實として、その分岐点には注意を払ふ必要がある。葡萄酒が好きでないといふひとがゐたら、きつと

 「貴女は何を呑んだんです」

と訊ねるでせう。それでイベリヤのフルボディの渋みが適はなかつたと云つたら

 「モーゼルを試すのは如何です」

なんて提案のひとつもするにちがひない。ところが焼酎で同じ發言が出ても、ははあ成る程と呟くくらゐが精々なのはどうしたわけか。

 「檸檬サワーくらゐしか、呑めないんです」

 「黒糖の水割りは、滑らかな口当りですよ」

とか何とか、話が広がらない。焼酎はどう転んでも焼酎だらうとどこかで合意が成り立つてゐるのかと疑ひたくなるくらゐで、まつたく不思議である。

 思ふに我われはお酒…詰り日本酒に較べて焼酎…蒸溜酒への馴染みは薄い。尤も南國は例外で、鹿児島は伊佐の郡山八幡神社には

 

 其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ被下候

 何ともめいわくな事哉

 

といふ落書きが遺されてゐる。現代語風に(意)訳すると、この仕事の依頼主はたいへんなけちん坊で、一ぺんも焼酎を呑まして呉れなかつた、まつたくひどい話でごわす、くらゐのところか。この落書きの凄いのは"永禄二歳八月十一日"に"作次郎と靏田助太郎"が書いたと明らかな点で、今のところ焼酎の文字が確認出來る最古の例であるらしい。永禄二年は西だと千五百五十九年。織田信長(当時廿五歳)が尾張をほぼ手中に収め、駿河今川義元の動向に神経を尖らせてゐた時期に当る。その時期にかういふ怨み言…寧ろ厭みを書き遺した(神罰も畏れずに!)といふ事は、その頃の薩摩健児は既に焼酎を愛飲してゐたからにちがひない。併し薩摩人の熱狂は全國津々浦々まで伝はりはしなかつた。詰り我われのご先祖の多くは蒸溜酒ではなく、醸造酒に舌鼓を打つた事になる。

 何故だらう。と不思議に思ふまでもなく、お酒自体が玩味に足る飲みものだからで、そこからもうひと手間を掛ける必要が(少)なかつたから云つてもいい。南國人がひと手間掛けたのは、酒醸りの要である温度の管理が(当時は)六づかしかつた所為ではなからうか。蒸溜は唐土渡り…おそらく琉球から奄美を経由して…九州に伝はつた手法と思はれて

 「こげな旨か水バ、呑んだコツがなか」

作次郎と助太郎がさう云つたかどうかは知らないが、かれらを歓ばせ、土壌も造るのに適してゐたのは間違ひない。尤も本州人が馴染めるまで北上はしなかつた。呑み助文化…何々文化といふのは、こんな時に使ひたいものですな…のちがひであつて、我われ非南國人が焼酎を好む(或は苦手にする)のは、異なる文化を曖昧にしか捉へられなかつた結果ではないかとも思へる。

 

 かういふ話をするのは、薩摩や大隅や日向は知らず、呑み屋での焼酎は、格を低く扱はれてゐる感じがされるからで、例外はありますよ、勿論。ただそれは奄美琉球の酒や料理を供する店だから、例外の域を出ない。油素麺やら豚肉の煮込みやらに焼酎が似合ふのは当然として…かういふ食べものを相手にするには、日本酒だと力負けして仕舞ふ…、そこで収めるのは勿体無いのではなからうか。わたしが云ふのは純アルコールの甲類ではなく(こちらだつたら、もつ煮にも焼鳥や煮魚にも肉野菜炒めにも適ふに決つてゐる)、癖のきつい、でなければ個性のある乙類…"本格"焼酎の方。ポーク玉子や苦瓜のピックルスが適ふのは判つてゐるとして、たとへばソーセイジ、たとへば羊肉、たとへば鰊、さういふのをあはす工夫は無いものか。お酒にチーズ(と生ハム)が似合ふやうな、葡萄酒と焼き豆腐が似合ふやうな、焼酎にもさういふ組合せがあれば、それは我われの酒席を豊かにする發見と云つていいし、焼酎の格だつて高まるにちがひない。それで慌てて『日本の酒』を讀み返してみたが、坂口博士もそこまでは触れてゐなかつた。

