閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

388 コシナが慾しいな

 偶に…年に一ぺんか二へんくらゐ、ベッサが慾しくなる。ここで云ふベッサはオリジナルでなく、二十世紀末にコシナが出した方。今はどうなつてゐるのか。記憶にあるのはベッサL、同R、同T、それから同R2だから、この稿はそこで途切れる話になる。念を押すと、例の如く資料的な価値は正確にゼロなので、その辺をまあ、ひとつ。

 何故ベッサを(稀に)慾しくなるのか。

 我ながら先づ、そこが不思議である。

 一体わたしは寄つて撮るのが好きで、速撮り…スナップはしない。歴代のベッサは基本的に速く撮るのが主眼になつてゐて、詰りこちらの好む撮り方にはまつたく不向きと云へる。そもそもベッサは派生機種(エプソンのRD‐1)を除くと、すべてフヰルム機なので、今から手に入れたとしても、どの程度使ふのか、甚だ疑はしい。さうなるとベッサに対する物慾は、寫眞を撮るといふ實用的な場所に立脚してゐるのではないなと推測が出來る。己の物慾を推測するのもをかしな話だが、気にせず續けますよ。

 ベッサの名を冠した最初はベッサLが出たのは平成十一年。西暦になほすと千九百九十九年。二十世紀末期であり、銀塩カメラの衰退期とほぼ重なつてもゐる。あからさまに云ふなら、銀塩カメラの先は無からうな(飯田鉄曰く“銀塩カメラの黄昏時”)といふ雰囲気が散らほら、感じられた頃でなかつたかと思ふ。そこにファインダを持たず、焦点合せも出來ない、辛うじて露光計だけを組込んだカメラが“新製品”として出て來たのは、何とも奇妙に感じられた。わたしの周辺ではおほむね不評。くちの惡いやつは

 「フォクトレンダーは晩節を汚した」

とまで云つてゐた。但しその頃のフォクトレンダーといふブランドは、棺桶の中に寝そべり、蓋もされて、後は墓地に埋められるのを待つだけの状態だつたから、この批判はをかしい。今にして思へば、コシナは無名、または二流のメーカーであつて

 「そんな会社が、栄光あるフォクトレンダー銘を使ふとは、まつたく怪しからん」

といふ気持ちの顕れだつたのかと思ふが、同情は出來ても共感は出來なかつた。コシナがどんな会社か、その時は知らなかつたけれども。

 ベッサLを入手したのは翌年だつたかと思ふ。反發心ゆゑではなかつた。ベッサLに距離計とファインダを組込んだベッサRが發賣になり、それにあはせるかのやうに、幾つもアクセサリを出してきたのに興味を惹かれたからで、實に巧妙な商ひだつたと思ふ。冷静に考へれば、大量のアクセサリが必要といふのは、そのカメラが不便である事を示してゐる。嘘だと思ふならライカを見ればいい。あの膨大なアクセサリ群…たとへばNOOKYと総称される近接撮影装置やVISOFLEXといふ一眼レフ装置…は、本体だけではどうにもならない事を、どうにかしたいといふ慾求から造られた。必要に迫られた面もあつたらうが、ライカ本体をそのままに精緻きはまりないアクセサリを用意したのは、ドイツ的な執念深さと思はれる。

 翻つてベッサのアクセサリ群には、さういふ(ライカ的な)執念が感じられない。余裕たつぷりに

 「ね。かういふのがあつたら、愉しいでせう」

と囁いてゐる気がされた。あの感覚は今でも間違ひでなかつたと思ふ。その辺りをごく簡単に云へば、ライカとは背景が異なるからで、便利に撮りたければ、さういふ目的にかなふ機種は好きに撰べた。詰り不便が不便といふ理由で、マイナスの評価に繋がる心配をしなくても済んだ…といふより積極的にその不便を打出せる背景があつた。もう少し突き進んで云ふなら、ベッサは遊戯性を重く視てゐた。そんな風に考へると、焦点合せに露光合せ、巻上げも巻戻しも全手動、即ちユーザに任せて、外に幾つかの補助具を用意してきたのは、寧ろ理に適つてゐたと云つていい。然もその気になれば寫眞の一枚も撮れもするのだから

