閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

027 手繰らない

 蕎麦を手繰るといふのは余り品のいい言葉ではない。字面を見れば直ぐに判るとほり、手を使つて引き寄せる意味合ひで、これを"お箸(手)を使つて蕎麦を口許に寄せる"と解釈するひともをられるみたいだが實感に乏しいよね。饂飩が相手の場合に手繰るは用ゐないのも気になる。饂飩でも素麺でもラーメンでもスパゲッティでも手繰るは使はなくて、詰り蕎麦に限られた云ひ廻しである。もつと云へば笊または盛以外では用ゐられない。天麩羅蕎麦を手繰るなんて云ふのは、をかしいでせう。このことから考へられるのは、町奴が蕎麦の盛られた笊なり蒸篭なり…饂飩にも素麺にもラーメンにもスパゲッティにも見られない…をお箸で引き寄せた様が、食べる動作の意味に転化したのではないか知ら。威勢がいいなあとは思ふが、お行儀はよくなくて、確かにその品の惡さは蕎麦に似合ふ。『吾輩は猫である』に登場する迷亭先生は苦沙彌先生の妻君に、笊は三口か四口で喰ふものでさあと見栄を切つてゐて、明治の東京に残つてゐた柄の惡い江戸振りはこんな感じだつたのかと思ふ。とこんな風に書くと、何だかえらく蕎麦に批判的だなあと思はれかねないから慌てて云ふと、"011 たぬきを讚す"で触れてゐるとほり、蕎麦自体は好物なんですよ。通ぶつた"手繰る"の用ゐられ具合が気に入らないだけで、さういふ時は小腹が空いたから、ざるを一枚啜つたでいい。どうしても手繰るがよければ、腹が減つて仕方なかつたから大急ぎで、ざるを二枚、手繰つたとしてもらひたいね。これなら語感に適ふ。さう考へるとこの云ひ廻しが活きるのは、お午を外れた時間帯の立派ではない町角の蕎麦屋だつたり立ち喰ひだつたりの場所かと思はれる。この後も予定が立て込んでゐて、兎にも角にも空腹を素早く何とかしなくてはならない…といふ状況。これだつたら品下れる食べ方になつてもやむ事を得ないもの。

 尤もさういふ食べ方にあくがれる道理はなく、同じお午を外した時間帯でも、悠然と酒肴から笊なり盛なりを註文出來る方がいい。古人を見倣ふのが大事なのは認めるけれど、"手繰る"といふ品の惡さは例外と云ふものなんです。

f:id:blackzampa:20171205100438j:plain