閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

439 西から東の佃

 ごはんとお供で作る輪つかと肴の輪つかは、多くの部分が重なる。どちらもお米出身だから、似合ひも近しくなるのだらうか。鯖の味噌煮、若芽と胡瓜と蛸の酢のもの、豆腐と油揚げのお味噌汁にごはんが適ふのは当然だが、お茶碗が徳利或は銚釐に代つてゐても不自然ではなく、困りもしない。中でも佃煮は様々の種類があつて、實にいい。店頭に並んでゐるのを目にすると、あれもこれも旨さうに思へる。

 わたしに馴染み深いのは、縮緬雑魚と山椒を醤油で煮詰めたやつで、お店にある縮緬山椒とはちがふ。あれは味醂だか砂糖だかを用ゐてゐてまづい…訂正、口に適はない。家ではおびいこと呼んでゐる。"お"は接頭辞。"びいこ"は雑魚の伊豫方言…幼児語らしい。祖母は山椒のあく抜きをせず、青いのを一ぺんに焚きあげたから、焚く時は家中に山椒の香りが立ちこめ、出來たては舌に響くほど辛かつた。今は母親があく抜きした山椒を事前に焚き、縮緬雑魚を後からあはせ焚くので、穏やかな味になつてゐる。そのままごはんに乗せていいのは勿論、白菜や野沢菜のお漬物にまぶしてよく、クリーム・チーズにあはせるのも旨い。味噌とチーズがあふのだからね、醤油があふのも当然であらうか。

 さう考へると、おびいこも(親戚には)含まれる佃煮は、応用の利く食べものであると判り、興味を惹かれたので、少し調べると、來歴が中々ややこしい。年表風に書くと

天正十年(千五百八十二年)

 本能寺ノ変。堺にゐた徳川家康畿内を脱け出さうとして神崎川で立往生しさうになつた時、佃村(現在の大阪市西淀川区)で、漁民から船と常備食の提供を受ける。

・慶長八年(千六百三年)

 江戸幕府開府。家康が大坂佃村の漁師を江戸に呼び寄せ、干拓地に住まはす(ここが後の佃島)

安政五年(千八百五十八年)

 青柳才助が佃島の塩煮を元に、佃煮と名附けた煮物を賣り出す。

文久二年(千八百六十二年)

 浅草瓦町の鮒屋佐吉が、当時は塩煮だつた佃煮に、素材を種類毎に分け、醤油を初めて使用するといふ改良を施す。

 元の元まで遡ると、大坂の漁撈民が用意してゐた、小魚や貝や海水や醤油で煮詰めたのが、佃煮に發展した事になる。家康と大坂佃には本能寺前からささやかな縁がある。上洛に際して住吉神社に参詣した際、近辺の漁民が渡し船を出し、また白魚などを献上したさうで、家康はひよつとすると

 「愛いやつ」

と思つただらうか。さう云へば後年の大坂ノ陣でも徳川方に協力した漁民が無作法御免の特権を得て、"くらはんか"舟の営業を認められた例があつた。骨の髄から農民土豪の親方だつた家康が、水ノ民に助けられたのは愉快といふか皮肉といふか。因みに"くらはんか"を現代語風に翻訳すると"(うちの舟で酒や餅や饅頭を買つて)喰へ"くらゐの意味。

 塩や味噌や醤油で保存食を作るのは、珍とする技法ではない。但しその技法で小魚の類を用ゐるのはどうだらう。さういふ収獲に恵まれた地域はある程度限られる筈で、瀬戸内から大坂湾…河口ならその條件を満たしてゐる。であればそこで培つた技術を持つて江戸に移つた漁民が、速やかに江戸で佃煮を作らなかつたのが不思議に思へる。ごく単純に、十七世紀初頭の江戸が、未開發の田舎町に過ぎなかつたからだと考へられる。些か乱暴に云へば、腹を満たせれば文句は出なかつたにちがひない。更に関八州では塩も醤油も碌なものが無かつた…野田や銚子の醤油が一人前になつたのは、早くても十八世紀の終り頃(それまでは関西から送られたものを"下リ物"と珍重してゐた)である…事情も忘れてはならない。江戸町民の洗練と粋は、開府以來の伝統といふより、二百年を掛けて開拓された土壌があつて成り立つた。

 現代の佃煮の直接的なご先祖は、鮒屋佐吉の工夫に帰するらしい。本名は大野佐吉。天保二年頃生れの下総人。郷士の倅であり、十台で神田於玉ヶ池に入門、千葉周作のもとで北辰一刀流を學ぶ。この時期は日本史でいふ幕末期の始まりでもあつて、嘉永六年にペリー艦隊の来航、翌年に日米和親条約が締結されてゐる。

