閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

440 丼王

 小學生の頃、國語の授業で

 「遠くの大きな氷の上を多くの狼十づつ通る」

といふ一文を教はつた。妙な文であつて、何かと云へばこれは"遠く"、"大きな"、"氷"、"多く"、"狼"、"十"、"通る"の仮名が、現代仮名遣ひではすべて"お"になるといふ意味がある。教科書で見た記憶は無いから、きつと担任の先生が考へたのだらう。この中に"王"の字は含まれてゐない。歴史的仮名遣ひの表記は"ワウ"、發音は"o-u"だから、現代仮名遣ひで書くと"オウ"となる。

 本題には関係が無い。外題からの連想に過ぎず、そこで國語の授業を思ひ出したのは、自分でも不思議だけれど。

 では何が本題かといふと、いやその前に廻りみちをするのだが、丼にめしを盛切り、おかずに相当するものを乗せるのが所謂丼もので、食事の一種として確立した歴史は意外と淺く、文化期…十九世紀の初頭であるらしい。参考までに云ふと先陣を切つたのは鰻丼。蒲焼きを熱いまま持帰る工夫に端を發すといふ。遡ると、ごはんに魚や野菜を乗せて汁をかける芳飯といふ食べ方はあつた。聞いた事が無い。それで『世界大百科事典』を見ると

 『本朝食鑑』(千六百九十七年)は,これはもともと僧家の料理で,飯の上に,野菜や乾魚を細かく切って煮たものあるいは焼いたものをのせ,汁をかけて食う,としている。より古く室町時代には宮廷や武家の間でも盛んに行われた。飯の上に,5種のものを盛るのが通例だったらしいが,その5種を春夏秋冬と土用になぞらえて置く置き方や,それをどのように食べていくかという食べ方などが,いろいろな故実書に書かれている。

また"五目飯"の項にも

 芳飯(包飯,苞飯,法飯とも書く)と呼ばれたのも同じもので,『料理網目調味抄』(千七百三十年)に〈鳧飯,雉子飯,鰝飯,めばる飯,初茸・松茸めし,皆鶏飯悖にして芳飯也,…又葱,牛旁,しめじ,椎茸,芹,焼麩,何れも線に切,味付,飯に覆たる皆包飯也〉

との言及がある。何だかいい加減な編輯(ことに引用の仕方)だなあ…そこは廻りみちの最中だから目を瞑るけれど。ざつと讀む限り、丼ものといふより、ちよつと豪華な汁かけめしに思へて、併しこれで一回の食事になるなら、丼ものの源流と見てよささうでもある。『本朝食鑑』や『料理網目調味抄』でわざわざ触れてゐるのは、さういふ調理法があつて、但し一般的ではなかつたからだらうか。だとすれば、めしとおかずをひと纏めにするのは、"特殊な食べ方"であつたと想像出來る。

 ではどうして"特殊"だつたのかと不思議になつて、そこはどうも判らない。おかずの皿がたくさん並ぶ食卓がえらいといふ事になつてゐたのか知ら。我われの食事は、ごはんといふ主役が揺るぎないから、そこを彩るおかずの数を大切にしたくなる気分も判らなくはないし、さういふ方向で変化を遂げてゐれば、丼ものが特殊扱ひされても納得はゆく。

 ではどうして鰻丼の發明以降、丼ものが急速にのしてきたのかが不思議になつて、こつちはもつとよく判らない。最初に飛びついたのはきつと、素早くめしを喰ふのが

 「粋つてエもんよ」

と袖を捲つた職人連中ではなかつたか。蕎麦をざつと啜りこむほどではないにせよ、食事としては簡素そのものだし、腹持ちも宜しい。更に云へば江戸末期は天麩羅が完成を見た時期だつた事も忘れてはならない。先行する鰻丼を知る天麩羅屋の親仁が、それを参考にしなかつただらうか。さういふ新潮流が明治の開國で爆發したと、ここでは想像したい。

 改めるまでもなく、明治維新は政治や経済は勿論、食生活の激変期でもあつた。何をどう料るかの範囲が一ぺんに拡大したわけで、我われのご先祖が種々戸惑つたのは疑念の余地が無い。当り前の話で大つぴらに獸肉を食べられると云つたつて、どこで仕入れてどんな調理をすればいいものか。無数の混乱と失敗が繰返されたにちがひないが、その試行錯誤の姿は判らない。ただひとつ、天麩羅の技法がほぼ確立してゐたのは、当時の料理屋にとつて幸運だつた。それはカットレットやフライに転用出來る技術で、逆もまた然りであつた。また揚げる技法に欠かせないのは、強い炎を安定して扱へる設備(序でに云ふと耐火性に優れた建物も)だが、開國で流入した技術がそれを可能にした。さういふ背景があつて生れたのがとんかつである。

