閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

189 そこで話は餃子へと

 何かを食べる時に何をつけるか、といふのは案外な議論の種になる。

 コロッケには醤油。

 鯵フライにも醤油。

 ソーセイジとベーコンにはマスタード

 とんかつだとウスター・ソース。

 鶏の唐揚げは塩だが、例外的に檸檬醤油が惡くない場合もある。

 天麩羅なら天つゆに大根おろし

 牡蠣フライはウスター・ソースに潜ませるくらゐのチリー・ソース。

 もつ煮なら七味唐辛子。

 豚の角煮だと辛子。

 目玉焼きは醤油乃至マヨネィーズ。

 秋刀魚の塩焼きには大根おろしと醤油。

 湯豆腐や水炊きなら大根おろしとぽん酢。

 お刺身の類は少々ややこしく、山葵と醤油が基本なのは議論の余地もないが、稀に生姜または大蒜と醤油、もつと稀に辛子と醤油がうまい場合もある。

 色々偏つてゐるなあと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は呆れる筈だが、さう云ふ貴女にだつて、きつと、偏つた好みがあるだらう。意識してゐないだけのことで、列挙すれば自分のことなのに驚くにちがひない。お刺身の山葵ひとつを考へても、身に少量乗せるのが本來と云はれても、その辺の飲み屋でなら、醤油に溶く方が旨い。本來の食べ方は本來の食べものを相手にして初めて本領を発揮するもので、さうでない時は、変則的な方法を採る方が好もしくなるのは、珍しくはない。その変則や妥協が習慣になり、その習慣が嗜好の種になる。得てして、そんなものなんです。

 そこで話が餃子になる。この稿では焼き餃子の意味。では何故(焼き)餃子なのかと云ふと、“何をつけるか”に複数の派閥が並立してゐるのが、案外と珍しいのではないかと思つたからで、上述の鯵フライにわたしは醤油を撰ぶが、ウスター・ソースだらうと反論が出るのは予想の範疇である。併しそれ以外の反論が出るだらうかとは疑問で、タルタル・ソース派や塩派もゐるとしても、少数派に留まるだらう。さういふ二項の対立は鯵フライに限らずある筈だが、餃子の場合は事情が異なつてくる。辣油と醤油と酢。これが基本になるのは云ふまでもないとして、味噌やぽん酢、胡椒を用ゐる派閥があるし、“餃子のたれ”が最良だと主張する派閥もあり、それぞれが一派として相応の勢力を持つてゐる。酢醤油辣油が基本とは云つたが、圧倒的とは呼び難い。かういふ食べものは少ないのではないか知ら。

 ここまで煽るのだから、丸太はさぞや…と考へた親愛なる讀者諸嬢諸氏には申し訳ないが、わたしはごくありきたりである。以前は辣油だつた。正確には辣油に醤油を垂らしてゐた。今は酢に醤油を垂らし込んで、そこに少量の辣油を落す。すりおろしの大蒜があればそつちをたつぷり入れ、辣油は省く。これは外で食べる場合で、“餃子のたれ”があればそれを使ふ。さう云へば神戸で一ぺん、味噌たれで食べたのを思ひ出した。旨いものだつたが、今にして考へるに、あれは餃子が味噌たれに適つたといふより、味噌たれに適ふ餃子だつたのだらう。横濱でも食べられるのか知ら。

 マーケットの惣菜なら、(味つけ)ぽん酢が主になる。偶に生姜醤油で食べるのも惡くない。唐辛子や柚子胡椒の類はあの辛みが苦手だから使はないが、好むひとには適ひさうに思はれる。同じあんを皮でくるんだ焼賣が辛子醤油一辺倒なのに思ひを馳せると、わたし程度でもかうなのだから、愛好家は何を用ゐるのだらう。豆瓣醤や甜麺醤からナンプラーを通り過ぎ、自前で新工夫を凝らしてゐさうに思へる。想像が行き届かないから、羨んでいいのかどうか。かうなると議論の種になるならないの前に、まづ食べてみなくては始まらないが、あんにひと捻りが自慢の店はあつても、こつちを賣りにする店は少ない気がする。ここは西洋料理のソース自慢を見習つて、醤油でも酢でも辣油でも味噌でも魚醤でも、或はその外諸々でも、組合せを樂しめる餃子屋の登場に期待したい。