406 折らず書かずの失敗

 フェチといふ言葉がある。正確にはフェティッシュ。大掴みに物体や人間の躰の一部(たとへば髪の毛)に対する括弧附きの愛情と理解すればいい。括弧の中には性や偏や異常や変態を入れる事と、しつくりするのではないだらうか。赤瀬川原平は物質愛と訳してゐた。間違ひではないにしても、アブノーマルな手触りの薄い語感に思はれる。念の為に云ふと、これはフェティッシュといふ言葉に対しての感想で、フェチはどうでもいい。あつちは"大好き"の変種にすぎないもの。

 わたしにはフェティッシュな性癖でなければ傾向の持合せが無い。と思ふ。かういふ性癖は自覚を伴はない事があるから、曖昧な余地を残す方が安心といふものだ。

 と書いた直後に前言を翻すと、本が相手の場合は、さういふ感覚があるかも知れないと気が附いた。それは活字中毒でないのと訊かれるかも知れず、またその傾向があるのは認めるところでもあるが、いやその前に父親の讀書に触れる。某製藥会社で機械を相手にし續けた父にとつて、本は道具であつたし今もさうである。讀む本も娯樂とは無縁…将棋といふ例外はあるが…であつた所為か、栞代りに頁の隅を折り、書込みをするのにまつたく抵抗を感じないひとで、少年だつたわたしは時々父の本棚から抜き出した一冊の頁を捲り、到るところに折目と書込みがあるのを不思議に思つてゐた。詰りわたしはさういふ事をしなかつたので、これは母親の影響である。どうも文學少女の傾向があつたらしく、"ドリトル先生"や"くまのプーさん"は母から与へられた。参考までに云ふと前者は井伏鱒二、後者は石井桃子の素晴らしい翻訳で、どちらも立派な函入り。今でも欠片が記憶に残つてゐるくらゐだから、余程夢中になつたのだらう。話が逸れた。

 母親の本には書込みどころか折目も無く、すりやあ文學なのだから当然だよと云つてはならない。わたしの直ぐ傍には本があり、併し父母でその扱ひが丸で異なつてゐたのが要である。實用の道具と愛玩物。当時のわたしがんその区別を出來なかつたのは念を押すまでもないとして、少年には實用一辺倒の本が面白い道理もなく、ゆゑに(ここは探偵小説で犯人を指し示す名探偵の口調で)本に対する接し方は、母親のそれを無意識に眞似る結果になつた。

 折目は附けないし、書込みもしない。

 初版本や珍奇な版に興味は無い。

 手元にある本は丁寧に扱ふけれど、讀み返した結果、ぼろぼろになつても気にならない。

 函やラパーは決して棄てない。

 稀に賣る事はあつても棄てはしない。

 といふのがそれらで、たとへばわたしの"バイブル"である『文章読本』(丸谷才一/中公文庫)はもうよれよれだが、新しいのに買ひかへる気にはならない(追加して買ふ可能性はあるとしても)手元で何べんも讀んだ挙げ句のよれよれだから、それも含めて"わたしの『文章読本』"なのだと思ふ。この本が何万部賣れたかは知らないが、本屋、或はたれかの書棚に並んでゐる同名の書物とはまつたく違つてゐる…といふ感覚、いや勘違ひが色濃くあると云つてもいい。ほら、附喪神といふのがあるでせう、あれに近い感じがする。かう書くと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も膝を打つて

 「ああ。確かにフェティッシュ(の一種)だ」

と納得を示して呉れるだらうか。嬉しくはないけれど。それに"本(といふ物体)に対してフェティッシュを感じる"とはどうも口に出しにくい。耻づかしいのではなく、こちらの語感に適はない。何か別の云ひ廻しはないものかと記憶の棚を探つて、"書痴"といふのを思ひ出した。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、本を道具扱ひする秋山眞之に対して、正岡子規にさういふ傾向があるとかそんなくだりで用ゐられた熟語。文脈でいふと、書物を粗略に扱へないたちとか、それくらゐの(詰り病的ではない)ところに、"痴"といふきつい字が飛び込んできたから、本筋には関らないこの場面が記憶に残つて、それがここで活きてきた。讀書も偶には役に立つねえ。尤も書痴といふ熟語を目にしたのはその一度きりなのを思ふと、日本語の中では地味なのだらう。

 その書痴。字面はきついが、"書物へのフェティッシュ"より、肌に適ふ感じがする。同類の言葉にビブリオ・マニヤがあるが、それはまた別の嗜好であらう。荒俣宏のやうに稀覯本にうつとりする人びとに似合ふ。では書痴の何がどう肌に適ふと訊かれても、そこのところは六づかしい。今に到る讀書が作つた言葉や文字への好みがさう感じさせるのですと云ふのが精一杯なのだが、多少の無理を感じつつ考へを進めると、書物フェティッシュには撫でさする事自体を悦ぶ語感がビブリオ・マニヤに近しいと思へる。書痴だと稀少価値には目を瞑り