 豚肉を厚く切つて

 薄い衣をつけ

 たつぷりの油を用ゐ

 時間を掛けて揚げる

といふのは我が國獨特の調理法であつて、餡麺麭(こちらも和菓子の伝統が背景に無ければ完成しなかつた)と並ぶ明治の偉大な發明と云つていい。偉大とは大袈裟なと笑ふのは簡単だが、それは現代の目で見るからなので…この辺りを論じ出すと、廻りみちから更に逸れるから止しにしませう。

 さ。そろそろ本題…例の閑文字に入りますよ。

 丼ものの変遷をごく大雑把に云ふと、鰻丼があつて、天丼に派生する。その技法を転用しつつ、西洋料理からの応用で誕生したのがかつ丼(ここで云ふ"かつ"はとんかつの意。牛肉や鶏肉や海老は含まれない)で、わたしはこのかつ丼こそ、丼の王さまではないかと思つてゐる。理由は既に書いた通りなのだが、簡単に纏めると、東西の食べものと調理法の合体が成功した初期の例と思はれるからで、尊敬の印と考へてもらつてもいい。

 こんな事を書くと、経緯と敬意は兎も角、王さま扱ひには異論が出るかも知れない。

 「それでも鰻丼には及ばない」

でなければ

 「玉座に相応しいのは天丼である」

とか、親子丼に他人丼、牛丼に豚丼、鐵火丼に中華丼、海鮮丼にロースト・ビーフ丼とそれぞれの支持者が熱弁をふるひさうで、どこかの國の大統領撰挙みたいになりさうだ。併し鰻丼は既に丼界では名誉職であり、天丼は残念ながら気障になりすぎであり、それ以外となると、かつ鰻天丼があつてこそ成り立つたのだから、登極するには格が足りない。従つてかつ丼を丼王と見なすのは、至極当然の態度なんである。

 ところでそのかつ丼にも幾つかの、或は幾つもの種類がある。ざつと云ふと、とんかつと玉葱を一緒に卵とぢにするのが基本。玉葱の卵とぢをとんかつにあはせる変形がある。外には西洋料理へ回帰した方向として、ウスター・ソースを掛け、またはウスター・ソースに浸けたものや、デミグラス・ソースを掛けたものがある。日本食に近寄つた方向では、味噌や醤油をたれにしたり、大根おろしを使ふものがある。それぞれの細かな差異には踏み込まない。卵とぢが基本なのかと訊かれさうだが、率直に云へば断定は六づかしい。併し馴染んでゐるし、幾つかのサイトでかつ丼の作り方を見ても、卵とぢが主流らしいと判断したと白状しておく。わたしが好むのは矢張り基本形のかつ丼

 「衣が潤びるぢやあないか。感心しない」

と眉を顰めるひとには、かつ丼のかつは、衣が潤びてこそ、かつ丼のかつなので、すすどい衣が所望なら、とんかつを召し上りなさいと反論しておきたい。

 陶器のがつしりした丼にみつしり詰められたごはん。とんかつを包む揺れる卵に香る玉葱。かつ丼はこれで完成するので(余分な事だが、三つ葉までなら何とか許容出來ても、グリン・ピースは認め難い)、後はごはんの最後の一粒まで、大地を掘り進めるやうに食べ尽せばいい。最後に残るのは、かつ丼を目の前に何を飲むのかといふ事だが、緑茶麦茶烏龍茶…妥協して壜麦酒ではないかと思ふ。丼界の玉座に非礼と云はれるだらうか。併しかつ丼は積極的に酒類を求めない点で珍しい食べものであつて、念を押すがこれはかつ丼の栄誉に些かの傷をつけるものでもない。その一方、わたしが知らないだけで、かつ丼に相応しい酒精があつても不思議ではない。小學生に戻つて、家庭科の授業で先生に訊いてみるか。

【参考URL】

キッコーマン:カツ丼

https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00001919/index.html

・味の素:豚ロース肉で作る 基本のかつ丼

https://park-ajinomoto-co-jp.cdn.ampproject.org/c/s/park.ajinomoto.co.jp/recipe/card/704016/amp/?usqp=mq331AQOKAGYAaSSy4bJjOH2pQE%3D

・ヤマサ:かつ丼

https://recipe.yamasa.com/recipes/76

サントリーかつ丼

https://recipe-suntory-co-jp.cdn.ampproject.org/c/recipe.suntory.co.jp/amp/recipe/005780/index.html?usqp=mq331AQNKAGYAfaA7IC33oveMg%3D%3D