 「こりやあ大した發明だ」

と褒めると、コシナの偉いひと(ことに社長は寫眞愛好家でもあるから)は、厭な顔をしさうである。

 「先づは、撮りませうよ」

云はんとするところは解る。解るとして、撮れるカメラはどこにでもあつても、弄る事自体を目的に出來るカメラはさうさう見つからない。異論は承知で云ふと、ベッサ以前にはライカⅢcとニコンF4があつたくらゐで、但し両機に遊戯性が丸で欠けてゐた事は(当然だけれど)、改めて指摘しておきたい。

 あからさまに…些か露惡趣味な云ひ方をすれば、秋の夜長、ヰスキィの水割り(葡萄酒でも純米酒でも焼酎でもかまはないが)を舐めながら、アクセサリを附けては外し、空シャッターを切る樂みがベッサには最初からあつた。Lの造りには、元になつた一眼レフめいた安つぽさが残つてゐたが、値段を考へれば驚異的なファインダを搭載したRと、おそらく歴代ベッサで一ばんコシナらしい…この場合のコシナは社長に対する印象とある程度の(いやかなりの?)部分が重なるのだが…Tに到つて、ほぼ解消された。赤瀬川原平はベッサLについて

 「この何でもイージー・オートに向う世の中に、ほとんどテロにも近い(中略)ほとんど表現として飛んできてしまった」

 と書いたが、この評は寧ろTにこそ(いちいち個別の説明は省くとして)似合ふ。この異様な機種は本気で使つたら現代のデジタル・カメラより速く撮れる…念の為に云ふと、スナップといふ範疇に限れば、これは掛け値無しですよ…が、その為には多少の習熟や知識を求めてくる。併し未熟で知識が足りなくても、前述の樂みは存分に味はへるし、もしかして全自動のデジタル・カメラしか知らない若ものが、焦点を合す事、露光を調へる事、構図を考へる事は獨立しながらも関係してゐると學ぶのに適してゐるやも知れない。かう云ふとニコンNewFM2がある、あつたと指摘されるだらうが、一眼レフは本來的にさういふ要素が一体化してゐるから、ベッサTには僅かに及ばない。…まあそこまで眞面目な位置附けをしなくても、夜の肴に似合ふのだけれども。

 但しベッサTは、ベッサの“もうひとつの機能”である撮影に、ややもすると敷居が高く感じられるのも事實で、その辺りを含めると、オーソドックスなRかR2が宜しいのではないか。両者のちがひは主に、ライカねぢマウントか同Mバヨネット互換か。パーツの細かい見直しや素材の変更もあるけれど、そこまで踏み込まなくてもいいでせう。自分の撮り方に適ふかどうかはさて措くとして、使ふ上での不安はTより少いし、不便さは残るとしても、そこには“失敗する(かも知れない)といふ樂み”が担保されてもゐる。この樂みはプロフェッショナルには絶対に許されない、素人の特権なんである。と云つても

 「そんな特権は要らないよ」

さう反論するのは至極当然の感情で、併しその特権を使はない、使はずに済ませる為に、リコーのGRⅢやソニーのRX100辺りがあるのだと指摘しておかうか。改めて云ふと、初代が登場したのが二十年前、遊戯に片足…軸足を置く、つまみにも實用にもなるカメラは、LからR2に到る一連のベッサ以外に姿を見せてゐない。稀にベッサを慾しいと思ふ裏には、さういふややこしさがある。明確にではないが(詰り、カメラをつまみにするなんて怪しからん、といふ表向きの事情)、どこかに潜んでゐさうな気がする。

 

※以下の三冊を参考にした。

 『使うベッサ』

  赤城耕一(双葉社)

 『BESSA WORLD』

  (日本カメラ社)

 『フォクトレンダー ベッサ読本』

  田中長徳(アルファベータ)