閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

492 野菜を焼く

 串焼きは以前から好物である。

 以外と古くない調理法ではないかと思ふ。串はそのまま、肉や魚や貝や野菜を焼くには、火力の適切な調整が必要で、 さういふ設備を調へるのは困難だつたらうといふのが理由のひとつ。串を焼かず、肉や魚貝や野菜に火を通すには、相応の技術が求められるだらうことが、理由のもうひとつ。調理法としての確立がいつ頃かは知らないが、烹るの…これだつて貝殻や亀の甲羅、山羊や牛の胃袋を使ふのだから、相当に高級な技法である…に較べれば余程新しさうな気がされる。世界の串焼き史調理法史を調べたわけではないから、信用されてはこまるけれども。

 矢張り最初は獸肉だつたのではないか。今で云ふ骨附きの焙り肉。或は指でつまむには熱すぎる火の通つた肉を、その辺の木の枝で突き刺したか。事實はどうあれ、特定の天才が

 「閃いたぞ」

と發明したわけではあるまい。何かで刺せば食べ易いことに気が附いて、だつたら最初から刺せばいいんぢやないかとなつて、それが何千年か何万年か知らないが、洗練を重ねていつたにちがひない。我ながら安直な想像だが、原始的、失礼簡潔な調理の歴史はそんなところだらう。

 (串に)刺した獸肉を食べる手法が魚貝や野菜に拡大したのはところで、いつ頃からか、解る筈はない。確實なのは茹でて煮て、塩や味噌、酒粕に漬け込んでゐた野菜に、獸肉の食べ方を援用したのは大した工夫であつたと思ふ。そこで思ひ出すのは湯木貞一の本に書いてあつた、どこかのお寺で振る舞はれた、分厚く切つた表面を焦がすくらゐに焼いた大根の話で、専門家…念を押すが湯木は[吉兆]の初代である…がその野趣を喜んでゐた。その本は手元にないから(確か題は『吉兆味噺』だつたか)どんな味附けだつたかは勿論、串に刺してあつたかどうかははつきりしない。お寺で出したのなら、味噌でも添へたのか知ら。兎にも角にも妙に旨さうに感じたのは忘れ難い。

 そこで思ひ出すと、少年のわたしにとつて"火の通つた野菜"は野菜炒めでなければ天麩羅(薩摩芋と南瓜)で、焼くといふ撰択肢はなかつた。詰り野菜の串焼きを知つたのは少年ではなくなつた年齢である。きつと"串焼きの盛合せ"か何かで食べたのだらうが、いつ頃どこでだつたのか。何を呑みまた喰つたかの記録は高々十年かそこらしか残つてゐないから、詳しいところはもう判らない。それを旨いと感じるに到つたのは近年になつてから、きつと独りで呑むのが平気になつてからなのは、併し間違ひない。白葱。獅子唐。玉葱。大蒜。わたしは必ず塩で註文する。主義主張があつてではなく、ただの習慣。さういふ食べ方を續けて

 「野菜を上手に焼くのはもしかすると六づかしいんではなからうか」

といふことに気が附いた。同じ店で別の日に白葱を焼いてもらつて、味がちがふとはつきり判るのは珍しくない。丸太が行くのは大体いい加減な呑み屋だからね、と云はれたらそこはまあと頭を掻いて誤魔化しながら、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、さう感じたことはありませんかと、腰を低くして問ひ掛けはしておきたい。

 實際のところ、上手が焼いた白葱は、ちやんと焼けてゐながらも、残つた水気がまことに嬉しい。かういふひとが大蒜を焼けば歯触りが快いし、獅子唐なら焦げた苦みと共に獨特のさはやかさが感じられる。何より塩で焼きつつ野菜特有の甘みがあり

 「塩梅の宜しきを得るとは、かういふことか」

と頬が緩む。乱暴に比較すると、獸肉より余程それは繊細または複雑な味はひ(獸脂の旨さは十分に認める)で、ある程度の呑み喰ひの経験が無ければ、中々判りにくいのではないかと思ふ。わたしもやうやくその年齢に差し掛つたらしく、吉兆初代の頬を綻ばせたといふ焼き大根がたいへん気になる。これは理の当然、人情の当然であつて、併し自分でどうかうする自信は無い。掘つてもいで焼くだけの分、曰く云ひ難いこつがあるのだらうと思はれて、その辺りの見当がさつぱりつかない。枯れ葉を集めたお寺の庭で焼かなくてはならないのだらうか。

