閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

405 曖昧な静岡

 東海道新幹線に乗ると東京から神奈川静岡愛知岐阜滋賀京都を経て新大阪驛に着到する。この府県中一ばん馴染みを薄く感じるのが静岡県で、何故だらうと思つた。熱海と下田にあはせて五回か六回は足を運んでゐるから、古馴染みとまではいかなくても、親みを感じて不思議ではないのに。

 考へられる理由として、熱海は神奈川の属國、下田には獨立した半島國の印象が強い事が挙げられる。都道府県でなく律令國に近い掴み方だね、これは。六十余州とか三百諸侯とか、細分化したのはうまい發想であつた。今の熱海人や伊豆半島人がどう思ふかは別の話だけれど。

 併し静岡に何も無いわけでないのは勿論で

 

 金目鯛にしらすに櫻海老。

 おでんに餃子に鰻(パイ)

 お茶と蜜柑と山葵もさう。

 富士の眺望も忘れてはならず、タミヤバンダイヤマハも静岡が本拠だつたと思ふ。

 

 歴史の方向から見ると

 

 倭建命の東征(神話とも云へるが事實の破片は紛れてゐる筈だ)、源頼朝の挙兵と伊勢新九郎…後の北条早雲…の東國制覇は伊豆から始まつたし、江戸に幕府を開いた狸親父も元を辿れば三河土豪だつた。外の細かい事を云ひ出すと切りがないから、そこは省略するが、要するに侮り難い。にも関らず、東海道新幹線の乗客であるわたしが静岡に抱くのは

 「東西に無闇に長い、通過に時間の掛かる土地」

といふ印象であつて、静岡人よ怒り玉ふな。この落差は何なのか、こちらも不思議なんである。

 

 見も蓋もなく云ふと広すぎる。単純な面積の話でなく、律令時代で云へば西から遠江國と駿河國、それから伊豆國が纏まつたのが静岡県と考へれば、その分印象が纏まらない(更に云ふなら富士山麓の伏流水にも恵まれてゐるから、酒精も豊かである筈なのに遠州駿州豆州でこれだといへる銘柄が浮ばないのは奇妙と云ふ外にない。果物の栽培も盛んだといふから、葡萄酒を醸すのにいい土地ではないのだらうか)、…濱松と焼津と熱海が同じ県に思へるだらうか…のは当然であつて、静岡県民には気の毒ではある。併し上述したとほり、静岡は油断がならない。餃子としらすと山葵を同時に樂むのは國がちがふから些か困難ではあるし、どの國に何があるかをある程度は事前に知つておく方が望ましいとも思ふが、行けば行つたでどうにかなりさうな気もする。

 

 そこで調べると、"ぷらっとこだま"といふ一種のツアーがあつた。これを使ふと東京發静岡行の指定席正価で片道六千四百七十円が四千八百円で済む。乗車時間は一時間二十分くらゐ。金額と時間だけで云へば新宿から甲府特別急行列車あずさ號と大して変らない。静岡驛前にあるチェーンのビジネス・ホテルが五千円程度だから往復と一泊で一万五千円。漠然と考へてゐたよりぐつと現實的な値段である。

 尤もこだま號や静岡で呑む分や、静岡驛からどこに足を運ぶかは考慮の外だし、足を運ぶ場所によつては一泊が二泊になるかも知れないから、一万五千円にどれくらゐ加算出來るかが大切だと云つていい。

 と、ここまで考へを進めて、では具体的に幾らくらゐ掛かるだらうと思ふと、そこがさつぱり判らない。静岡に行く事しか考へてをらず、静岡驛を起点にどこへ行けるかのも知らないのだから、さつぱり判らなくて当り前である。なんて怠けものだと呆れられると思ふが、わたしの興味がそこまで達してゐないらしいから仕方がない。

 

 とは云ふものの、知らないから行くべきではないと結論するのは気に入らない。なので何はともあれ行つてみてもいいだらう。地元の人びとが集まるやうなお店に潜り込み、地元の常連が呑んでゐる酒肴を樂むのは惡くない。風光明媚な名所や由緒ある古刹もいいけれど、なまの人間がゐる場所が肌に適ふ方がもつと大事で、果してそこに一万五千円プラス・アルファの貴重なお小遣ひを出せるのか。都内でちよいと贅沢に呑めばそれくらゐのお金が飛ぶ事を思へば、博奕と云へさうな…都内でなら知つた店が幾つかあるし、何がうまいかも大体の値段も見当が附く…気もする。

 その一方で遠方の酒肴は、こちらの好みにぴたりとはまれば、それだけ趣が深くなるもので、これは(一応の)経験からもまちがひない。財布と気分に余裕があれば、仮に失敗つても、その失敗り自体が別の肴になる。詰り肴に出來る(プラス・アルファの)閾値をどう設定するかが問題になる。ここの讀みは重要だから、今は具体的な額まで考へない。少しは調べる方がよからうといふ實際的な判断があるのは勿論なのだが、ふはふはと曖昧にしておく樂みも確かにあるからで、我が親愛なる静岡県民よ、これもまた敬意を表する手法のひとつなのだとご理解頂きたい。