閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

406 折らず書かずの失敗

 フェチといふ言葉がある。正確にはフェティッシュ。大掴みに物体や人間の躰の一部(たとへば髪の毛)に対する括弧附きの愛情と理解すればいい。括弧の中には性や偏や異常や変態を入れる事と、しつくりするのではないだらうか。赤瀬川原平は物質愛と訳してゐた。間違ひではないにしても、アブノーマルな手触りの薄い語感に思はれる。念の為に云ふと、これはフェティッシュといふ言葉に対しての感想で、フェチはどうでもいい。あつちは"大好き"の変種にすぎないもの。

 わたしにはフェティッシュな性癖でなければ傾向の持合せが無い。と思ふ。かういふ性癖は自覚を伴はない事があるから、曖昧な余地を残す方が安心といふものだ。

 と書いた直後に前言を翻すと、本が相手の場合は、さういふ感覚があるかも知れないと気が附いた。それは活字中毒でないのと訊かれるかも知れず、またその傾向があるのは認めるところでもあるが、いやその前に父親の讀書に触れる。某製藥会社で機械を相手にし續けた父にとつて、本は道具であつたし今もさうである。讀む本も娯樂とは無縁…将棋といふ例外はあるが…であつた所為か、栞代りに頁の隅を折り、書込みをするのにまつたく抵抗を感じないひとで、少年だつたわたしは時々父の本棚から抜き出した一冊の頁を捲り、到るところに折目と書込みがあるのを不思議に思つてゐた。詰りわたしはさういふ事をしなかつたので、これは母親の影響である。どうも文學少女の傾向があつたらしく、"ドリトル先生"や"くまのプーさん"は母から与へられた。参考までに云ふと前者は井伏鱒二、後者は石井桃子の素晴らしい翻訳で、どちらも立派な函入り。今でも欠片が記憶に残つてゐるくらゐだから、余程夢中になつたのだらう。話が逸れた。

 母親の本には書込みどころか折目も無く、すりやあ文學なのだから当然だよと云つてはならない。わたしの直ぐ傍には本があり、併し父母でその扱ひが丸で異なつてゐたのが要である。實用の道具と愛玩物。当時のわたしがんその区別を出來なかつたのは念を押すまでもないとして、少年には實用一辺倒の本が面白い道理もなく、ゆゑに(ここは探偵小説で犯人を指し示す名探偵の口調で)本に対する接し方は、母親のそれを無意識に眞似る結果になつた。

 折目は附けないし、書込みもしない。

 初版本や珍奇な版に興味は無い。

 手元にある本は丁寧に扱ふけれど、讀み返した結果、ぼろぼろになつても気にならない。

 函やラパーは決して棄てない。

 稀に賣る事はあつても棄てはしない。

 といふのがそれらで、たとへばわたしの"バイブル"である『文章読本』(丸谷才一/中公文庫)はもうよれよれだが、新しいのに買ひかへる気にはならない(追加して買ふ可能性はあるとしても)手元で何べんも讀んだ挙げ句のよれよれだから、それも含めて"わたしの『文章読本』"なのだと思ふ。この本が何万部賣れたかは知らないが、本屋、或はたれかの書棚に並んでゐる同名の書物とはまつたく違つてゐる…といふ感覚、いや勘違ひが色濃くあると云つてもいい。ほら、附喪神といふのがあるでせう、あれに近い感じがする。かう書くと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も膝を打つて

 「ああ。確かにフェティッシュ(の一種)だ」

と納得を示して呉れるだらうか。嬉しくはないけれど。それに"本(といふ物体)に対してフェティッシュを感じる"とはどうも口に出しにくい。耻づかしいのではなく、こちらの語感に適はない。何か別の云ひ廻しはないものかと記憶の棚を探つて、"書痴"といふのを思ひ出した。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、本を道具扱ひする秋山眞之に対して、正岡子規にさういふ傾向があるとかそんなくだりで用ゐられた熟語。文脈でいふと、書物を粗略に扱へないたちとか、それくらゐの(詰り病的ではない)ところに、"痴"といふきつい字が飛び込んできたから、本筋には関らないこの場面が記憶に残つて、それがここで活きてきた。讀書も偶には役に立つねえ。尤も書痴といふ熟語を目にしたのはその一度きりなのを思ふと、日本語の中では地味なのだらう。

 その書痴。字面はきついが、"書物へのフェティッシュ"より、肌に適ふ感じがする。同類の言葉にビブリオ・マニヤがあるが、それはまた別の嗜好であらう。荒俣宏のやうに稀覯本にうつとりする人びとに似合ふ。では書痴の何がどう肌に適ふと訊かれても、そこのところは六づかしい。今に到る讀書が作つた言葉や文字への好みがさう感じさせるのですと云ふのが精一杯なのだが、多少の無理を感じつつ考へを進めると、書物フェティッシュには撫でさする事自体を悦ぶ語感がビブリオ・マニヤに近しいと思へる。書痴だと稀少価値には目を瞑り

 「乏しいお小遣ひから捻り出して買つた」

一冊を大事にしてゐる感がある。序でに云へば、電子書籍に手を出してゐない(心理的な)事情も、この辺に潜んでゐるのではないかとも思へる。音樂を買はうとする時、ジャケットも含めて慾しいかどうかを考へるのと同じくらゐ、本だつてラパーのデザインやイラストレイションが大事であつて(筒井康隆山藤章二丸谷才一和田誠を思ひ出し玉へ)、そこに財布の中身といふ切實な條件が重なると、その結果はどうしたつてフェティッシュより痴に近づくにちがひない。もしかすると『痴人の愛』を連想してゐるのだらうか。

 嗚呼。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ

 「自分に都合よく引寄せてゐるなあ」

と笑ふ莫れ。實際はどうあれ、言葉とはそんなものであるのだし、そんなものであるといふ事をわたしはきつと本から教はつた。今になればあの本に丹念に線を引き、或は書込んでゐれば、自分の考へ方の変遷も含めてもつと踏み込めたかも知れないとも思ひもするが、四十年はもう遅い。失敗だつたのかなあ。