閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

491 殿上人もご存知ない

 麦酒。お酒。葡萄酒。焼酎。泡盛。ヰスキィ。ウォトカ。わたしが主に呑む酒精はおほむねこんなところで、念を押すと葡萄酒にはシェリーやコニャックも含まれるし、焼酎は黒糖米麦芋を纏めてあり、ヰスキィにはアイリッシュもスコッチも入つてゐる。それぞれの酒精が育つた土地で、それぞれに育つた似合ひの食べものをあはせる…たとへばお酒と干し魚…のは、呑み助の歓びと云つていい。その一方で意外な組合せの旨さを知るといふ嬉しさも捨て難い。實例として葡萄酒とおでんを挙げませうか。添へられたのは和辛子ではなくマスタードだつたが、さういふ工夫も含めて旨かつた。併しさうなると今度は

 「ちよと手を掛ければ、どの酒精にも横断的に似合ふ」

食べものはあるのか知らといふことが気になつてくる。そんな都合のいい話、ある筈はないぢやあないかと云ふのは簡単だし、案外と事實かなあと感じもするのだが、そこで立ち止まるのは面白みに欠ける。まあひとつ、考へてみませう。

 一ばん初めに浮ぶのは豆腐でせうね。冷奴温奴湯豆腐ならお酒に適ふし、島豆腐といふ堅いやつはちやんぷるーに必須である以上、泡盛焼酎で旨いに決つてゐる。麻婆豆腐なんかはかなり間口が広さうでもある。とは云へヰスキィや葡萄酒にはあはしにくくも思へる。アイリッシュ・シチューやブイヤベースに豆腐を入れて、それが豆腐を食べることになるのかどうか、議論の余地はある。外に何があるだらう。

 鰯、鯖、烏賊の辺りなら問題はあるまい。尤もその"問題なからう"は、世界中でありふれてゐるからなので、寧ろ適はない方が不思議であらう。それに豆腐といふ大豆の加工食品と魚介といふ云はば素材を同列にするのは何かちがふ気がするし、魚介と蒸溜酒の相性はそれほど宜しくない…といふのがささやかな経験則でもある。さう考へると、ベーコンやハム、ソーセイジの類が浮んでくるが、肉と酒精は適ふのが当然で、わざわざ挙げなくてもよい。

 何で讀んだか覚えてゐない。あるヨーロッパ人が中華料理を散々味はつた後

 「ミルクを使はないのは何故だらう」

さう首を捻つたといふ。ソースにバタを用ゐない、デザートにも出ず、アイスクリームもない。一讀して、ははあと思ひましたね、この指摘には。食事にミルクを積極的に使ふのは(西)ヨーロッパの習慣なのか。インドにはギーといふ一種のバタがあるが、あれは調味料の一種と見立ててよい。臺灣や東南アジア、或は中近東で、ミルクを様々に使ふのか知ら。

 翻つて我が國でも最近までミルクを積極的に使ひはしなかつた。大昔の朝廷には牛乳司…大和ことば風に"ウシノチチノツカサ"と訓みたい…と呼ばれる役職があつたさうだし、蘇や酪といつた加工品もあつたとは云へ、一般に出回つたとは思ひにくい。要するに細々とした伝統しか持合せてゐなかつたわけで、もしかすると料理を"ミルクを使ふ、使はない"に大別すると面白い地図になるのではならうか。具体的な作業は専門家に任せるけれども。

 ところで。前段で挙げた蘇や酪はごく大雑把に云つて、牛乳の加工品…バタやチーズ、クリームに近い…で

 「牛の乳をどうかすると出來る」

食べものであつた。珍味だつたのは間違ひなく、御門が臣下の宴席に招かれた時などに下賜したといふから、贅沢なものでもあつた。その蘇と酪を肴に黑酒白酒を味はつた殿上人の得意、想像に余りある。

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 詰りチーズはお酒に適ふことになりはしまいか。

 そのとほり。適ふんである、これが。そのままでもかまはないが、焼き海苔で巻くとうまい。削り節や刻み葱を乗せ、ちよいと醤油を垂らせばもつといい。佃煮や縮緬山椒(味醂の利いたやつは断じていけない)とあはせるのも宜しい。葡萄酒との相性は云ふまでもなく、干し葡萄の類…ええとドライ・フルーツと呼べばいいのか、それと組合せれぱヰスキィにも適ひ、ヰスキィに適へば焼酎やウォトカに適ふだらうとは疑念の余地が無い。極端に辛かつたり、匂ひにくせのあるチーズが相手なら、話が異なるのは当然ではあるが、所謂プロセス・チーズだつたら

 「ちよと手を掛ければ、どの酒精にも横断的に似合ふ」

のはほぼ確實と云へさうである。ほぼと念を押すのは"ちよと手を掛け"るその掛け方が肝腎になるからで、たとへば酒盗や塩辛を組合せるとチーズが押し負ける。[辻留]の主人が教へてくれるところだと、味はひのきついもの同士をあはせると、調和して穏やかになる場合があるさうだから、断じて適はないわけではなささうにしても、わたしは冒険心の薄い男なので躊躇ひを感じて仕舞ふ。出來る限り手を抜ききる方向で考へれぱ、ささやかな経験の中では、オリーヴ油と黑胡椒をあはすのが一ばんいい。それぞれを別のお皿に用意するのは面倒だが、それで好もしい分量を調へられるのだから、そのくらゐは我慢してもらつてもいいでせう。これなら麦酒で始めて葡萄酒を経てヰスキィ、或はシェリーで始めてお酒に到る酒席の間、どこで出されても、または最初から最後まで出てゐても、気の利いた話ぢやあないかと感じるにちがひないよ。それに(広義の)チーズは兎も角、オリーヴ油も黑胡椒も殿上人は知らなかつたし、葡萄酒も泡盛もヰスキィも矢つ張り知らなかつた。我われは酒精とチーズを自在に樂みながら、搗栗のひとつくらゐを添へて、千年前に思ひを馳せればよい。