 「乏しいお小遣ひから捻り出して買つた」

一冊を大事にしてゐる感がある。序でに云へば、電子書籍に手を出してゐない(心理的な)事情も、この辺に潜んでゐるのではないかとも思へる。音樂を買はうとする時、ジャケットも含めて慾しいかどうかを考へるのと同じくらゐ、本だつてラパーのデザインやイラストレイションが大事であつて(筒井康隆山藤章二丸谷才一和田誠を思ひ出し玉へ)、そこに財布の中身といふ切實な條件が重なると、その結果はどうしたつてフェティッシュより痴に近づくにちがひない。もしかすると『痴人の愛』を連想してゐるのだらうか。

 嗚呼。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ

 「自分に都合よく引寄せてゐるなあ」

と笑ふ莫れ。實際はどうあれ、言葉とはそんなものであるのだし、そんなものであるといふ事をわたしはきつと本から教はつた。今になればあの本に丹念に線を引き、或は書込んでゐれば、自分の考へ方の変遷も含めてもつと踏み込めたかも知れないとも思ひもするが、四十年はもう遅い。失敗だつたのかなあ。

405 曖昧な静岡

 東海道新幹線に乗ると東京から神奈川静岡愛知岐阜滋賀京都を経て新大阪驛に着到する。この府県中一ばん馴染みを薄く感じるのが静岡県で、何故だらうと思つた。熱海と下田にあはせて五回か六回は足を運んでゐるから、古馴染みとまではいかなくても、親みを感じて不思議ではないのに。

 考へられる理由として、熱海は神奈川の属國、下田には獨立した半島國の印象が強い事が挙げられる。都道府県でなく律令國に近い掴み方だね、これは。六十余州とか三百諸侯とか、細分化したのはうまい發想であつた。今の熱海人や伊豆半島人がどう思ふかは別の話だけれど。

 併し静岡に何も無いわけでないのは勿論で

 

 金目鯛にしらすに櫻海老。

 おでんに餃子に鰻(パイ)

 お茶と蜜柑と山葵もさう。

 富士の眺望も忘れてはならず、タミヤバンダイヤマハも静岡が本拠だつたと思ふ。

 

 歴史の方向から見ると

 

 倭建命の東征(神話とも云へるが事實の破片は紛れてゐる筈だ)、源頼朝の挙兵と伊勢新九郎…後の北条早雲…の東國制覇は伊豆から始まつたし、江戸に幕府を開いた狸親父も元を辿れば三河土豪だつた。外の細かい事を云ひ出すと切りがないから、そこは省略するが、要するに侮り難い。にも関らず、東海道新幹線の乗客であるわたしが静岡に抱くのは

 「東西に無闇に長い、通過に時間の掛かる土地」

といふ印象であつて、静岡人よ怒り玉ふな。この落差は何なのか、こちらも不思議なんである。

 

 見も蓋もなく云ふと広すぎる。単純な面積の話でなく、律令時代で云へば西から遠江國と駿河國、それから伊豆國が纏まつたのが静岡県と考へれば、その分印象が纏まらない(更に云ふなら富士山麓の伏流水にも恵まれてゐるから、酒精も豊かである筈なのに遠州駿州豆州でこれだといへる銘柄が浮ばないのは奇妙と云ふ外にない。果物の栽培も盛んだといふから、葡萄酒を醸すのにいい土地ではないのだらうか)、…濱松と焼津と熱海が同じ県に思へるだらうか…のは当然であつて、静岡県民には気の毒ではある。併し上述したとほり、静岡は油断がならない。餃子としらすと山葵を同時に樂むのは國がちがふから些か困難ではあるし、どの國に何があるかをある程度は事前に知つておく方が望ましいとも思ふが、行けば行つたでどうにかなりさうな気もする。

 

 そこで調べると、"ぷらっとこだま"といふ一種のツアーがあつた。これを使ふと東京發静岡行の指定席正価で片道六千四百七十円が四千八百円で済む。乗車時間は一時間二十分くらゐ。金額と時間だけで云へば新宿から甲府特別急行列車あずさ號と大して変らない。静岡驛前にあるチェーンのビジネス・ホテルが五千円程度だから往復と一泊で一万五千円。漠然と考へてゐたよりぐつと現實的な値段である。