439 西から東の佃

 ごはんとお供で作る輪つかと肴の輪つかは、多くの部分が重なる。どちらもお米出身だから、似合ひも近しくなるのだらうか。鯖の味噌煮、若芽と胡瓜と蛸の酢のもの、豆腐と油揚げのお味噌汁にごはんが適ふのは当然だが、お茶碗が徳利或は銚釐に代つてゐても不自然ではなく、困りもしない。中でも佃煮は様々の種類があつて、實にいい。店頭に並んでゐるのを目にすると、あれもこれも旨さうに思へる。

 わたしに馴染み深いのは、縮緬雑魚と山椒を醤油で煮詰めたやつで、お店にある縮緬山椒とはちがふ。あれは味醂だか砂糖だかを用ゐてゐてまづい…訂正、口に適はない。家ではおびいこと呼んでゐる。"お"は接頭辞。"びいこ"は雑魚の伊豫方言…幼児語らしい。祖母は山椒のあく抜きをせず、青いのを一ぺんに焚きあげたから、焚く時は家中に山椒の香りが立ちこめ、出來たては舌に響くほど辛かつた。今は母親があく抜きした山椒を事前に焚き、縮緬雑魚を後からあはせ焚くので、穏やかな味になつてゐる。そのままごはんに乗せていいのは勿論、白菜や野沢菜のお漬物にまぶしてよく、クリーム・チーズにあはせるのも旨い。味噌とチーズがあふのだからね、醤油があふのも当然であらうか。

 さう考へると、おびいこも(親戚には)含まれる佃煮は、応用の利く食べものであると判り、興味を惹かれたので、少し調べると、來歴が中々ややこしい。年表風に書くと

天正十年(千五百八十二年)

 本能寺ノ変。堺にゐた徳川家康畿内を脱け出さうとして神崎川で立往生しさうになつた時、佃村(現在の大阪市西淀川区)で、漁民から船と常備食の提供を受ける。

・慶長八年(千六百三年)

 江戸幕府開府。家康が大坂佃村の漁師を江戸に呼び寄せ、干拓地に住まはす(ここが後の佃島)

安政五年(千八百五十八年)

 青柳才助が佃島の塩煮を元に、佃煮と名附けた煮物を賣り出す。

文久二年(千八百六十二年)

 浅草瓦町の鮒屋佐吉が、当時は塩煮だつた佃煮に、素材を種類毎に分け、醤油を初めて使用するといふ改良を施す。

 元の元まで遡ると、大坂の漁撈民が用意してゐた、小魚や貝や海水や醤油で煮詰めたのが、佃煮に發展した事になる。家康と大坂佃には本能寺前からささやかな縁がある。上洛に際して住吉神社に参詣した際、近辺の漁民が渡し船を出し、また白魚などを献上したさうで、家康はひよつとすると

 「愛いやつ」

と思つただらうか。さう云へば後年の大坂ノ陣でも徳川方に協力した漁民が無作法御免の特権を得て、"くらはんか"舟の営業を認められた例があつた。骨の髄から農民土豪の親方だつた家康が、水ノ民に助けられたのは愉快といふか皮肉といふか。因みに"くらはんか"を現代語風に翻訳すると"(うちの舟で酒や餅や饅頭を買つて)喰へ"くらゐの意味。

 塩や味噌や醤油で保存食を作るのは、珍とする技法ではない。但しその技法で小魚の類を用ゐるのはどうだらう。さういふ収獲に恵まれた地域はある程度限られる筈で、瀬戸内から大坂湾…河口ならその條件を満たしてゐる。であればそこで培つた技術を持つて江戸に移つた漁民が、速やかに江戸で佃煮を作らなかつたのが不思議に思へる。ごく単純に、十七世紀初頭の江戸が、未開發の田舎町に過ぎなかつたからだと考へられる。些か乱暴に云へば、腹を満たせれば文句は出なかつたにちがひない。更に関八州では塩も醤油も碌なものが無かつた…野田や銚子の醤油が一人前になつたのは、早くても十八世紀の終り頃(それまでは関西から送られたものを"下リ物"と珍重してゐた)である…事情も忘れてはならない。江戸町民の洗練と粋は、開府以來の伝統といふより、二百年を掛けて開拓された土壌があつて成り立つた。

 現代の佃煮の直接的なご先祖は、鮒屋佐吉の工夫に帰するらしい。本名は大野佐吉。天保二年頃生れの下総人。郷士の倅であり、十台で神田於玉ヶ池に入門、千葉周作のもとで北辰一刀流を學ぶ。この時期は日本史でいふ幕末期の始まりでもあつて、嘉永六年にペリー艦隊の来航、翌年に日米和親条約が締結されてゐる。

