閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

381 残る問題のこと

 餃子が好きなのだと云ふと、したり顔で、どうせ焼き餃子でせう。本場では水餃子なのですよと知識を披露するひとが出てきさうである。確かに焼き餃子が好物なのは事實で、この稿はさういふ話をする積りでもあるのだが、幾らわたしが無知でも、水餃子が本來…元々の姿だつたらしいことは知つてゐる。もつと云へば、元々は皮が分厚くつて、中身のみつちり詰つた、主食であつたことも知つてゐる。尤も知つてゐることと好むかどうかは別であつて、水餃子は勿論、蒸し餃子や揚げ餃子だつて旨いのは認めつつ、矢張り焼き餃子が一ばん好もしいと思ふ。かういふ嗜好に根拠があるものか。

 

 ここからは餃子を焼き餃子の意味で使ふ。

 おかずと云つていいものか。世間に餃子の定食は珍しくもないが、ごはんに適ふのは挽き肉の混じつたたれの方で、本体はどうだらうねと疑念を呈したくなる。さりとてつまみになるかと云へばそれもまた、多少の疑問が残る。麦酒に紹興酒、焼酎。或は葡萄酒やハイボール。どれも適はなくはないけれど、決定版とも呼びにくい。なら獨立して食べればいいかと云ふと、些か物足りない感じがされる。要するに扱ひがややこしい。だつたら食べなければいいと考へるのは早計以前に浅薄な態度で、扱ひが六づかしからうが何だらうが餃子は美味い。酒精に馴染まないのは、薄い皮に種を包み、鐵板で焼いて喰ふ方式が随分と新しいからに過ぎない。

 小麦の皮でくるんだ挽き肉、韮、白菜、生姜に醤油と酢と辣油。

 まづこんなところだらう餃子の基本形は、ごく大雑把に敗戰後の日本で成り立つたらしい。大陸帰りの元兵隊が、口に糊する為の工夫とも云はれてゐるが、そこは判然としない。ここでは餃子を焼いて喰ふ料り方が、ざつと八十年程度の時間しか経てゐない…ラーメンより遥かに若い…ことに着目すればいい。餓ゑを凌ぐ目的で生れた食べものが、食事としても、酒席の友としても、洗練されるには、これはまだ短すぎる時間である。洗練された餃子とはどんなものだと訊かれても、それが未だ出來てゐないのだから、具体的に応じるわけにはゆかないが、餃子と聞いて、ある食事乃至酒精が浮ぶ風な変化だと、曖昧に云つておく。

 併し洗練された餃子が果して旨いのか。まづくなれば洗練ではないから、旨い筈だとして、ではそれが我われ…いやわたしの口に適ふのかどうかといふのはまた、別の問題である。洗練の中には儀式的な要素も含まれるもので、たとへば蕎麦はたかが備荒食だつたのに、今では蕎麦を一枚啜るにも、ああだかうだとご高説を宣ふひとがゐる。八釜しいし、さういふひとが好んで使ふ、野暮だねえと揶揄ひたくもなる。餃子を目の前に、半可通の蘊蓄を聞かされるのは迷惑以外の何ものでもないことを思ふと、洗練はまあいいやと云ひたくなつてきるが、おれが死ぬまでならば(まあ十年か十五年か、そんなところだらう)平気かといふ気もしなくはない。

 

 そんならたつた今の我われは餃子を前に右往左往するしかないのかと云ふと、さうとも云へなくて、要するに好きにすればいい。

 定食でよければラーメンや炒飯とあはせてもよく、餃子を山盛りにした大皿でも構はない。

 烏龍茶でも茉莉花茶でも緑茶でも水でも、紹興酒でも麦酒でも焼酎でも葡萄酒でも勿論いい。

 酢醤油に辣油だと決めなくたつて、ぽん酢や胡椒、蕃椒、辛子、塩。種の下味がしやんとしてゐたら、何も使はなくても、舌に適へば宜しい。

 種にしてもチーズやら酢漬けキヤベツやらコーンド・ビーフやら、勝手に入れれば(ラーメンより若い食べものの割りに、さういふ勝手次第が見られないのは、餃子の不思議である)よい。

 わたしが死んで半世紀も過ぎた後の通人が、昔の餃子は野蛮だつたと笑つたとしても、それはこつちの知つたことではない。

 おかずにするより、酒精のお供にしたい。

 いつたい食べものの姿や味にわたしは保守的または臆病な男だから、目新しい種を使つた新式餃子でなくていい。大多数の同意を得られる筈の基本形…呑みながら食べることを考へれば、皮は分厚めが好もしいか。そこに酢醤油と少しの辣油があれば満足で、大根おろしと大蒜おろしがあれば、望外の悦びといふものだ。

 一人前が五個か六個として、二…三人前だらうか。外にザワー・クラウトだとか、苦瓜のピックルス、或は沖縄の島辣韮があれば、もつといい。かういふ組合せならお酒は似合はないし、葡萄酒は余程もつたりした赤か、口を洗へる辛い白でないと喧嘩しかねない。大きなコップで麦酒を一ぱい平らげ(最後まで麦酒で押し進めるなら黑麦酒がいい)、黒糖焼酎の水割りかソーダ割りに移れば、収まりが宜しからう。温めた紹興酒が惡くないのは当然だが、それは本式の水餃子を味はふ時に取つておかう。残るのは餃子と(黑)麦酒と黒糖焼酎とピックルスを用意するお店が、どこにあるのかといふ問題で、問題が残るといふのは、樂みが残るのに近いと思へば、厭な気分にもならずに済む。