491 殿上人もご存知ない

 麦酒。お酒。葡萄酒。焼酎。泡盛。ヰスキィ。ウォトカ。わたしが主に呑む酒精はおほむねこんなところで、念を押すと葡萄酒にはシェリーやコニャックも含まれるし、焼酎は黒糖米麦芋を纏めてあり、ヰスキィにはアイリッシュもスコッチも入つてゐる。それぞれの酒精が育つた土地で、それぞれに育つた似合ひの食べものをあはせる…たとへばお酒と干し魚…のは、呑み助の歓びと云つていい。その一方で意外な組合せの旨さを知るといふ嬉しさも捨て難い。實例として葡萄酒とおでんを挙げませうか。添へられたのは和辛子ではなくマスタードだつたが、さういふ工夫も含めて旨かつた。併しさうなると今度は

 「ちよと手を掛ければ、どの酒精にも横断的に似合ふ」

食べものはあるのか知らといふことが気になつてくる。そんな都合のいい話、ある筈はないぢやあないかと云ふのは簡単だし、案外と事實かなあと感じもするのだが、そこで立ち止まるのは面白みに欠ける。まあひとつ、考へてみませう。

 一ばん初めに浮ぶのは豆腐でせうね。冷奴温奴湯豆腐ならお酒に適ふし、島豆腐といふ堅いやつはちやんぷるーに必須である以上、泡盛焼酎で旨いに決つてゐる。麻婆豆腐なんかはかなり間口が広さうでもある。とは云へヰスキィや葡萄酒にはあはしにくくも思へる。アイリッシュ・シチューやブイヤベースに豆腐を入れて、それが豆腐を食べることになるのかどうか、議論の余地はある。外に何があるだらう。

 鰯、鯖、烏賊の辺りなら問題はあるまい。尤もその"問題なからう"は、世界中でありふれてゐるからなので、寧ろ適はない方が不思議であらう。それに豆腐といふ大豆の加工食品と魚介といふ云はば素材を同列にするのは何かちがふ気がするし、魚介と蒸溜酒の相性はそれほど宜しくない…といふのがささやかな経験則でもある。さう考へると、ベーコンやハム、ソーセイジの類が浮んでくるが、肉と酒精は適ふのが当然で、わざわざ挙げなくてもよい。

 何で讀んだか覚えてゐない。あるヨーロッパ人が中華料理を散々味はつた後

 「ミルクを使はないのは何故だらう」

さう首を捻つたといふ。ソースにバタを用ゐない、デザートにも出ず、アイスクリームもない。一讀して、ははあと思ひましたね、この指摘には。食事にミルクを積極的に使ふのは(西)ヨーロッパの習慣なのか。インドにはギーといふ一種のバタがあるが、あれは調味料の一種と見立ててよい。臺灣や東南アジア、或は中近東で、ミルクを様々に使ふのか知ら。

 翻つて我が國でも最近までミルクを積極的に使ひはしなかつた。大昔の朝廷には牛乳司…大和ことば風に"ウシノチチノツカサ"と訓みたい…と呼ばれる役職があつたさうだし、蘇や酪といつた加工品もあつたとは云へ、一般に出回つたとは思ひにくい。要するに細々とした伝統しか持合せてゐなかつたわけで、もしかすると料理を"ミルクを使ふ、使はない"に大別すると面白い地図になるのではならうか。具体的な作業は専門家に任せるけれども。

 ところで。前段で挙げた蘇や酪はごく大雑把に云つて、牛乳の加工品…バタやチーズ、クリームに近い…で

 「牛の乳をどうかすると出來る」

食べものであつた。珍味だつたのは間違ひなく、御門が臣下の宴席に招かれた時などに下賜したといふから、贅沢なものでもあつた。その蘇と酪を肴に黑酒白酒を味はつた殿上人の得意、想像に余りある。

