師走の晦日には蕎麦を啜つて、正月の三ヶ日にはお雑煮を食べておせちをつまむのが我が國の伝統で、多分二百年とかそれくらゐの歴史があると思ふ。たかが二百年と笑つてはいけない。二百年前は元號だと文政の初期。判りにくければ明治維新のほぼ半世紀前と云へばいいだらうか。そこから百年の激変を考へると、しぶとく生き延びてゐるならはしではないだらうか。矢張り判りにくいと嘆くひとの為に、文政の百年後は大正の半ば…武家町人の時代から文明開化を経て、デモクラシーがどうかうと人びとが囀ずるくらゐまで変化があつた…と云つておきませう。それに較べれは大正半ばから令和初年に到る百年の変化は大した事もないと思ひたくなる。
巨視的な話をする積りぢやあなかつた。惡癖ですね、反省しませう。
そこで話題を一ぺんに小さくすると、早鮓と冷たい蕎麦がわたしの家族の大みそかの例年で、蕎麦は母親の知人が新潟から送つて下さるのを啜る。正しい呼び方は知らないが、こちらではへぎ蕎麦と呼んでゐる。ざる蕎麦式に食べるのだが、漬物(山形のだしのやうに細かく刻んだ野菜で粘りけがあり、山形のだしと異なり山葵がきいてゐる)を、つゆには入れず、食べる分だけの蕎麦に乗せる。その場で擦り下ろしたのなら兎も角、チューブ入りの山葵より余程うまい。蕎麦マニヤは厭な顔をするか知ら。
翌正月元日にはお雑煮を食べる。このお雑煮に入れるお餅も、へぎ蕎麦同様に新潟から送つてもらつたもの。トースターで少し焦がしたのを澄し汁に入れる。歯応へといひ香りといひ、これなら普段の毎朝に食べてゐる食パンから交替させるのも吝かではないのだが、入手は六づかしいだらうな。さうさう、肥満を気遣つて呉れる貴女の為に云ふと、わたしは身長百七十センチメートル、体重五十八キログラム(いづれも公称)なので、毎朝のお餅のひとつやふたつくらゐなら、どうといふ事もない。序でに云へば、正月元日の一ばん最初はお芽出度うを云つて[久保田]をお屠蘇にする。
蕎麦の食べ方やらお屠蘇代りの銘柄はさて措き、大晦日から正月元日にかけての食卓は三十年余りの習慣である。例外は妻がゐた短い期間で、年越し蕎麦の代りに当時の義母が作つて呉れたちやんぽんを啜り、元日と翌日は双方の實家や親族の挨拶廻りをした。どんな感じだつたかは記憶に無い。
元日には"ニューイヤー驛傳"を、翌二日と三日は"箱根驛傳"を観る。こちらで例外だつたのは十数年前に沖縄市にゐた年で、観たくなかつたのではなく、単に中継されなかつたからである。あの時は確か年越し蕎麦代りに、那覇市の屋台でまづい醤油ラーメンを啜り(積極的にまづいと思へたラーメンは今のところ、あの一ぺんきりである)、元日にカップ麺の沖縄そばを食べ、おせちではなく[A&W]でハンバーガーを囓つた筈である。呑んだのは勿論お酒ではなくオリオン・ビールと泡盛だつたが、泡盛の銘柄は記憶に残つてゐない。
さうでない年には、正月二日には母方の親族の集りに参加した。過去形なのは数年前、母方の祖母が浄土に向つた後、お開きになつたからである。わたしは十月生れなのだが、早くも翌年の集り(月齢二か月半くらゐ)には参加してゐたさうで、大叔父から大枚五百円…半世紀前の五百円ですよ。大隈重信のお札だつたのは云ふまでもない…のお年玉をもらつたといふ。祖父母にとつて初孫だつたし、叔父叔母が結婚する前でもあつたから、特別扱ひだつたのだらう。
その集りでお年玉が樂みだつたのは当り前として、もうひとつ、祖母が炊いて呉れた棒鱈がまつたく旨かつた。一体におせちは少年にとつて嬉しくないもので、黒豆だの鰊の昆布巻きだのの何が美味しいのか、さつぱり判らなかつた。集りの食卓で主役を張るのは蟹すきだつたが、外につつくのは蒲鉾か玉子焼きが精々で、併し棒鱈は例外中の例外だつた。健勝だつた頃の祖母は年の瀬になると、干し鱈を買つて水で戻し、ゆつくり時間を掛けて焚き染めて、大鉢に盛るのだからまづい道理を考へる方が六づかしい。
きつと我が若い讀者諸嬢諸氏は、何とも古めかしい話だと呆れてゐるだらうな。
尤も丁寧に一讀すれば、年越し蕎麦を歓ぶのは兎も角として、おせちが旨いとはまつたく云つてゐないと解つてもらへるにちがひない。實際、今に到つてもおせちと聞いて思ひ浮ぶ食べものは嬉しいと思へない。昆布巻き、蒲鉾、牛蒡や蒟蒻や人参の煮もの。そのくらゐがあれば十分で、いや棒鱈も出來合ひがあれば食べるけれど、とても祖母の棒鱈には及ばない。記憶の改竄があるとして、その分を差引きしても断定しておく。
併しおせちがまづいと云ふ積りもなくて、吉田健一が"東京のおせち"(『私の食物誌』に収められてゐる)でこんな風に書いてゐる。
芋と人参と牛蒡と蒟蒻と焼き豆腐しか入れない東京のが(中略)昆布出しを取った間違いがない出來のものならば大木な丼に盛ってあっても三ヶ日を過ぎてまだ残っているということは先ずない。
(中略)
兎に角、正月に他のものよりも早く起きて既に出來上ったこのおせちを肴に同じく大晦日の晩から屠蘇散の袋が浸してある酒を飲んでいる時の気分と言ったらない。
確かにその通りと膝を打ちたくなつてくる。何故かと云ふに"大晦日からお正月に掛けての気分"が残らず詰つてゐるからである。勿論大晦日にナポリタン・スパゲッティを啜つた後、正月元日の朝にシェリーとロースト・ビーフのサンドウィッチをやつつけたつて構はないし、叉焼麺と酢豚と青椒肉絲と杏仁豆腐、それから紹興酒だつてよからうし、カレー・ライスにピザにソップに麦酒でも文句は出るまい。併しそれだと吉田の云ふ"飲んでいる時の気分と言ったらない"境地に達するのは非常に困難なのではなからうか。我が國の歴史が何年あるかは議論の余地が残されてゐるとして、千年に余るのはまあ確實と云つていい。さうなると二百年かそこらの時間は、それだけを見ると長いとは思ひにくいが、千年でいへば五分ノ一を占める。ナポリタン・スパゲッティやカレー・ライスや紹興酒がその坐を奪はうとしたところで、この先何百年かの風習にならなければ無理なのは疑念の余地が無い。それが詰り文化と呼ばれるもので、もつと云ふとそれは作るものではなく、守るものではないかとも思はれるのだが、いけない、また巨視的な方向に走つて仕舞つた。