 尤もこだま號や静岡で呑む分や、静岡驛からどこに足を運ぶかは考慮の外だし、足を運ぶ場所によつては一泊が二泊になるかも知れないから、一万五千円にどれくらゐ加算出來るかが大切だと云つていい。

 と、ここまで考へを進めて、では具体的に幾らくらゐ掛かるだらうと思ふと、そこがさつぱり判らない。静岡に行く事しか考へてをらず、静岡驛を起点にどこへ行けるかのも知らないのだから、さつぱり判らなくて当り前である。なんて怠けものだと呆れられると思ふが、わたしの興味がそこまで達してゐないらしいから仕方がない。

 

 とは云ふものの、知らないから行くべきではないと結論するのは気に入らない。なので何はともあれ行つてみてもいいだらう。地元の人びとが集まるやうなお店に潜り込み、地元の常連が呑んでゐる酒肴を樂むのは惡くない。風光明媚な名所や由緒ある古刹もいいけれど、なまの人間がゐる場所が肌に適ふ方がもつと大事で、果してそこに一万五千円プラス・アルファの貴重なお小遣ひを出せるのか。都内でちよいと贅沢に呑めばそれくらゐのお金が飛ぶ事を思へば、博奕と云へさうな…都内でなら知つた店が幾つかあるし、何がうまいかも大体の値段も見当が附く…気もする。

 その一方で遠方の酒肴は、こちらの好みにぴたりとはまれば、それだけ趣が深くなるもので、これは(一応の)経験からもまちがひない。財布と気分に余裕があれば、仮に失敗つても、その失敗り自体が別の肴になる。詰り肴に出來る(プラス・アルファの)閾値をどう設定するかが問題になる。ここの讀みは重要だから、今は具体的な額まで考へない。少しは調べる方がよからうといふ實際的な判断があるのは勿論なのだが、ふはふはと曖昧にしておく樂みも確かにあるからで、我が親愛なる静岡県民よ、これもまた敬意を表する手法のひとつなのだとご理解頂きたい。

404 焼き鳥を喰ふべし

 我われが焼き鳥を喰ふべしと思ふ時、その鳥は鶏の筈で、鳥はbirdを、鶏はchickenを指す。以下その積りで書く。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもその積りでお願ひしますよ。この稿では、全国やきとり連絡協議会の[やきとりの歴史]

https://www.zenyaren.jp/yakitori/encyclopedia/history

を主に参考としつつ、その他の資料も参照して書き進める。何だか大上段に振りかぶつた感じもするが、かういふハツタリはこの手帖で頻用する手法だから、咜られる心配はしなくてもいいでせう。

 最初に気になるのは、上の協議会が"やきとり"と平仮名表記を採つてゐる事で、鶏の字、chickenの意を避けた気配が感じられる。不思議である。

 鶏の原種はよく判つてゐないらしい。東南アジアの鳥がご先祖で、中國辺りで家畜化されたといふ説がある。日本に持ち込まれたのは紀元前二世紀頃と考へられてゐるさうで、これは彌生時代。未だ文字による記録は生れてゐない。ここで鶏に関係無くこの時代の有名人を挙げると

 劉安

 →前漢の貴族。劉邦の孫で『淮南子』の著者。

 司馬遷

 →前漢の歴史家。『史記』の著者。

 スキピオ・アフリカヌス

 →共和制ローマの将軍。"ザマ会戰"の勝者。

 ハンニバル・バルカ

 →カルタゴの将軍。"ザマ会戰"の敗将。

 ルキウス・コルネリウス・スッラ

 →ローマの将軍。内乱を平らげた獨裁官。

まことに豊かな歴史の時代が既に重なつてゐて、かれらが当時の日本を見たら、蕃族以外の形容は浮ばなかつたらう。上記協議会が記すところだと、その蕃族…訂正、彌生日本で

 

 鶏は飛ぶ力が弱くて捕えやすく飼い馴らしやすいことに加え、夜明け前に規則正しく鳴くことが時計の代わりに用いられた。

 

とある。食用ではなかつたらしい。更に引用を續けると、数百年ほど下つた古墳時代になると

 