 「こりやあ、いけない」

竹刀を振りながら、佐吉はさう考へたらしい。剣術には熱心であつたが、門下の俊英とまではゆかず、巷間が騒がしくなる様を見て、剣術でめしを喰ふのは無理だと思つたのか。千住で鮒の雀焼きを知つたかれは、自分でそれを淺草で賣り出し、評判を得る。大野佐吉が鮒屋佐吉と呼ばれるのはこの成功の後で、商人への鮮やかな転身といつていい。周作先生はどう思つたのだらう。佐吉の雀焼きで一ぱい呑りながら

 「あいつ、うめえこと、考へたな」

笑つたと信じたい。余談ひとつ。周作には定吉といふ弟がゐて、桶町に道場を持つてゐた。この定吉の弟子が坂本竜馬於玉ヶ池と桶町は密接な関係なのは云ふまでもなく、竜馬ももしかすると、佐吉の雀焼きをつまむ機会に恵まれたかも知れない。余談終り。

 佃島では、佐吉の前から雑魚や貝を煮詰めた食べものはあつて、既に佃煮といふ名前もつけられてゐた。但しそれは魚介を纏めて塩煮にしたものであつた。かれがいつ(安政の頃らしい)、どんな切つ掛けで佃煮…魚介の塩煮を口にしたかは兎も角、これは商ひになると考へたのは大したものである。尤も手放しで旨いと感じたかどうか。歓びつつ、寧ろ何とも云ひにくい不満を抱いたのではないかと思ふ。我われはここで佐吉が雀焼きで鮒の扱ひに馴れてゐた事を思ひ出したい。雀焼きは醤油や味醂でたれを作る。更に云へば佐吉は下総國葛飾、今で云ふ船橋で生れた事を併せて思ひ出したい。

 おそらく鮒屋の隅つこで、賣れ残りの鮒を煮詰めたのが最初だつたらう。商ひが商ひだから醤油は使へた筈だし、故郷から醤油の産地になつた野田までは遠くない。塩でなく、醤油で煮詰めてみるかと思ひついても不思議はない。それで

 「鮒の醤油煮の方が、旨いよなあ」

と感じただけなら並みの商人だが、佐吉は郷士から商人に転じたくらゐ嗅覚のすすどい男である。かれが気づいたのは、第一に醤油で煮詰めると旨いといふ事。第二には何でも一緒くたにせず、ひとつの種に絞る方がいいだらうといふ事。思ひ切つたなあ。当時の醤油は未だ高額な調味料だつたのが理由の第一。種をひとつにするといふ事は、それを大量に仕入れる必要があるのが理由の第二。詰り鮒屋式の佃煮を商へるだけ作らうとすると、たいへんにお金が掛かる。そこをどう乗り切つたのかは判然としないが、文久二年(大政奉還の六年前)に佃煮を扱ふ[鮒佐]を開いてゐる。安政期に塩煮を食べてから、短くて三年、長くて八年。その間に商賣として成り立たす算段を調へたと思ふと

 「間違ひなく賣れる」

さう確信した佐吉の執念深さには感心させられる。それで大評判を得たのだから、舌の確かさにも感心しなくてはなるまい。奥さんや鮒屋の店員が苦労したのか、佐吉と一緒に樂んだのか、その辺は曖昧である。

 後世の我われにとつて幸運なのは、[鮒佐]の佃煮の製法が近代的な"権利"に守られる前に出來た事で、かう云ふと[鮒佐]の社長…淺草橋に現存する…は厭な顔をするだらうか。するだらうな。併しそのお蔭で後追ひ猿眞似、競争が生れたのも一面かと思ふし、その競争が佃煮を豊かにしたとすれば、鮒屋佐吉…いや大野佐吉も(苦笑を浮べながらも)

 「ま。仕方ねえやな」

と呟くのではないか知ら。實際、今の佃煮は淺蜊に蜆に蛤、海苔は云ふに及ばず、椎茸に紫蘇に唐辛子、鮎鰯公魚、しらす穴子に小鯊に牛蒡に生姜、海老に鰻に牛肉まである。最早常備食ではあつても保存食ではないね。かういふのが四種五種、小皿であれば(チーズやお漬物を添へたら、もつと贅沢になる)、晩酌の肴とおかずを一ぺんに兼ねるわけで、まことに喜ばしい。尤も佐吉どんには申し訳ないが、主役を任すのはおびいこになる。伝統の味より半世紀近く馴染んだ味を優先するのだから、これくらゐの我が儘は許してもらへるだらう。

