閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

570 武藏國青梅

 武藏國は概ね現代の多摩と東京西部と渡る広範な地域を指す。多摩を先に書いたのは中心的な地位を占めたのが府中だからで、今も市に名前が残つてゐる。当時の江戸が貧寒な漁村に過ぎず、徳川政権最初の三代が水路を整へてやうやく、都市への一歩を踏み出したと思ふと余程に古い。
 語源はよく解らない。ム+サシまたはム+サ+シらしいが、何の意味なのか。宛てられた字も幾つかあつて、訓みが先にあつたのは間違ひない。平らな土地が広がり、相模國(今で云ふほぼ神奈川)や、毛野國(同じく群馬栃木)に通じもする地勢でもあるから、上代から豪族が跋扈してゐた筈だし、畿内の政権も要衝の地と認識しただらう。
 平将門といふひとが十世紀前半に関東で暴れた。下総國常陸國…今の千葉から茨城辺りが主な縄張り。畿内の支配がまだあやふやだつたのか、"新皇"を名乗つて獨立を試行した挙げ句、敗死する。将門が獨立政権を運営する器量を持つてゐたかは兎も角、高望王(桓武帝の孫。臣籍に降りて桓武平氏の祖となつたひと)の孫といふ血筋だから、"儂が東國の新たな御門ぢや"と称しても説得力はあつた筈なのだがなあ。

 その将門は武藏國を訪れた。らしい。寺に梅を納め
 「我が願ひが叶ふなら、その實よ、落ち賜ふな」
 「その日には一寺を建立奉る」
と祈つたさうで、果して實は夏を過ぎてもその枝で青いままだつたといふ。その伝説が地名の由來になつた。現代の青梅である。本当か知ら。今の感覚で云へば、さういふ樹は伐らせるし、地名だつて別のを押しつけるだらうに。
 別の見方もある。非業の死を遂げた人間は必ず祟る、といふ考へ方があつて、詳しくは御霊信仰をお調べなさい。同時代の人びとにとつて、それは現實的な問題であつた。四十年近く前に太宰府で死んだ菅原道眞がたいへんな祟り神になつたのがそれで、あちらは政争だつたが、将門は戰争である。ましてかれが梅樹を納めたのは眞言のお寺だつた。当時の凡俗にとつての眞言は霊験あらたかな咒とほぼ同じで、無碍にすれぱきつと祟り神になる。それはまつたくまづい。なので叛乱の首謀者を持上げるのは無理でも、将門信仰に目を瞑るくらゐはしたとも考へられる。

 併し何故、あの武将はわざわざ武藏國は後の青梅まで足を運んだのか。佛に敬虔だつたとも思へず、政略戰略上の事情だつたのだらうか。どうも曖昧である。
 下総からだと移動も面倒だつたらうに。
 さう考へると、現代の我われは恵まれてゐる。新宿からざつと一時間。千葉からでも倍くらゐを見込めば青梅に行ける筈で、鐵道の發達はまことに有難い。
 狭い意味での青梅…旧國鐵青梅驛周辺に限ると、住人には失礼ながら、猫と昭和レトロといふ理解の六づかしい看板を持つ田舎町に過ぎない。まづまづの呑み屋は一軒あつたけれど、十数年前のことだし、残つてゐるとしてもその一軒の為に足を運ぶのは躊躇される。
 但し青梅を含む武藏國(奥)多摩郷であれば話は変る。多摩の豊かな水を使つた酒藏が三軒もあるし、その内一軒では地麦酒を手掛けてもゐる。因みにいふ。玉川上水が整備されたのは江戸徳川政権で、この大規模な治水事業は江戸の町を潤す目的だつた。徳川幕府に感じる"鄙の富農"めいた雰囲気を好まないわたしのやうな男でも、これ計りは大したものだと思ふ。結果的に後世の我われ呑み助を歓ばしてくれてゐるからではありませんよ。余談が過ぎた。

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 多摩…範囲を広く取つた青梅としておかう…には何度も足を運んでゐる。前段で触れた酒藏を訪ねるのが主な目的。時にそこから八王子に行くこともあり、さうだ、府中には麦酒工場があるから、そこを目指したこともある。どの地域も今で云へば東京都だが、何となく小旅行の気分になれるのが宜しい。廿三区とは気候がどうも異な(つて感じられ)るのが理由らしいが、何がどう異なるのかまではよく判らず、そこは兎も角、気候の違ひが不愉快でないのは確かである。さういふ土地で、その土地の酒精を味はふのがいい気分なのは、改めて云ふまでもない。
 「結局のところ、そこに話は落ちるのだな」
我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の呆れ顔が目に浮ぶ。浮びはするのだが、武藏國なり下総國なり常陸國なりどこへなり足を運ぶ時に、外の樂みがあるものか。令和三年の春香梅は六づかしからうが、また酒肴を侍らす一席を設けたいものだ。将門の怨霊が顕れたら、勿論一献を奉るのを忘れずに。 