 鶏を形取った埴輪「鶏形埴輪」が古墳の副葬物となった。(中略)「鶏形埴輪」は、鶏が生活に身近な存在であったことを示すとともに、葬送に重要な役割を担っていたと考えられる。鶏は、夜の世界から朝の世界へと人々を導く鳥であり、闇を払う力を持つと信じられていた。水鳥を形取った「水鳥形埴輪」もある。見知らぬ土地から飛来する水鳥は「魂を運ぶもの」と考えられ、悪霊を防いで死者の魂を浄化すると考えられたようだ(中略)規則的な朝鳴きや飛来といった鳥の行動は、当時の人間たちにとって不可解なものであり、神の思し召しによる行動と受取られた。鳥はあの世とこの世を結ぶ存在の「聖鳥」となり、死者の霊を守るために「埴輪」へと姿を移した。

 

さうである。遺跡からの出土が少量である点を重く視て(また当時は随分小さな種類でもあつたらしい)、鶏の利用は鳴き声で朝を報せる"時告げ鳥"の役割が主だつたのではないかといふ説もある。どうも家禽ではなく呪具に近い扱ひだつたらしい。食べたとしても仕方なくだつたのか。

 併し仕方なくだつたとしても、鳥自体を食べてゐたのは確實で、七世紀の半ば過ぎに天武帝が"肉ヲ喰ツテハナラヌ"といふお触れを出してゐる。牛馬、狗、猿、それから鶏。ざつと百年前に佛教が伝はつてゐるから、それかと思つたが、だとすると肉食全般を禁じなかつた理由が判らない。この肉食禁止は耕作期の季節限定でもあつたらしい事も含めると、佛教的な禁忌の感覚ゆゑの詔ではなかつたと考へていい。

 牛馬は耕作に欠かせず、

 狗猿はひとに親みのある動物で、

 鶏は前述が示す通り聖鳥。

 猪や鹿の類が禁令に含まれなかつたのは、耕作に使はない上に親みが感じられるわけでもなく、聖獸でもなかつた(鹿が神使と看做されるのはもつと後になつてから)といふ単純な、単純が惡ければ實利的な事情に基づいた結果だらう。更に云へば当時の農耕民なぞ、殿上人にすれば自分たちとは異なる生きもの…税を搾り取る対象に過ぎなかつたに相違なく

 「あの奴輩が牛馬を喰らつた挙げ句に、税収が減るのは我慢ならん」

天武があからさまにさう考へたかは兎も角、その気配は濃厚に匂つてくる。兵隊と同じ糧食を喰つたカルタゴの勇将に比して、器の卑小さがはつきりするなあ。尤も地下人はしぶとい。こつそり喰ふのは止めなかつたのは明らかで、七十年余り後、聖武帝の御世に同じ意味の詔が出されてゐる。曰く

 

 馬牛ハ人ニ代リテ勤シミ労メテ人ヲ養フ。茲ニ因リテ先ニ明キ制有リテ屠リ殺スコトヲ許サズ。

 

語気が荒くなつてゐる。動物愛護の気運が高まつたからでないのは勿論だし、隆盛期の奈良佛教(半世紀余り後、空海密教最澄の天台が入ると、一ぺんに没落するのだが)が影響したとも考へにくい。経済的な、現實的な事情が聖武の口調を厳しくしたのだらう。鶏の側に立てば

 「〆られる心配をしないでいい」

時代だつたわけで、それは實に千年近く續く。尤も鳥食自体まで忌まれたのではなく、野鳥…ことに雉子がその代表格をつとめたらしい。協議会によると(表記と仮名遣ひはこちらで改めた)雉子を用ゐた中世の…鎌倉期から室町期にかけて…料理は主に

 

 干鳥

 →雉子の肉を塩をつけずに干して、削つてたべるもの。

 膾

 →生で食べる刺身。身を造りにし、醤をつけて食べた。荒巻して置いてゐた鳥を湯に入れ、さまして薄く引き蓼酢で食べることもあつた。

 焼物

 →身の中に少し赤身が残るように水をかけ、塩を振つて焼く。女性には直垂、男性には鳥の足を出す。

 串焼き

 →鳥の直垂を筋交ひに切り、串に刺してあぶる。中の汁を押し出して胡桃をかけて乾けばまたあぶる。

 

があつた。やうやく"串焼き"の文字が出てきて、長い道のりだつたなあ。ここで十七世紀から十八世紀にかけて、江戸期まで時間を早送りしませう。この頃に到つて鳥肉の天下は雉子から鴨に移る。但しこれは下層階級の話。鳥肉の格附けで云へば鶴が最上位だつた。どんな調理でどんな味なのか想像が六づかしいし、そもそも喰へるだけの肉を蓄へてゐるのかも判らない。孔雀の舌だか尻尾だかを珍重したローマ貴族にやつと追ひつけたと思ふのは皮肉に過ぎるか知ら。

