画像の本には、共通点が二つある。
第一はどちらも著者が吉田健一であること。
第二にはわたしが未だ讀めてゐないこと。
この[閑文字手帖]では、この批評家兼随筆家兼小説家の名前を何度も挙げたし、引用も色々としてゐるのに、我ながら不思議で仕方がない。
手を附けてゐないわけではない。ただ途中で横に置いて仕舞ふ。その繰返しで、矢張り不思議である。さうかなあと首を傾げるひともゐるだらうが、その文章に癖があるのは事實で、ちがふ著者の本と並行してはまづ讀めない。
第一はどちらも著者が吉田健一であること。
第二にはわたしが未だ讀めてゐないこと。
この[閑文字手帖]では、この批評家兼随筆家兼小説家の名前を何度も挙げたし、引用も色々としてゐるのに、我ながら不思議で仕方がない。
手を附けてゐないわけではない。ただ途中で横に置いて仕舞ふ。その繰返しで、矢張り不思議である。さうかなあと首を傾げるひともゐるだらうが、その文章に癖があるのは事實で、ちがふ著者の本と並行してはまづ讀めない。
ぢやあこの二冊なら並讀出來るだらう。
と思はなくもないが、それもまた六づかしい。上々に寝かした泡盛と葡萄酒を代る代るあふるのが愚か者の所行なのと同じである。画像の上にある『金沢』は小説家吉田の、下に隠れた『書架記』は批評家吉田による、どちらも力のこもつた著作であつて、少ししか目を通せてゐないのに、呑んだことのない、くーすーやボルドーの濃醇な芳香はきつとかうなのだらうと思へる。さういふのを味はひたければ、一杯、いや一冊づつに集中するのが最良…といふより唯一の方法で、迷惑な話と云へなくもない。
併しどちらの本にも、吉田健一の強烈な審美眼が通底してゐるのは、もつと厄介だと云へる。それは好惡といつた単純で雑駁なものではない。英國の詩やフランスの小説だけでなく、ドイツの濃厚な蒸溜酒、支那のお菓子、謡曲、烏賊の黑作り、群馬のとんかつから、空港まで迎へに來た編輯者に渡した礼と土産を兼ねた無地のネクタイ、大坂の隅つこで食べるおでん、そして能登號で訪れた金沢の町並みに到るまで、吉田といふ人間いつぴきを作り上げた丸ごとが凝縮され蒸溜され秩序立てられた結果…即ち吉田じしんが作り上げた…であつて、どうかすると酩酊させられるだけになつて仕舞ふ。まつたく厄介な話ではあるまいか。
酩酊出來るなら、それはそれでいい。と考へることも一方ではあるかも知れない。知れないが、(蘊蓄はさて措き)醉ふにしても、味はへるだけの余裕は慾しいもので、それは美しく歓ばしいことを、美しく歓ばしいと明瞭に受け止められる器…正しい意味で用ゐられた時の教養…に裏打ちされなければならず、さうでなければ嘘になる。ここまでくると迷惑だの厄介だのは遥か彼方へ消し飛び、寧ろ諦観とか輪廻転生とか、絶望的な気分になつてくる。但し味はふのは無理でも醉ひは出來るし、何しろ讀むのは美酒である。矢張り
「後のことは宿醉ひの頭でどうにかすればいい」
さういふ態度も取れる筈で、勿論これは本筋と呼べない。とは云ふものの、足踏み尻込みの揚げ句、讀まない…正確には呑み…讀み干さないより、ましかとも思はれる。一ぱいの佳酒を、時間を掛けて味はふやうに、一節一行を讀むのは、まことに贅沢な樂みで、それでウェイツや暗褐色のママレイド、骨董屋の古九谷、"海を呑むやうな"こつ酒(何と豪宕な譬喩か知ら)が、文學的に手に入る。などと云つたら、吉田は厭な顔をするだらうか。