【参考URL】

・鮒佐

https://www.funasa.com/

全国調理食品工業協同組合:佃煮を知る

http://zenchoshoku.or.jp/info/?page_id=147

438 八杯

 先日何の弾みだつたものか、八杯豆腐といふ名前が目に入つた。豆腐料理なのは当然判つたし、見覚えのある字面でもあつたが、どんな食べものなのかが浮んでこず、取敢ず検索をしてみたら、直ぐに大体のところが判つた。かういふ時に便利ですな、インターネットは。最も基本的な手順は

 

 絹漉豆腐を薄切りか賽の目に切る。

 出汁(または水)六杯に酒一杯を混ぜて煮立て、その後に醤油一杯を入れてまた煮立てる。

 そこに豆腐を入れて加減を調へつつ温め、器に盛つて大根おろしを添へる。

 

 簡潔明瞭な調理法である。

 六対一対一でつゆを作るから、その名も八杯豆腐で、これもまた簡潔と云ふ外にない。

 ここで補足。豆腐の煮加減は、豆腐が揺れる程度。また出汁対酒対醤油の割合ひを四対二対二とする説、つゆに葛を入れてとろみを附ける説もある。

 事の序でに出典を調べると、『豆腐百珍』に収められてゐると判つた。出版は天明二年…十八世紀の終り頃。ひとつの食べものを題材に様々の料理を紹介する本の最初(期)であるらしい。またベスト・セラーでもあつた。こちらが断定口調になるのは、その後に鯛や甘藷、蒟蒻と百珍ものと呼べる本が出版されたからで、有名な卵百珍(正確には『萬寶料理秘密箱 卵百珍』)もこの系譜に属する。現代式の著作権なんていふ概念は無かつたから、賣れてゐる本の眞似をするのは平気だつたのだらうな。

 

 ところで『豆腐百珍』は何故、ベスト・セラーになつたのか知ら。

 

 「すりやあ君、豆腐が(現代よりもつと)馴染みのある食べものだつたからさ」

と云はれたら確かにその通り。馴染み深い食べものが百の料理になるのだもの、インパクトの強さは、令和の料理番組より遥かに上だつたにちがひない。その一方、江戸後期の識字率と出版の大変さを考へた時、それだけ…續篇や眞似本が出るくらゐ…本を讀む層がゐた事に驚いて仕舞ふのも、不思議ではないでせう。

 

 尤も当時の日本の識字率は、同時期の欧州に較べて、可成り高かつたらしい。理由は大雑把に経済で、詰り字が讀め算術が出來なければ、商家で偉い立場になれなかつた。江戸期にさういふ余地…學べば上に立てる(かも知れない)といふひとの流動性の高さと云つてもいい…が、(少くとも)中層社会にはあつたのは、記憶して損はしない。そこで解釈を拡大すると、その中層階級は(一部ではあつても)(多少は)生活に余裕を持てた。その階級の娯樂は芝居に寄席に講談、噂話でなければ黄表紙にちがひなく、そこに

 「豆腐でこれだけ、旨いもンが喰へますンです」

関西方言に寄つたのは『豆腐百珍』の出版が大坂だつたからで他意は無いが、さういふ本を手にした連中が

 「なンやこれ、おもろいやないか」

飛びつくのも当然ではあるまいか。わたしが町人だつたらきつと飛びつく、飛びつき序でに豆腐を買ふ。買つて取敢ず棚にあるものでひとつふたつ、作つてもみる。或は作つてもらふ。勿論お酒も用意する。令和の感覚なら、そンな阿房な話はあらへンやらうと笑はれかねないが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、自分が好き勝手に旅行が出來ず、インターネットなんぞは想像の外の…生涯の世界が自分の生れた町に限られてゐた天明にゐると思ひ玉へ。

 

 話がむやみに大きくなりさうだ。

 八杯豆腐に戻りますよ。

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  改めて考へると、大した名前ではありませんか。

 末広がりの八が冠にある所為か、目出度い感じがする。

 それが八杯とくれば、贅沢な感じがする。

 更にその八杯が作り方(と味はひ)を暗示もしてゐて、たれが考へたのか、ほぼ完璧な名附けだと思ふ。

 そのくせ作るのは面倒でなく…豆腐と酒と醤油があればいいのだもの…、これ以上手を抜くのは六づかしからうが、凝らうと思へば、たとへば"豆腐とつゆの、ベスト・マッチングの探究"方向があれば、"アレンジメントの工夫"方面を目指しも出來て、幾らでも凝れる。我われのご先祖もきつと『豆腐百珍』を讀みながら、あれこれ試しては

 「これは中々、うまい」

 「仕舞つた、失敗つた」

などと騒ぎたてたにちがひない。仮に作りすぎたつて、なーに、豆腐だし温めてもゐる。食べ尽しても、お腹をこはす心配はなかつたらう。わたしはまつたく不器用だが、八杯豆腐だつたらちよいと、工夫をしてみたくなる。

