閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

030 野蛮な串

 焼き鳥やもつの串焼きはうまい。ねぎま(本來は葱と鮪を鐵鍋で煮た料理の筈だが、この際煩いことは云ひますまい)は勿論、ハラミにレヴァ、ハツにタンにコブクロ、ボンジリ、セセリ、その他、諸々…うーむ。書き出しながら嬉しくなつてきた。と云つたそばから串焼きが實際に旨いのかといふと、多少の疑問を感じなくもない。まづくないのは明々白々なのだが、諸手を挙げて歓ぶほどかどうか。

 すりやあさ君と宥めるやうな聲も出るだらう。

「ひと口に串焼きと云つたつて、塩梅宜しきがあれば、さうでないのもあるんだから、その辺は考へなくちやあいけないよ」

と云はれたら確かにその通りと思ふ。その通りとは思ふのだが、どうもそれだけでは納得し難い。何だらうと考へるに、もしかするとわたしは肉や内臓の味とは別のところに引つ掛つてゐて、だから嬉しがりながら、諸手は挙げない…挙げられないらしい。かう云つても何のことか解らないでせう。もう少し話を續けます。

 串焼きは串焼きと呼ばれるくらゐだから、肉や内臓を串に刺して焼く。この"串に刺す"のが大切な点で(かういふ調理法としては珍しくない。たとへば中央亞細亞には羊肉を串刺しで焼き、香草をまぶして食べるシャシュリークがある。一ぺん喰つてみたいなあ)、我われは串の端を持つて、焼けた肉乃至内臓を喰ふ。落ち着いて考へるにこの食べ方は可也り下品で、その下品さは野蛮さや原始的な印象に繋つてゐる。ほら、焙つた骨つきの股肉にかぶりつくやうな、あの感じ。そこから連想して串を骨に見立てるのは無理でないと思ふ。串焼きを頬張るのは詰りうんと小さな規模で短い時間、自分を野蛮人に戻すことで、野蛮人にとつての肉内臓はそれだけで十分なご馳走だつたにちがひなく、その原始のご馳走の記憶が擽られて、串焼きを旨いと感じるのではあるまいか。證拠としては間接的になるが、串焼きを串から外してお皿に乗せ、ひと切れづつ食べると途端に味が落ちるでせう。あれは原始から一ぺんに現代まで引き戻され、味覚が追ひつかないからだよきつと。

 考へられることはもうひとつあつて、大体の場合、わたしは串焼きをたれで註文する。いやそれはをかしい。塩でなくちやあ肉内臓の味が解らないぢやあないかとお叱りの聲をあげるひともゐるだらうが、そんな莫迦な指摘はない。塩で食べるのがいけないのでなく、塩で食べると肉内臓の味や焼き具合、塩そのもののよし惡しが(たれに較べれば)露骨に出易い。下手を打つとまづいのに当りかねないから、余程に信用出來るお店…詰り何回かは通はないといけないし、何回か通ひたくなる程度にたれが旨くなければならないのだが…なら兎も角、さうでない限りは概してたれの方がうまい。または安心出來る。そのたれも何軒かを何度かまはると、甘め辛めとろりさらり、相違が案外に大きいと判るのも面白い。わたしの舌が到つて鈍感なのもある筈だが、塩至上主義者の云ふ"素材の味"に拘泥しないのだ。

 ところで串焼きを食べる以上、呑まないといふ撰択肢は有り得ない。この場合、串焼きが野蛮…少なくとも原始の野蛮を刺戟する食べものである点を考慮する必要があつて、洗練された酒精は望ましいと考へ辛く、最初はまあ当り前に麦酒でせうね。壜の方がよささうに思ふ。サッポロの赤星なんかが似合ふ。或はホッピーから始めるのも惡くない。そこから續けるのは焼酎ハイ。檸檬くらゐはいいが、あんまり凝つた味つけは避ける方が無難だらうな。お湯割りにして梅干しを入れるのもいい。焼酎は匂ひがどうもねえと感じるひとなら思ひ切つて葡萄酒にする方法もある。ヴィンテージなんか気にせず、南米辺りのもつさりして野暮つたい赤を撰ばう。乱暴な呑み方になるが、ひと欠片の氷をはふり込んでもいいし、ジュースで割つてサングリヤ擬きにするのもいい。たれだとお酒は似合はないと思はれるが、濁り酒や澱がらみのからいのなら大丈夫だらう。塩が信用出來るならきれのいい銘を常温で。

 かうやつて呑む夜にこつらしいこつがあるわけではないが、酒精の種類は余りあれこれ取替へない方がよささうである。麦酒の外に二種類くらゐが限度でせうね。ああ、ひとつ思ひ出した。串焼きは出たら冷めない程度の時間で食べること。なので一回の註文は精々二本か三本。追加はそれを食べきる前に註文すること。獅子唐や葱を挟むと口が変るから、覚えておいて損にはならないと思ふ。これなら常に焼きたてを頬張れるし、区切りもつけ易い。ぱつと食べてさつと終らすのは場と品をわきまへない態度と云はれさうだが、串焼きはがんらいさうやつて愉しむ野蛮な食べものなんだから、気にしなくてもかまはんのです。