閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

467 うで玉子ふたつ

 ふとその気になつて、たぬき蕎麦を啜つた。東京風の揚げ玉を散らしたやつ。立ち喰ひ蕎麦の種ものも色々とあるけれど、蕎麦でやつつけるなら、たぬきが一ばん気らくに思はれる。牛蒡の掻き揚げや春菊の天麩羅だつて惡くはないにしても、蕎麦つゆに対して些かくどく感じられる。

 「すりやあ、丸太の胃袋がそれだけ齢を経つただけの話ぢやあないか」

といふ見立ては正しい。我が強靭な胃袋の讀者諸嬢諸氏だつて、いづれはさうなるんですよと、云ひ添へたくなつてくるが、それはまあ余計なお世話か。

 啜りに行つたのはごく小さな立ち喰ひ蕎麦屋…ちやあんと椅子があるから、立ち喰ひは不正確で、併し立ち喰ひと呼びたくなるくらゐの店。競馬好きと思はれる(ラヂオ中継がよく流れてゐる)小父さんがひとりで切り盛りしてゐる。椅子を引きながら

 「たぬき蕎麦を、下さいな」

と註文をした。隣の席では、爺さんが、盛り蕎麦にうで玉子を附けたのを、のつたりと啜つてゐる。

 茹で置きの蕎麦を丼に入れ、揚げ玉を散らし、つゆを注いで葱を乗せたのが、出てくる。旨さうである。そのままつゆをひと口ふた口含んで、七味唐辛子をわさわさ振つてから、蕎麦に取り掛かる。恰好をつけてゐるのでなく、さういふ癖なのだから仕方がない。

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 盛り蕎麦爺さんが店を出て、代りに入つてきた男が、冷したぬき饂飩とうで玉子ふたつを註文した。饂飩より先に二個のうで玉子(殻は剥いてあつた)が男の前に出されて、饂飩とどんな具合に組合せるのか知らと思つたら、一個目に素早くぱらぱら塩を振つて、饂飩が出る前に食べた。さういふ食べ方をしてもいいものだらうか。他人さまの流儀にけちを附ける積りはないが、何となく落ち着かない気持ちになつた。それでもうで玉子はもうひとつ残つてゐる。そつちは饂飩にあはすにちがひない。うで玉子と冷し饂飩の相性には疑念があるのだが、最初の一個を云はば前菜にするくらゐだから、わたしの予想を覆す食べ方を見せてくれるかも知れない。さう思つて横目でちらちら見てゐたら、男に電話が掛かつてきたらしく、もそもそ喋りだした。一応は場を心得てゐるのか、小聲だつたので、仕事に絡んだ話なのか、行きつけの店のお姐さんからなのか、借金取りの催促なのかは判らない。その内こつちがたぬき蕎麦をすつかり平らげて仕舞つて、かういふ店では食べ終つてだらだらするわけにはゆかず、仕方がないから、ご馳走さんと云つて外に出た。なのでもうひとつのうで玉子がどうなつたかの顛末も判らない。外に出て三歩進んでから、生卵をひとつ、追加で落としてもらへばよかつたと思つた。