 下層の更に下…貧乏旗本の次男坊やら三下奴やらは鴨にも手が届かず、かういふ連中は軍鶏を喰つた。"時告げ鳥"の役割は残つてゐただらうが、神聖性は随分と薄まり、時計代りだつたらしい。呪術性が無くなつたのを悲しむべきかは兎も角、その軍鶏料理が洗練された結果、火附盗賊改メ方の長官が軍鶏鍋に舌鼓を打つあの旨さうな場面が描かれる事になつたのは確かである。禍福はあざなへる縄の如し。とここまで書けばきつと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は或は首を傾げ、また驚くだらう。

 「今これだけ馴染みの鶏なのに、千数百年、我われのご先祖は(少くとも)(積極的に)食べてはゐなかつたのか」

まつたく同感で、わたしも驚いた。天和二年頃(十七世紀後半)の『合類日用料理抄』には

 

 鳥を串に刺し、薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申し時分、醤油の中へ酒を少加え、右の焼鳥をつけ、又一変つけて其の醤油の乾かぬ内に座敷へ出し申し候。

 

とあつて、現代のたれに近い焼き方なのだが、焼くのは鴫、鶉、雲雀、山鳥、鵯、鶫、雀に雉子などで、鶏が本格的に天下を取るのは實に明治以降。鍋にする軍鶏を捌いた後の臓物を串で焼いたのが、直接の原形…もつ焼きから始まつたといふ。下層貧民の食べものですな。そこから急激に地位を高めたのは、ごく大雑把に肉食への禁忌感が薄れた事(明治帝が朕ハ是ヨリ洋服ヲ着テ肉ヲ喰フと宣したのもあつたと思へる)と、文明開化といふ流行が後押しをした結果と見て、概ね誤りではない筈である。それが中層辺りまで拡がつた…臓物ではなく鳥肉自体を串焼きにする手法は、早くて大正の終り頃の登場と思はれる。この辺から鳥が鶏になつたのではなからうか。臓物串焼きに較べれば、高級だつたらうな。

 ぐつと品下つたのはブロイラーといふのか、鶏肉の大量生産(聖鳥に礼を失する厭な響きだなあ)が實用化されて以降と考へていい。ちよいと贅沢な酒の供が

 「いつでもつまめる廉なつまみ」

へと変化したわけで、わたしが焼き鳥で呑むのを覚えた昭和末期は、この廉価なブロイラー方式が主流だつた気がする。あの当時は今よりもつと食べものに無知だつたし、量は質に勝ると思つてもゐたから、その程度の店でしか呑まかつたのとも云へる。大体は盛合せ。ねぎまと股と手羽先とつくねと皮。貪り喰ひはしたけれど、どこで喰つた何が旨かつたか、丸で記憶に無いのは、その間接的な證拠であらうな。

 かういふ云ひ方をすると、焼き鳥屋の眞面目な親仁は怒りだすだらうが、調理としては至極単純である。鳥…いやもうここでは鶏と書くのが正確か…を小さく切つて串に刺し、直火で焼けばいいんだもの。これだけならば、わたしにだつて出來る。併し小さく切つた鶏を串に刺して直火で焼けば、焼き鳥一丁出來上り…とは云へない。サヴァラン教授も

 「肉を焼く才能は天賦である」

と教へて呉れる通り、火の扱ひ方や焼く時間に順序、味附けの技倆があからさまに出るのが焼き鳥で、股一本を取つてもちがひは直ぐに判る。要するに生焼けではなく、焦げつかせもせず、潤びながらも火の通つた具合に焼きつつ、塩胡椒やたれ、或は味噌を按配したのが旨い。教授の天与説は極端かも知れないにしても、修錬や経験は欠かせないのは疑念の余地が無い。別に舌が優れてゐると自慢する積りではなく、逆にわたしのやうに鈍感な舌の持ち主でも気がつけるのだと理解してもらひたい。さういふ技倆は備長炭を使つてゐますとか、朝に捌いた新鮮な肉とか、撰び抜いた塩とか、惹句を並べ立てられても判るものではなく…そこまで謳ふなら、下手は打てないだらうと想像は出來るとしても…、實際に旨いと思へるかどうかは、食べてみてからの判断になる。それで得心した焼き鳥を明日香の御陵に供へてみたいと思ふ事があるのだが、不敬の謗りを免れない態度だらうか。全国やきとり連絡協議会はこの点について、礼儀正しく沈黙をしてゐる。