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 詰りチーズはお酒に適ふことになりはしまいか。

 そのとほり。適ふんである、これが。そのままでもかまはないが、焼き海苔で巻くとうまい。削り節や刻み葱を乗せ、ちよいと醤油を垂らせばもつといい。佃煮や縮緬山椒(味醂の利いたやつは断じていけない)とあはせるのも宜しい。葡萄酒との相性は云ふまでもなく、干し葡萄の類…ええとドライ・フルーツと呼べばいいのか、それと組合せれぱヰスキィにも適ひ、ヰスキィに適へば焼酎やウォトカに適ふだらうとは疑念の余地が無い。極端に辛かつたり、匂ひにくせのあるチーズが相手なら、話が異なるのは当然ではあるが、所謂プロセス・チーズだつたら

 「ちよと手を掛ければ、どの酒精にも横断的に似合ふ」

のはほぼ確實と云へさうである。ほぼと念を押すのは"ちよと手を掛け"るその掛け方が肝腎になるからで、たとへば酒盗や塩辛を組合せるとチーズが押し負ける。[辻留]の主人が教へてくれるところだと、味はひのきついもの同士をあはせると、調和して穏やかになる場合があるさうだから、断じて適はないわけではなささうにしても、わたしは冒険心の薄い男なので躊躇ひを感じて仕舞ふ。出來る限り手を抜ききる方向で考へれぱ、ささやかな経験の中では、オリーヴ油と黑胡椒をあはすのが一ばんいい。それぞれを別のお皿に用意するのは面倒だが、それで好もしい分量を調へられるのだから、そのくらゐは我慢してもらつてもいいでせう。これなら麦酒で始めて葡萄酒を経てヰスキィ、或はシェリーで始めてお酒に到る酒席の間、どこで出されても、または最初から最後まで出てゐても、気の利いた話ぢやあないかと感じるにちがひないよ。それに(広義の)チーズは兎も角、オリーヴ油も黑胡椒も殿上人は知らなかつたし、葡萄酒も泡盛もヰスキィも矢つ張り知らなかつた。我われは酒精とチーズを自在に樂みながら、搗栗のひとつくらゐを添へて、千年前に思ひを馳せればよい。

490 麦酒を下さい

 内田百閒は冬の麦酒を好んだといふ。"味が引き締つてうまい"のださうで、そんなものなのかなあと思ふ。[たいめいけん]の初代は常温…温めた麦酒を好んだらしい。温かい麦酒が旨いのかどうか。確かに醸造の中でお湯を通しはするけれども。エセーの中で初代は、仕事終りにホット・ビールを呑むと"ほつとするのです"と駄洒落を飛ばしてゐて、お弟子さんには同情したくなつてくるなあ。

 ごく平凡な舌の持主であるわたしは、当り前に冷した麦酒を悦ぶ。但し稀に何かうらみでも買つたかと思へるくらゐ冷たい麦酒を出されることがあつて、あれはまつたくの話、感心しない。お酒や葡萄酒を冷しすぎるのには口やかましいひとも、ことが麦酒だと、まあいいやと妙に寛容な態度を示しもして、アルコール類の中での格の低さが見え隠れする。

 實際のところ麦酒は、清潔で厚みのある小振りなグラスと適切な冷し方、丁寧な注ぎ方で味はひのほぼすべてが決る。後は注がれた麦酒をだらだらはふり出さず、ぐうつと呑み干せば、それで十分に美味い。わたしのやうな無精ものにはまことに具合が宜しい。勿論ここで麦酒純粋令を持ち出し

 「矢張り麦酒は麦とホップと水で醸らねばならぬ」

と肩に力をこめてもかまはないけれど、こちらは厳密主義に与しない。ドイツ人は眉を逆立てるか知ら。

 併し醸り方への膠泥はさて措き、ドイツ人がえらいと思ふのは、ソーセイジやザワー・クラウトを生んだことで、いや種々の馬鈴薯料理も忘れてはならず、詰り麦酒で食事をしたためるにはゲルマン方式が最良に一ばん近いのではないか。ギネスを醸つたアイルランドで、さういふ食べものが浮ばないのは、わたしがもの知らずなだけだらうか。アイリッシュ馬鈴薯の扱ひには長けてゐるだらうし、何で讀んだか、羊の腎臓のバタ焼きといふえらく旨さうな食べものがあつて、併しそれが朝食だつたから一驚を喫した記憶がある。羊肉も麦酒に似合ふのは、我が國のジンギスカンとサッポロの組合せでも明らかなのに。