 汲み豆腐を使ふのはどうか知ら。

 出汁を削り節や昆布でなく、鶏(肉と骨)で採れば、しつかりした味になりさうだし、大根おろしに生姜を加へて青葱を散らせば、見た目も多少は花やかになるだらう。大根おろしの代りに味噌…日本のでもいいし、甜麺醤や豆板醤があれば中華風の八杯豆腐になるのではないか。トマトのソップ…だと豆腐が負けるかも知れない。ただの思ひつきだから實際に旨いかどうかの保證はしませんよ、念の為。それにこの思ひつきの幾つか、或は全部は既に試されてゐて

 「残念ながら八杯豆腐には及ばない」

と結論が出てゐない保證も無い。そこを気にせずにもうひとつ、厚揚げを使つてみたい。厚揚げの薄切り、といふと何となく妙な語感があるが、そこはそれとして、これならつゆが濃くても太刀打ち出來るし、薄切りの厚さ(矢張り妙な語感)の調へ方次第で、かるい肴になれば、ご馳走にもなる。かういふのが卓に並ぶ夜は、どうしたつてお酒でないと収まるまい。勿論ここは、優れた名附け親に敬意を表して八杯。

437 蕎麦を掻く

 蕎麦掻きといふ食べものがある。取り急いでWikipediaを見ると

 蕎麦粉を熱湯でこねて餅状にした食べ物。

 蕎麦粉を使った初期の料理であり、蕎麦切りが広がっている現在でも、蕎麦屋で酒のつまみとするなど広く食されている。「かいもち」ともいう。

と書いてある。大雑把に過ぎる。そこで『精選版 日本国語大辞典』を確かめる。

〘名〙 (「そばかき」とも) 熱湯に蕎麦粉を入れて練り、餠状に仕上げたもの。別に作った汁やからし醤油などにつけて食べる。蕎麦練り。蕎麦掻餠。そばがゆ。蕎麦の粥。《季・冬》

※咄本・昨日は今日の物語(千六百十四‐廿四頃)上「有夜秀吉公、夜食にそばがきを御このみなされ、御相伴衆へも下されける」

 Wikipediaと大して変らない。もう少し具体的な歴史は判らないものかと、BUSHOO!JAPANの[蕎麦の歴史は縄文時代から 江戸時代には将軍様への献上品にも並んだ]を見ると、そこには

 縄文時代には、そばの実をそのまま粥状にしたり、粉にした後水で溶いて焼いたりして食べていたそうです。

(中略)

 その實の特徴的なカタチと色から、色日本では"曾波牟岐(ソバムギ)"とか"久呂無木(クロムギ)"と呼ばれました。

 また、五世紀ごろには「そばがき」という料理が庶民の間で広まっていたことがわかっています。

(中略)

 記録上では『続日本紀』の養老六年が最も古いです。

とあつて、やうやく具体的な年代が見えてきた。養老六年を西暦に換算すると七百廿二年。令和の今から遡ると千三百年前。平城京への遷都の詔が出て十五年後だから、まだ奈良の姿は後の南都にはほど遠かつただらう。御門は元正…先代の元明帝に續く女帝で、女性から女性へ皇位が移つた、今のところ唯一の例である。上の『續日本紀』が我が國の正史(といふ扱ひ)といふ事まで含めると、既に蕎麦を食べる習慣はあり、それが記録に値するくらゐでもあつたと考へるのは間違ひにはなるまい。

 ところで千三百年前の"蕎麦の粉"はどの程度の挽き具合だつたのだらう。ざくざく砕いて

 「よし喰はう」

と思つたのではないか知ら。臼の技術史には不案内だから、勝手な想像ではあるのだけれど、そんな程度だから水で練るとか茹でるとかの工夫が求められたと考へれば、方向性ちがひと笑はれる心配は少さうにも思へてくる。当時の蕎麦好きが何をどう歓んだかは、歴史の謎にくるまれてゐるし、そもそもたかが備荒食に過ぎなかつた蕎麦が、賎民に好まれたものか甚だ疑はしい。

 併し蕎麦掻きが、"まづいけれど、無いよりはましな"食べものであり續けてゐれば、千三百年(念を押すとこれはヴェネツィア共和國史より僅かに長く、アウグストゥス登極以降のローマ史より稍短いくらゐの時間に相当する)の命脈は保てない。その間に幾つの調理法が登場し、また消えたかを思へば、"仕方なく食べる"だけではなかつたにちがひない。もしかすると、味噌だの醤油だのを活かすのに便利だつたのかと知れないけれども。

