閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

489 ポテト・サラド呑み屋

 廉な呑み屋で外れ(る心配の少)ないつまみと云へば、煮込みとポテト・サラドが双璧である。わたしは大体の場合、どちらかを註文する。両方同時に註文したことはない。煮込みとポテト・サラドを同時に註文すべきではないといふ規則があるわけでなく、自分にさういふ縛りを課してゐるわけでもない。といふより書きながら

 (一ぺんに両方、食べてゐないなあ)

と気がついた。それがただの習慣なのか、酒席心理學上の事情ゆゑなのかは、たれかの分析を待ちたい。それでこの稿ではポテト・サラドの話をする。

 馬鈴薯をやはらかく崩し、刻んだハム、炒めた玉葱、さつと茹でた人参、酸味のある林檎か八朔に潰したうで玉子をたつぷりのマヨネィーズで和へたのが、わたしの思ふポテト・サラド…と書くと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から激烈な反論が出てきさうに思ふ。

 ハムの代りにベーコンを使ふべきだ。

 干し葡萄は散らしても、林檎や八朔は許し難い。

 マヨネィーズにはマスタードを忍ばせるのがいいのだ。

 そもそも馬鈴薯はごろりとしてゐなくちやあ。

 外にも色々、思つたでせう。それぞれ、正しい。馬鈴薯とマヨネィーズがポテト・サラドの基本であつて、何をどの程度に入れるかは好み…幼い頃に食べたポテト・サラドが基準になる。この手帖は寛容を旨とすることもあつて、それぞれが正しいと云ふのである。どうです、立派な態度でせう。

 尤も幾ら寛容を旨としても、矢張り感心しないと思ふポテト・サラドはあるもので、わたしにとつては明太子入りのポテト・サラドがそれに該当する。正確に云へば明太子を始めとする魚卵をどうも苦手としてゐて、ポテト・サラドはそのとばつちりを受けてゐるのだけれど。

 魚卵類が苦手なのは磯臭さ、生臭さを感じるからで、磯の香りと思へないのは、さう感じる原体験を持たないからで、要するに馴染みがない。だからまづいとは思はない一方、積極的に食べたいとも思はない。丸太は我が儘だと呆れられるのは覚悟するとしても、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、そんな食べもののひとつやふたつ、あるに決つてゐる。

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 好もしい、好もしく感じる呑み屋には、共通するところがある。第一に客あしらひが巧いこと。第二にその客筋がいいこと。そしてつき出しの旨いことで、つき出しが旨い呑み屋はつまみが旨い。あしらひが上手で客筋がよろしく、つき出しとつまみが旨ければ、お酒でも葡萄酒でも焼酎でも泡盛でも麦酒でも旨くなる。

 さういふ呑み屋で用意してくれるつき出しは、事前に確認でもない限り(パクチーやセロリー、或は苦瓜のやうに好みの分かれるものを使つてゐる場合に、平気ですかと訊かれたことがある)必ず食べる。こつちの経験した味、食べものの範囲なんて何と云ふほどでもない。そこで一体どんな味か知らと訝しみながらつまんで

 (こいつは中々いけるものだねえ)

と思へればしめたものではないか。なので、呑み屋でお奨めを教へてもらつたら、必ず試す。口に適ふ適はないは別として、旨いのは間違ひない。口に適はないのはまづいのではないかと思ふのは誤りで、旨いのはうまいけれど

 「おれの好みとはちがふなあ」

と感じる例は幾らでもあるもので、たとへばシャブリと生牡蠣がさうだつた。どちらも旨いのに、あはせると、どうにも口に適はなかつたのは忘れ難い。尤もそこでもしかすると、日本の牡蠣だからいけなかつたのだらうか、などと考へられもして、まづければそんなことは思ひ浮ばない。

 それでも、と話を魚卵、訂正ポテト・サラドに戻せば、ある立ち呑み屋のつき出しで、明太子入りポテト・サラドが出てきた時は少々困惑したと白状する。併し困惑はしても、明太子と思しき橙いろはいかにも穏やかさう、詰りうまさうに見える。そもそもここのつまみは旨いのは知つてゐる。口に適ふかどうかは兎も角、まづくはなからうと口に入れると、非常に滑らかな馬鈴薯の舌触りの中に、明太子の塩気が感じられる。添へられたクラッカーに乗せると、馬鈴薯の滑らかとクラッカーの歯触りのぶつかる感じも好もしく

 (こいつは中々いけるものだねえ)

と思つた。我ながら無邪気である。ハムも玉葱も林檎もうで玉子も入つてゐないのに。わたしがポテト・サラドに厳密な態度を取る男だつたら、先づこれはポテト・サラドなのだらうかと考へたところである。尤も(前段を繰返して)馬鈴薯をマヨネィーズで和へたのがポテト・サラドの骨格とすれば、これもまた確かにポテト・サラドと云へる。實に奥行きが深い。ここで裏を返すと奥行きそれ自体が…本当なら傍点を打ちたいところ…ポテト・サラドをポテト・サラドたらしめる條件であつて

 「ポテト・サラドでも作つてよ」

などと軽がるしく云へない、云つてはならない事情は…馬鈴薯をうがいて皮を剥き、更にそれを切り潰す面倒は勿論なのだが…こんなところに(も)ある。ポテト・サラドの豊かな広がりは、そのまま呑み屋の樂みの広がりでもある。我われはその広がりを悦ぶのと同時に、厨房で工夫を凝らす人びとへ敬意を払はねばならない。そこでつまみがポテト・サラド専門の呑み屋があつたら、アイルランド人とドイツ人が嬉しさうな顔をするだらうとは思つた。商ひになるかどうかは知らないが、醤油や甜麺醤や豆板醤、デミグラス・ソースを使つて、豆腐だの鶏のそぼろだの生ハムだの辛いウインナだのをあしらつた種々のポテト・サラドが並ぶ様は壮観にちがひないし、さういふ呑み屋だつたら、兎にも角にも安心出來る。