 「こりやあ、いけない」

竹刀を振りながら、佐吉はさう考へたらしい。剣術には熱心であつたが、門下の俊英とまではゆかず、巷間が騒がしくなる様を見て、剣術でめしを喰ふのは無理だと思つたのか。千住で鮒の雀焼きを知つたかれは、自分でそれを淺草で賣り出し、評判を得る。大野佐吉が鮒屋佐吉と呼ばれるのはこの成功の後で、商人への鮮やかな転身といつていい。周作先生はどう思つたのだらう。佐吉の雀焼きで一ぱい呑りながら

 「あいつ、うめえこと、考へたな」

笑つたと信じたい。余談ひとつ。周作には定吉といふ弟がゐて、桶町に道場を持つてゐた。この定吉の弟子が坂本竜馬於玉ヶ池と桶町は密接な関係なのは云ふまでもなく、竜馬ももしかすると、佐吉の雀焼きをつまむ機会に恵まれたかも知れない。余談終り。

 佃島では、佐吉の前から雑魚や貝を煮詰めた食べものはあつて、既に佃煮といふ名前もつけられてゐた。但しそれは魚介を纏めて塩煮にしたものであつた。かれがいつ(安政の頃らしい)、どんな切つ掛けで佃煮…魚介の塩煮を口にしたかは兎も角、これは商ひになると考へたのは大したものである。尤も手放しで旨いと感じたかどうか。歓びつつ、寧ろ何とも云ひにくい不満を抱いたのではないかと思ふ。我われはここで佐吉が雀焼きで鮒の扱ひに馴れてゐた事を思ひ出したい。雀焼きは醤油や味醂でたれを作る。更に云へば佐吉は下総國葛飾、今で云ふ船橋で生れた事を併せて思ひ出したい。

 おそらく鮒屋の隅つこで、賣れ残りの鮒を煮詰めたのが最初だつたらう。商ひが商ひだから醤油は使へた筈だし、故郷から醤油の産地になつた野田までは遠くない。塩でなく、醤油で煮詰めてみるかと思ひついても不思議はない。それで

 「鮒の醤油煮の方が、旨いよなあ」

と感じただけなら並みの商人だが、佐吉は郷士から商人に転じたくらゐ嗅覚のすすどい男である。かれが気づいたのは、第一に醤油で煮詰めると旨いといふ事。第二には何でも一緒くたにせず、ひとつの種に絞る方がいいだらうといふ事。思ひ切つたなあ。当時の醤油は未だ高額な調味料だつたのが理由の第一。種をひとつにするといふ事は、それを大量に仕入れる必要があるのが理由の第二。詰り鮒屋式の佃煮を商へるだけ作らうとすると、たいへんにお金が掛かる。そこをどう乗り切つたのかは判然としないが、文久二年(大政奉還の六年前)に佃煮を扱ふ[鮒佐]を開いてゐる。安政期に塩煮を食べてから、短くて三年、長くて八年。その間に商賣として成り立たす算段を調へたと思ふと

 「間違ひなく賣れる」

さう確信した佐吉の執念深さには感心させられる。それで大評判を得たのだから、舌の確かさにも感心しなくてはなるまい。奥さんや鮒屋の店員が苦労したのか、佐吉と一緒に樂んだのか、その辺は曖昧である。

 後世の我われにとつて幸運なのは、[鮒佐]の佃煮の製法が近代的な"権利"に守られる前に出來た事で、かう云ふと[鮒佐]の社長…淺草橋に現存する…は厭な顔をするだらうか。するだらうな。併しそのお蔭で後追ひ猿眞似、競争が生れたのも一面かと思ふし、その競争が佃煮を豊かにしたとすれば、鮒屋佐吉…いや大野佐吉も(苦笑を浮べながらも)

 「ま。仕方ねえやな」

と呟くのではないか知ら。實際、今の佃煮は淺蜊に蜆に蛤、海苔は云ふに及ばず、椎茸に紫蘇に唐辛子、鮎鰯公魚、しらす穴子に小鯊に牛蒡に生姜、海老に鰻に牛肉まである。最早常備食ではあつても保存食ではないね。かういふのが四種五種、小皿であれば(チーズやお漬物を添へたら、もつと贅沢になる)、晩酌の肴とおかずを一ぺんに兼ねるわけで、まことに喜ばしい。尤も佐吉どんには申し訳ないが、主役を任すのはおびいこになる。伝統の味より半世紀近く馴染んだ味を優先するのだから、これくらゐの我が儘は許してもらへるだらう。

【参考URL】

・鮒佐

https://www.funasa.com/

全国調理食品工業協同組合:佃煮を知る

http://zenchoshoku.or.jp/info/?page_id=147