 ここまで書いてから云ふのも気が引けなくはないが、この手帖は率直を旨とするから云ふと、實は蕎麦掻きを食べた事が無い。だから食べてみたいと思つてゐて、ただどうも切つ掛けが掴めない。この稿を書く前に幾つか蕎麦掻きの画像を見たが、率直なところ、食慾をそそる姿ではない。だからなのか、食べさせる蕎麦屋が見当らないのも事情になる。だがもつと大きいのは、仮に"蕎麦掻き、あり 〼"と献立に書いてゐる蕎麦屋があるとして、何時頃に註文すればいいか、出てきた蕎麦掻きをどんな顔つきでつまむのか、その前に一人前でどの程度の量なのか(今は肴の扱ひらしいから、大した量ではなからうとは思ふ)、さつぱり或はまつたく見当がつかない…解らない。

 「莫迦だなあ。気にせず註文して、好きに食べるのが順当だよ。それに解らなければ訊けば、いいぢやあないか」

 その指摘の正しさは認めるのだが、わたしはさういふ行動が大変に苦手なんである。六づかしい料理ではないから、自分で蕎麦粉を捏ねればいいと云はれても、そもそもの蕎麦掻きを知らなければ、伝統に忠實…でなくとも、系列に属するのかどうかも判らない。蕎麦つゆ、大根おろし、山葵醤油。色々の食べ方があるさうだし、見た目は兎も角、蕎麦なのだから、まづくて喰へないとはならないだらう。お酒の一本も奢つて平らげてから、蕎麦切りに取り掛かれば、蕎麦食の古典と現代を樂めるわけで、元明元正両帝にはかういふ贅沢をご存知ではなかつた。

【参考URL】

Wikipedia:蕎麦がき

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8C%E3%81%8D

・精選版 日本国語大辞典:蕎麦掻

https://kotobank.jp/word/%E8%95%8E%E9%BA%A6%E6%8E%BB-2057549

・BUSHOO!JAPAN:蕎麦の歴史は縄文時代から 江戸時代には将軍様への献上品にも並んだ

https://bushoojapan.com/jphistory/edo/2019/12/31/90829

※引用に際しては表記等の一部を、閑文字式に変更した。

436 伝統重んずべし

 いきなり、引用。

 なほ行き行きて、武藏野の國と下つ総の國との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守、はや舟に乗れ、日も暮れぬ、といふに、乗りてわたらむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見しらず。渡守に問ひければ、これなむ都鳥といふをきゝて、

 名にし負はゞ いざことゝはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 『伊勢物語』の"東下り"の一部で、何となく知つてゐるひとはきつと少くない有名な箇所だと思ふ。この一首を詠んだとされるのは在原業平で、本当かどうかはさて措き、言問橋の名がこの歌に因むと云ふ。文學ですなあ。

 さて。

 このくだりを閑文字流に現代語訳をしてみますよ。

 (更に旅を進めると)武藏國と下総國の境に大きな川があつて、その名を隅田川といふ。

 「我われも随分と都から離れたものだ」

と云ひあつてゐると、川の渡守が

 「早くお乗りなさい、日が暮れて仕舞ふ」

と云ふものだから乗つて渡らうとするのだが、皆物寂しさを感じ、みやこに想ふひとがゐないわけでもないのにと思つてゐると、白い鳥…嘴と脚は赤く、鴨くらゐの大きさ…が水面で遊ぶやうに魚を食べてゐる様が見える。京では見掛けぬ鳥なのでたれも見知らず、渡守に

 「あれは何といふ鳥です」

と訊けば渡守が都鳥ですよと云ふのを訊いて

 名にし負はゞ いざことゝはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

と詠んだところ、舟の客は(遠く離れた京の懐かしいひとを思ひ出して)泪を流した。

 うんざりしたでせう。わたしもうんざりした。原文では気にならない、だらだらした、しだらのない感じが際立つてくる。舟に乗り込んでから都恋しやと泣くまでが一文を構成してゐて、情景と心情がごちや混ぜにもなつてゐる。現代の國語の授業でこんな作文を書いたら、手厳しく減点されるにちがひない。わたしが先生なら

 「もつと区切りを意識しませう」

と赤ペンで記すし、編輯者なら没にする。併しどうも日本語の文章にはかういふ性格が濃厚であるらしく、『源氏物語』の冒頭も

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 (閑文字訳/いつの頃であつたか、女御更衣が大勢ゐる中、出自は低いけれども、帝の寵愛を一身に受ける女がゐた)

であつた。時代と状況と中心になる女の紹介、更に"いとやむごとなき際にはあらぬ"の一節から、周辺の女どもの嫉妬(もつと云へばそこから起るだらう悲劇的な結末)まで暗示してあつて、矢張り文語だからある程度はすつきり讀めても、そのまま現代文にすると、何となく収まりが惡い。たとへば

