閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

468 れんげ盛り

 焼飯にウスター・ソースをかける。

 醤油ラーメンに酢や辣油を垂らす。

 といふのはお行儀の惡い食べ方である。週末の午后に家で食べる分にはかまふまいが、さうでなければ、詰りお店で食べる場合は、實行しない方が無難であると思ふ。

 ただお店の焼飯…こつちは炒飯と呼びたいのだが…やラーメンが、そのままだともうひとつ、口に適はないことがあつて、これだと話が異なる。異なつてくる。店主はきつと

 「うちの(自慢の)味だから」

と思つてゐるし、それは当然である。旨いまづいと口に適ふ適はないは別問題で、そこはお互ひ、どうにもならない。ウスター・ソースや酢や辣油は、その隙間を埋めるのに使ふ。我が親愛なる店主諸君には諒とされたい。

 尤もいきなり、またざぶざぶとかけるのは、流石に憚られる。店主自慢乃至自信の味と、こちらの好みの隙間を埋める必要があるものか、確かめるのが矢張り先決である。たとへばもり蕎麦が出た時、つゆに素早く山葵を溶いて、葱をはふり込むひとがゐるでせう。ああいふのは感心しない。山葵も葱も食べる分に乗せるのが本來で、お行儀の面もなくはないけれど、その方がうまい。

 焼飯やラーメンが例外になるだらうか。

 といふのは、文章技法で云ふ反語であるから、例外にならないのは勿論である。詰りウスター・ソースも酢も辣油も、食べる分に使ふのがいいことになつて、そこでれんげに視線を送ることになる。匙の一種で漢字だと蓮華。これは植物の蓮華である。名前の由來は、散つた一枚の花びらに似てゐるからださうで、散蓮華とも書く。ちよつと淋しさうな字面なので、ここではれんげと書く。匙史を辿るのは面倒なので省くけれど、食器としての(呪具として使はれた頃もあつたさうだ)れんげが我が國にもたらされたのは平安の頃。唐からの伝來だといふ。

 我われに馴染みのあるれんげは、底の平らな舟の艫から柄が延びてゐる形で、ソップを食べるのに具合がいい。といふことは、少量の盛りつけにも転用出來るわけで、どうです、話がゆつくり戻つてきたでせう。そのれんげに焼飯を掬つてウスター・ソースを垂らす。或は麺を乗せた後にソップを含ませ、酢なり辣油なりをちよいと…などと書くと

 「いやそれはちと、せせこましくはありませんか」

と半ば呆れる讀者諸嬢諸氏がゐるやも知れず、その気持ちはまあ解らなくもない。解らなくはないし、そんな眞似をしなくてもいい焼飯やラーメンだつて、世の中にはある。勿論れんげに盛らなくても十分に旨ければ、そのまま平らげれば宜しい。不運にもさうではない場合だつて、これならお行儀もさほど惡くはならない(と思はれる)し、店主自慢の味に敬意を示しつつ、自分の口に適はす工夫も樂める。うーむ。矢つ張り我ながら名案だなあ。

 残るのはレバニラ炒め(肉野菜炒めでもいい)の、お皿に残つた汁気を、れんげでどうにか出來ないものかといふ問題。とは云へ、レバニラ炒めにはれんげがついてゐないし、用意してもらつても、広く淺いお皿では扱ひが六づかしい。れんげ盛りは諦めざるを得ないだらうか。