569 本の話~番外篇

 画像の本には、共通点が二つある。
 第一はどちらも著者が吉田健一であること。
 第二にはわたしが未だ讀めてゐないこと。
 この[閑文字手帖]では、この批評家兼随筆家兼小説家の名前を何度も挙げたし、引用も色々としてゐるのに、我ながら不思議で仕方がない。
 手を附けてゐないわけではない。ただ途中で横に置いて仕舞ふ。その繰返しで、矢張り不思議である。さうかなあと首を傾げるひともゐるだらうが、その文章に癖があるのは事實で、ちがふ著者の本と並行してはまづ讀めない。
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 ぢやあこの二冊なら並讀出來るだらう。
 と思はなくもないが、それもまた六づかしい。上々に寝かした泡盛と葡萄酒を代る代るあふるのが愚か者の所行なのと同じである。画像の上にある『金沢』は小説家吉田の、下に隠れた『書架記』は批評家吉田による、どちらも力のこもつた著作であつて、少ししか目を通せてゐないのに、呑んだことのない、くーすーやボルドーの濃醇な芳香はきつとかうなのだらうと思へる。さういふのを味はひたければ、一杯、いや一冊づつに集中するのが最良…といふより唯一の方法で、迷惑な話と云へなくもない。

 併しどちらの本にも、吉田健一の強烈な審美眼が通底してゐるのは、もつと厄介だと云へる。それは好惡といつた単純で雑駁なものではない。英國の詩やフランスの小説だけでなく、ドイツの濃厚な蒸溜酒、支那のお菓子、謡曲、烏賊の黑作り、群馬のとんかつから、空港まで迎へに來た編輯者に渡した礼と土産を兼ねた無地のネクタイ、大坂の隅つこで食べるおでん、そして能登號で訪れた金沢の町並みに到るまで、吉田といふ人間いつぴきを作り上げた丸ごとが凝縮され蒸溜され秩序立てられた結果…即ち吉田じしんが作り上げた…であつて、どうかすると酩酊させられるだけになつて仕舞ふ。まつたく厄介な話ではあるまいか。
 酩酊出來るなら、それはそれでいい。と考へることも一方ではあるかも知れない。知れないが、(蘊蓄はさて措き)醉ふにしても、味はへるだけの余裕は慾しいもので、それは美しく歓ばしいことを、美しく歓ばしいと明瞭に受け止められる器…正しい意味で用ゐられた時の教養…に裏打ちされなければならず、さうでなければ嘘になる。ここまでくると迷惑だの厄介だのは遥か彼方へ消し飛び、寧ろ諦観とか輪廻転生とか、絶望的な気分になつてくる。但し味はふのは無理でも醉ひは出來るし、何しろ讀むのは美酒である。矢張り
 「後のことは宿醉ひの頭でどうにかすればいい」
さういふ態度も取れる筈で、勿論これは本筋と呼べない。とは云ふものの、足踏み尻込みの揚げ句、讀まない…正確には呑み…讀み干さないより、ましかとも思はれる。一ぱいの佳酒を、時間を掛けて味はふやうに、一節一行を讀むのは、まことに贅沢な樂みで、それでウェイツや暗褐色のママレイド、骨董屋の古九谷、"海を呑むやうな"こつ酒(何と豪宕な譬喩か知ら)が、文學的に手に入る。などと云つたら、吉田は厭な顔をするだらうか。 

568 曖昧映画館~ゼイラム

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 イリヤは第一級の賞金稼ぎである。相棒のボブ…人工知能の一種だと思はれる…との會話から察するに、"当局"の依頼を受け、無理難題をこなしてゐるらしい。
 彼女はその"当局"からの依頼で地球に降りた。目標は"ゼイラム"と呼ばれる生物。ボブの協力で"ゾーン"…一種の擬似的な空間…を作り、そこでゼイラムへの対処を進める積りのイリヤだつたが…。
 と書いて判る通り、枠組みは實に簡単と云つていい。監督である雨宮慶太は、そこに鉄平と神谷といふ"巻き込まれて仕舞つた不運な地球人"を投げ込むことで、不意の空き時間をたつぷり樂める一本を撮つた。

 現實を模し、現實から隔絶された空間である"ゾーン"が、この映画を成り立たせた大きな設定と云へる。詰り

 ・銃火器や爆弾を使ふ不自然さへの理由附け。
 ・巻き込まれた鉄平と神谷が、イリヤとボブ以外に助けを求められない作劇の都合。
 ・制作上でも、特殊な視覚効果を抑へられて、限られた予算の中では具合がよかつた(だらう)

ことが考へられるし、更に云ふと、自分がゐるこの場所がたつた今、"ゾーン"にもなつてゐて、そこにイリヤがゐるかも知れないと…演じた森山祐子は大変な美人だもの…想像も出來る。巧いことを思ひついたなあ。

 併せて(怪物である)ゼイラムの描き方もよかつたと、云つておかねばならない。はつきりしたことは語られないが、どうやら滅んだ古代の文明が作つた生物兵器らしい。その目的乃至本能は殺戮と破壊だし、何せ古代の産物だから、話せば判るは通用しない。位置附けは異なるが、プレデターやエイリアンに似てゐる。要するにたちが惡い。