 いつの御代であつた事か。出自の高からぬ或る女が、帝の寵愛を一身に受けてゐた。宮中には多くの女御も更衣もゐたのだつたが。

と三センテンスに分割する方が、現代文としては判り易くなる。良し惡しでなく、文語文と口語文ではちがふと云ひたいので、誤解されてはこまる。ただ繰返すと、現代文…口語文でも、文語文法式のしだらなさは生きてゐて、この手帖でもその傾向ははつきりしてゐる。

 尤も、とここから云ひ訳と本題に入つてゆくのだが、わたしがしだらなく書くのは、癖といふより吉田健一の影響(眞似とはとても云へない)である。[酒の味その他](『私の食物誌』所収)の冒頭のパラグラフは

 (前略)これから先のことは知らず、もし今までのうちで或る時飲んだ酒が一番旨かったならば、それはその時だけ酒を飲むべき形で飲んだのであって、酒はもしそれが酒の名に価するものならばいつでも飲み方に気を付けるだけで何ともかともという味がするように出來ている。その何ともかともを言い換えれば何とも旨いということで、それは一番旨いということであり、酒はいつでも今が一番旨いと思って飲むのでなければ嘘である。又無理にそう思わなくてもそういう風に旨いのでなければならない。

引いた部分は僅か三センテンスで、特に最初のセンテンスは何ともかとも長く、讀点が極端に少い。だからと云つて

 これから先のことは知らない。もし今までのうちで或る時飲んだ酒が一番旨かったならば、それはその時だけ酒を飲むべき形で飲んだのである。酒はもしそれが酒の名に価するものならば、いつでも飲み方に気を付けるだけで、何ともかともという味がするように出來ている。

と分割すると、センテンスの流れは途切れ、リズムはぐづくづに崩れて仕舞ふ。この批評家の文章はある種の焼酎やヰスキィのやうに癖はきついけれど、蒸溜…ではなかつた、推敲の結果がさうなので、馴染むと實に旨い。わたしがそこまで達してゐないのは改めるまでもないから、影響は認めつつ、眞似が出來てゐるとまでは云へない。

 併しさう考へると、歴史的仮名遣ひを常用する事自体、丸谷才一の影響である。丸谷が歴史的仮名遣ひを用ゐるようになつたのは、和歌に関はる評論を書く時、原文(文語で当然歴史的仮名遣ひ)を引用しつつ、現代仮名遣ひで本文を書くのに違和感があつたからださうで(いつかの随筆で触れてゐた筈だが手元で確認出來ない)、小説家といふのは凄いね…とダデアル調子の途中に、コローキアルな(或はデスマス調子の)一言を混ぜるのも、丸谷から教はつた。我ながら小手先計りだなあ。反省します。

 その小手先の影響や眞似は外にも色々思ひ出される。

 "何々だつた"を"何々であつた"と書きたがるのは菊池光。

 会話調の中で、"信じられん"を"信じられン"などと"ン"を使ふのは小池一夫

 その会話調を原則的に古めかしくする(リアリズムから遠いとも云へる)のは『浮雲』や『吾輩は猫である』、就中内田百閒。

 "何々と云つて(考へて)いい"といふ、断定と推測の間を曖昧にする文末は司馬遼太郎

 スプン(スプーン)、ホーク(フォーク)、マヨネィーズ(マヨネーズ)は茂出木心護。

 デジカメやスマホではなくデジタル・カメラやスマートフォン、特急ではなく特別急行列車のやうに省略を(出來るだけ)しないのは伊丹十三

 本文の途中に鉤括弧で茶々を入れるのは、たれの影響なのかは解らないが、自分で思ひついた手法でない事は、疑ふ余地が無い。

 影響は上に挙げたものだけではなく、自覚の無い分まで含めると、この手帖の殆どすべてがたれか何かの影響であり、眞似であるだらう。話を(自分に都合よく)広げれば、それは文學の基本的な手法で、上の列挙も"春は、あけぼの"から始まる『枕草子』冒頭や、これは凝つた構成だから引用すると

 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

 近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、これらはおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね。

といふ『平家物語』の冒頭(パラグラフ自体がさうだし、地理や時間まで並べてある)といつた"ものづくし"といふ技法に相当する。詰りこの手帖は伝統を重んじ、また『徒然草』の第百十七段

 友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

 よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。

で云ふ"物くるゝ友"と"智恵ある友"に恵まれてゐるのだと胸を張れなくもあるまい。残る問題はその恵みが各段に反映されてゐるかどうかで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏が"こぞりて泣きにけり"である可能性は果してどのくらゐなものか。