閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

328 肴になるカメラ

 新品中古を問はず、カメラを手に入れると、嬉しくなるのは人情といふものでせう。それがたれでも買へるありふれた機種であつても、嬉しさを減じる理由にはならない。

 この数年のわたしは、物慾がすつかり稀薄になつたから、殆どカメラを購はなくなつた。慾しいから慾しいのだと思へなくなつて、これでは枯れてきたと云はれても、反論は六づかしいよ。

 さうやつて入手したカメラで、最初に何をするか。当り前の感覚なら、その場でメディアなりフヰルムなりを入れて、テスト撮影ではないだらうか。ごく健全な寫眞好きの態度である。

 わたしは呑む。

 かう書くと『星の王子さま』のウハバミのやうに、折角のカメラを丸呑みすると思はれかねないので念を押すと、カメラ屋を出て呑み屋に入る意味。残念ながらカメラは消化出來ない。

 そこでつまみでもお酒のラベルでも撮れば、まだ云ひ訳も立つが、勿論そんな眞似はしない。カメラの前後左右表裏上下を眺めつつ、麦酒や焼酎を呑む。周りから見ると些か変態的か知ら。

 日本料理は目で食べるといふでせう。あれには盛りつけの姿や彩り、或は器の美しさも含まれてあつて、味はひを引き立てる…目でつまむ肴と云つても誤りにはならない。

 お酒の味をぐつと佳くする。

 といふ目的にかなふのなら、たとへば琳派の屏風絵は立派な肴である。根津美術館に収められた燕子花図を眺めつつ呑めるとしたら、食べものはかへつて邪魔になりさうに思はれる。

 バルビゾンの風景画もまた然り。葡萄酒とチーズとパンがそこそこでも、格別の美味さだと感じられるだらう。複製画でいい。どこかの美術館で酒と絵画のマリアージュを企画しないものか。

 詰り見目麗しい何ものかは肴になる。ならば姿の佳いカメラも、肴になる資格を持つてゐると云つていいんではなからうか。ここからが本論…即ち閑文字の續き、訂正、始り。

 姿の佳い…肴になるカメラと云つて、何が思ひ浮ぶだらう。昨今のデジタル・カメラではないのは確實で、高価は兎も角、高級な機種をわたしは挙げられない。差障りが出るといけないから、具体的には云はないけれど。

 この稿で考へるのは、“肴になる”一点なので、動作するかとか、自分で扱へるかとか、動作しても今は使へないとか、それらは條件にならない。その前提ですらつと浮ぶのが、Ⅱ型からⅢf型にかけてのライカセミ・イコンタ、コンテッサ。或はローライ・フレックスやハッセルブラッドSW、プラウベル・マキナ、レチナⅢまたはⅡ系もいい。

 なんだヨーロッパの機種計りぢやあないかと呆れられさうで、自分でもさう思はなくもない。併し我が國のカメラで、目で舐めまはしたくなる機種…トプコンREかオリンパスOM‐1くらゐしか思ひ浮ばないのだから、これはもうスタイリングに対する考へ方のちがひとしか云へないでせう。日欧の優劣ではないとしても。

 ところでわたしが肴にしたいカメラは、上に挙げた機種の中には無い。いや上述のどれも、いい肴になることは疑問を持たないのだが、一ばんさうだとは云へないわけで、では何なのかと云ふとミノックスである。ミノックス35ではなく、オリジナルの方。ちやんとアダプタをつけて、専用の三脚(何しろ8×11ミリの極小フォーマットだから、アクセサリも専用にならざるを得ないのだ)に据ゑたい。かういふちまちましたカメラ(とアクセサリ)を卓の隅に並べ、反対の場所に酢のものや胡麻和への小鉢をちまちまと並べ、眞ん中に銚釐を置けば、目も舌も喉も、満足な酒席となるにちがひない。