 羊肉の話ではなかつた。兎にも角にも麦酒には食べものを欠かすわけにはゆかず、羊肉はその中で有力な候補になる。イギリス式のフィッシュ・アンド・チップスもヴィネガーは遠慮しつつ、うまいものだと思ふ。では翻つて我が國ではどうか。前述のジンギスカン、或は焼賣や焼き餃子、馬鈴薯のコロッケ、ミンチカツ。思ひ浮べながら、自分の想像力の貧しさに呆れてゐる。とは云へ鯖の塩焼きや鰯の丸干しならお酒の方が適ふし、臓物の煮込みだの豚の角煮だのは焼酎が慾しくなる。鯖や鰯や臓物に麦酒が適はないのではないが、決定版とは呼びにくい。麦酒会社のひとは厭な顔をするだらうが、我われに馴染み深い我が國の麦酒は、大体の食べものに似合ひながら、よくも惡くも

 「かういふ食べもの…食事に適ふのです」

といふはつきりした主張が實に見えにくい。なのでこいつを平らげるなら、この銘柄でなくちやあとは思へず、結果として取敢ず

 「麦酒を下さい」

に留まつて、一番搾りヱビス赤ラベルをプレ・モルをドライをと指名しにくい。例外に近いのはオリオンで、ポーク玉子やちやんぷるーには、これでないとしつくりこない。

 ここで我われは当り前の、併し大事な…詰り酒精と食べものは不二であることに気がつく。本來ある土地の酒精と食べものは不二を保つて育ち、ゆつくりと変化するところを、アメリカの施政下にあつた沖縄人はまことにしぶとかつた。視点の当て方は幾らでもあるのは認めるが、麦酒を主眼にすれば、僅か廿七年…沖縄、琉球の食生活史から見れば決して長いとは呼べない…で、ステイクとタコライスとポーク・ランチョン・ミートを受け容れ、琉球式に消化した過程で麦酒も取り込んだと思へる。米軍の占領施政下にあつた都市で、かういふ例は外にあるのか知ら。話が生眞面目な方向に進みさうですね、もつとのんびりしませう。

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 要するにわたしが気にしてゐるのは、麦酒と不二の食べもの…正確に云ふと、我が國の麦酒と不二にな(り得)る食べものである。と考へると、ソーセイジ一族から聯想が働くだらうか、矢つ張り少々脂つこいのが好もしい気がする。たとへば牛肉や豚肉の脂の多いところの味噌漬け。分厚い玉葱なんぞと時節によつては茄子を添へれば十分かと思ふ。日本の麦酒なら、ちよいとくどいかと感じる濃厚さでかまふまい。これをホークで刺せるくらゐに切つて(但しあまり小さくしてはならない)、大振りのお皿で出してもらふ。予め切つておくのは、何しろ片手は塞がつたままになる(筈だ)からで、味噌漬けに限らず、麦酒にあはすのは片手でつまめるか、ホークで刺せる程度の大きさと堅さが望ましい。かういふのを二人か三人で取合ひながら、麦酒を呑むのはきつと、愉快にちがひないし、ドイツ人だつて羨むだらう。[たいめいけん]で出してもらひたい気もするが、ホット・ビールでどうぞと云はれるか知ら。

489 ポテト・サラド呑み屋

 廉な呑み屋で外れ(る心配の少)ないつまみと云へば、煮込みとポテト・サラドが双璧である。わたしは大体の場合、どちらかを註文する。両方同時に註文したことはない。煮込みとポテト・サラドを同時に註文すべきではないといふ規則があるわけでなく、自分にさういふ縛りを課してゐるわけでもない。といふより書きながら

 (一ぺんに両方、食べてゐないなあ)

と気がついた。それがただの習慣なのか、酒席心理學上の事情ゆゑなのかは、たれかの分析を待ちたい。それでこの稿ではポテト・サラドの話をする。

 馬鈴薯をやはらかく崩し、刻んだハム、炒めた玉葱、さつと茹でた人参、酸味のある林檎か八朔に潰したうで玉子をたつぷりのマヨネィーズで和へたのが、わたしの思ふポテト・サラド…と書くと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から激烈な反論が出てきさうに思ふ。