 そのたちの惡い化け物を相手に、イリヤ(と鉄平と神谷)の行動は、逃げるか、殺すか、殺されるかの撰択になる。ここでイリヤが第一級の賞金稼ぎといふ前提…些か自信過剰にも感じなくはないけれど…が活きてくる。逃げないのは当然だし、まして従容として殺される筈もない。
 雨宮が"判つてゐる"のは、臆病な足手まとひ、でなければコミック・リリーフと思つてゐたへなちよこ…鉄平と神谷…に存外な活躍をさせたことで、(へなちよこな観客である)自分も、イリヤを救けてゐると勘違ひ出來、演出や映像の造り方に感じる細かな不満は、ここですつかり解消される。 

567 曖昧映画館~バットマン

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 褒め言葉として云ふと、ティム・バートンはハリウッドきつての変態監督だと思ふ。
 玩具好み箱庭好み。
 リアリティきらひ。
 さういふ嗜好の監督が予算を持つて人気のコミックを映画にしたらどうなるか。
 その實例が『バットマン』…いや『バットマン』と呼んでいいのかどうか、何しろ最初に蝙蝠のマークが示されるだけで、"BATMAN"のタイトルは出てゐない。

 この映画の舞台になるゴッサム・シティといふ架空の都市を、バートンはセットで作つてゐる。手の込んだセットなのは確かだけれど、どこかしらに作り物の感じは残り、何でまたわざわざとも思へる。
 併し観てゐる内にその作り物感は気にならなくなる。正確には、マイケル・キートン演じるブルース・ウェインことバットマンと、ジャック・ニコルスン演ずるジャック・ネイピア改めジョーカーといふ、不自然極まりないふたりが対決するのに、これ以上似合ひの舞台も見当らない気がしてくるから、作り物つぽいゴッサム・シティはバートンの計算だつたと考へていい。

 それらしく思へるかも知れないけれど、ニセモノなのだよここは。ね。

 精密なくせにキッチュな町で、蝙蝠の仮装に身を包んだ狂人と、發狂した道化師になつたギャングが争ふ世界が、現實やその延長にある筈はない。バートンはそれを十分に承知しつつ、ゴッサム・シティを使つて説得力を持たせた。
 但しそれは、リアリティではなく尤もらしさ。
 でなければ、クライマックス前、ジョーカーのバルーンのロープを、バット・ウイングに内藏した鋏でちよん切るなんて莫迦ばかしい場面(夜空高く持ち去られたバルーンを見上げるジョーカーの顔つきが實にいい)は成り立つまい。
 この手の映画を観ると、神ハ細部ニ宿リ賜フと呟きたくなるが、この映画に限れば(バットマンとジョーカーの為に)、神ヲ無理ヤリ、細部ニ依ラセタのかと思はれる。何しろバートンは、ハリウッドきつての変態監督なんだもの。 

566 好きな唄の話~Bomber Girl

 織田哲郎は濃い。
 近藤房之助も濃い。
 その組合せでBomberなGirlである。膏のごつてりした獸肉を、馬鈴薯と玉葱と大蒜で、巨きな鍋でごつてり煮込んだやうに濃厚であるにちがひない。

 さう思ふでせう。
 その通りである。

 無茶なことをしやがる。
 さう思ひながら、そのごつてりを味はふと、これが旨いからこまる。いや困ると云へば失礼で、ロック・ン・ロールとブルーズが、ポップスを仲立ちに、鮮やかな共演を果してゐるのだから、第一級の煮込み料理だと云つていい。

 併し(しつこいが)無茶をしたものだと思ふ。わたしなら織田と近藤の組合せを提案されても
 「纏まる筈、ないよ」
きつと却下するだらう。プロデュースの才能はどうやら、諦めなくてはなるまい。

 要するに、恰好いい。
 兎に角恰好いいのだ。
 どんな唄だと云はれたら、さう応じる。聴いたことがあつてさう質問するのなら、そのひとはこの唄と相性が惡い。それはそれで仕方がない。

 ティム・バートン版の『バットマン』ではマイケル・キートンとジャック・ニコルスンが共演したでせう。濃い組合せである。わたしは大好きな映画だが、あはないひとは、とことんあはないと思ふ。この映画は後日、"曖昧映画館"で取り上げたいから詳しく触れないとして、あの"わざとらしさ"を嫌ふひとは少からずゐるにちがひない。但しその"わざとらしさ"は
 「ぬけぬけと、まあ」
といふ呆れた気分に近しく、その気分はこの唄からも濃厚に感じられる。繰返すが、織田哲郎近藤房之助、BomberにGirlですよ。
 濃密。
 能天気。
 花やか。
 その全部をぬけぬけと、然も恰好よく…上記の『バットマン』で、ジョーカーが暴れまはるやうに…揃へてあるのがこの唄で、そんな時はどうするのか。決つてゐる。おれたちもぬけぬけと、ステップを踏めばいい。