 ハムの代りにベーコンを使ふべきだ。

 干し葡萄は散らしても、林檎や八朔は許し難い。

 マヨネィーズにはマスタードを忍ばせるのがいいのだ。

 そもそも馬鈴薯はごろりとしてゐなくちやあ。

 外にも色々、思つたでせう。それぞれ、正しい。馬鈴薯とマヨネィーズがポテト・サラドの基本であつて、何をどの程度に入れるかは好み…幼い頃に食べたポテト・サラドが基準になる。この手帖は寛容を旨とすることもあつて、それぞれが正しいと云ふのである。どうです、立派な態度でせう。

 尤も幾ら寛容を旨としても、矢張り感心しないと思ふポテト・サラドはあるもので、わたしにとつては明太子入りのポテト・サラドがそれに該当する。正確に云へば明太子を始めとする魚卵をどうも苦手としてゐて、ポテト・サラドはそのとばつちりを受けてゐるのだけれど。

 魚卵類が苦手なのは磯臭さ、生臭さを感じるからで、磯の香りと思へないのは、さう感じる原体験を持たないからで、要するに馴染みがない。だからまづいとは思はない一方、積極的に食べたいとも思はない。丸太は我が儘だと呆れられるのは覚悟するとしても、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、そんな食べもののひとつやふたつ、あるに決つてゐる。

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 好もしい、好もしく感じる呑み屋には、共通するところがある。第一に客あしらひが巧いこと。第二にその客筋がいいこと。そしてつき出しの旨いことで、つき出しが旨い呑み屋はつまみが旨い。あしらひが上手で客筋がよろしく、つき出しとつまみが旨ければ、お酒でも葡萄酒でも焼酎でも泡盛でも麦酒でも旨くなる。

 さういふ呑み屋で用意してくれるつき出しは、事前に確認でもない限り(パクチーやセロリー、或は苦瓜のやうに好みの分かれるものを使つてゐる場合に、平気ですかと訊かれたことがある)必ず食べる。こつちの経験した味、食べものの範囲なんて何と云ふほどでもない。そこで一体どんな味か知らと訝しみながらつまんで

 (こいつは中々いけるものだねえ)

と思へればしめたものではないか。なので、呑み屋でお奨めを教へてもらつたら、必ず試す。口に適ふ適はないは別として、旨いのは間違ひない。口に適はないのはまづいのではないかと思ふのは誤りで、旨いのはうまいけれど

 「おれの好みとはちがふなあ」

と感じる例は幾らでもあるもので、たとへばシャブリと生牡蠣がさうだつた。どちらも旨いのに、あはせると、どうにも口に適はなかつたのは忘れ難い。尤もそこでもしかすると、日本の牡蠣だからいけなかつたのだらうか、などと考へられもして、まづければそんなことは思ひ浮ばない。

 それでも、と話を魚卵、訂正ポテト・サラドに戻せば、ある立ち呑み屋のつき出しで、明太子入りポテト・サラドが出てきた時は少々困惑したと白状する。併し困惑はしても、明太子と思しき橙いろはいかにも穏やかさう、詰りうまさうに見える。そもそもここのつまみは旨いのは知つてゐる。口に適ふかどうかは兎も角、まづくはなからうと口に入れると、非常に滑らかな馬鈴薯の舌触りの中に、明太子の塩気が感じられる。添へられたクラッカーに乗せると、馬鈴薯の滑らかとクラッカーの歯触りのぶつかる感じも好もしく

 (こいつは中々いけるものだねえ)

と思つた。我ながら無邪気である。ハムも玉葱も林檎もうで玉子も入つてゐないのに。わたしがポテト・サラドに厳密な態度を取る男だつたら、先づこれはポテト・サラドなのだらうかと考へたところである。尤も(前段を繰返して)馬鈴薯をマヨネィーズで和へたのがポテト・サラドの骨格とすれば、これもまた確かにポテト・サラドと云へる。實に奥行きが深い。ここで裏を返すと奥行きそれ自体が…本当なら傍点を打ちたいところ…ポテト・サラドをポテト・サラドたらしめる條件であつて

 「ポテト・サラドでも作つてよ」

などと軽がるしく云へない、云つてはならない事情は…馬鈴薯をうがいて皮を剥き、更にそれを切り潰す面倒は勿論なのだが…こんなところに(も)ある。ポテト・サラドの豊かな広がりは、そのまま呑み屋の樂みの広がりでもある。我われはその広がりを悦ぶのと同時に、厨房で工夫を凝らす人びとへ敬意を払はねばならない。そこでつまみがポテト・サラド専門の呑み屋があつたら、アイルランド人とドイツ人が嬉しさうな顔をするだらうとは思つた。商ひになるかどうかは知らないが、醤油や甜麺醤や豆板醤、デミグラス・ソースを使つて、豆腐だの鶏のそぼろだの生ハムだの辛いウインナだのをあしらつた種々のポテト・サラドが並ぶ様は壮観にちがひないし、さういふ呑み屋だつたら、兎にも角にも安心出來る。

488 胡椒を削つて

 先日、近所の定食屋で"鶏肉と茸の黑胡椒炒め定食"といふのを食べた。實に判り易い名附けだから、その辺の説明は省略して、鶏肉よりその脂を吸つた茸の方がぐつと旨かつたことは特筆しておく。

 ところで普段なら品書きに"胡椒"とあつたら敬シテ遠ザクのが習性である。どうもわたの味覚は一部が少年のままらしく、あの香辛料のからみを喜ばしく感じにくい。…積極的に旨いと思ふこともある。随分と前にある店で生ハムを食べた時、オリーヴ油に黑胡椒を挽きこんだのを添へてきて、あれはたいへんによかつた。ハムの脂やオリーヴ油のくどいところを、黑胡椒が巧みに受けて、葡萄酒にもいい塩梅になる。中世以前のヨーロッパ人が胡椒を貴んだのも無理はないと思へてくる。

 その胡椒はインド亞大陸の突端、西部…アラビア海に面する地方が原産だといふ。紀元前から重要な交易品であり、ヨーロッパ…漠然とローマ帝國の範囲くらゐの印象で云ふのだが、そのヨーロッパからはいかにも遠い。現代から想像するのは六づかしいが、ある時期までのインドとアラビアの商人はおそろしく冒険的で活發な連中だつたらしい。さういふ時期を経て、ヨーロッパ人がインド航路をものにした時の歓喜は想像に難くない。あの貴重な香辛料(一説には同じ重さの金と等価だつたともいふ)を我がものに出來るのだ。

 視線を逆に向けると、隋唐の時代にはユーラシアの東端まで運ばれてゐたかと思へる。唐は同時代で云へば世界最大の大帝國であつて、その名に相応しく、胡人が多く在住してゐた。胡は西域…ペルシアの総称。イラクとかシリアとか呼ぶより情緒がある。椒は山椒蕃椒から、からみのある果實乃至調味料が聯想出來る。詰り西域…胡カラ來タ椒なのだらう。尤も唐の美食家が胡椒を珍重し、夢中になつたといふ気配は感じられない。嗜好のちがひなのか、士大夫には珍しい味ではなかつたのか、よく判らない。わたしの知る範囲なんてたかが知れてゐるから、えらさうには云へないが、中華料理やその影響を色濃く受けた我が國の料理で、胡椒を積極的に用ゐる例は少いのではなからうか。

 何故か知ら…当り前に食事のちがひと云ふ外になからうと考へていいが、では何がどう異なつて、さうなつたのだらうと疑問は續く。西洋人は獸肉を啖ふからねと思つても、中華料理だつて獸肉を扱ふし、第一地中海人ローマ人は魚介をたいへんに好んだ人びとでもあるから、さういふ対比が意味を持つとは云ひにくい。結局のところ、気候や風土のちがひが嗜好のちがひを生んだと考へざるを得ず、そこに支配層の影響がつよく影を落としたのだらう。我ながら詰らない推測だし、ぜんぜん具体的でもないけれども。

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 曖昧な想像には目を瞑るとして、さうなると"鶏肉と茸の黑胡椒炒め"は、中華が得手とする強い炎と、西洋が使ひ續けた香辛料が、日本の醤油を介して合体した、奇跡的なひと皿ではないかと思へてくる。尤も麦酒をあはせなかつたのは大失敗りだつた。おほむねここの味附けはおつとりしてゐるから、ごはんにもよからうと思つてゐたのに。