閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

391 文化的な本能

◾️壱

 時々、“本の話”と題して讀んだ本について書く事がある。讀書感想文の一種とは呼んでいいが、断じて書評ではありません。謙虚や遠慮で云ふのではなく、丸々本気で云ふのである。ここでわたしが云ふ書評は、主として丸谷才一の筆になる。ちくま文庫に収められた『快楽としての読書』(日本篇、海外篇)と『快楽としてのミステリ』の三冊でその威容の概観は掴める。手元にあるのは一冊千円(消費税別)それでざつと三百冊の書評を讀めるのだから、まことに廉価である。

 廉価と断ずる理由の第一は上にも書いた三百冊といふ数字。詰り情報量が膨大である。第二には文庫本といふ形式を挙げたい。一篇一篇の分量は大したものでないから、ひよつと手に取つて、ぱらりと捲り、幾つかを拾ひ讀み出來る。手に入れたい本が見つかれば、手帖に書きつければよく、さうしなくてもかまはない。気樂でいい。第三に書評と本にまつはる随筆、鼎談が収められてもゐて、それもまた面白い。第四にラパーのイラストレイションと本文中のカットを手掛けたのが和田誠(この才人は丸谷の本の多くで絵筆をふるつた)で、それも樂める。本文に関はりながら、巧妙に捻つた画が愉快である。

 併し何より丸谷の書評自体がいい。何がどういいのかを説明するのは六づかしいから、ちよつと引用しませうか。『メニューは僕の誇りです』(斎須政雄)を評した冒頭。

 

 京都の腰かけ割烹、千花の主人から、東京ではフランス料理屋はどこへゆくかと問はれて、コート・ドールと答へたところ、につこりと笑つて、

「いい店ですな。斎須さんはいい料理人です」

 客としてのわたしの格が、少し上つた気配であつた。

 

 本の題名と著者の名前から、“コート・ドールの斎須さん(いい料理人)”の話だつたのだと判る。ユーモラスであつて、ほほう、シェフの文章はどんなものだらうと思へる出だし。ただ丸谷はそこに深く踏み込まない。“なかなかよく出來てゐるこの自伝兼料理論およびレシピ集”と褒めるに止めて、寧ろ料理人である斎須政雄の、“食べものに対する感覚のすすどさ”…母の味つけは薄かつたとか、父からは醤油のかけすぎを戒められたとか…を紹介する。これが書評?本の紹介にもなつてゐないのではないか。ところが我われは、さういふ“食べものの味を精緻に感じ取れるひと”が書いたのなら、かれの料理論やレシピは信用に足るだらうと思ふ。

 幾ら何でも評者と著者が近すぎる。特殊な例を挙げてはいけないと批判されるだらうか。ではもうひとつ、引用をしませう。『日本の女性名』(角田文衛)を評するにあたつて丸谷は先づ、女性の名前の頭に“お”を附ける風俗の歴史を、五頁に渡る書評の二割近くを使つて示す。云ふまでもなくそれが必要だからで、著者が“この特異な、そしてまことに関心を惹く重要なもの、わが女性名の通史を書く”と、女が臥所に入るやうななめらかさで、本の紹介に到る。その紹介はまつたく精密で

・日本の女性名を世界の女性名の中に置いた考察する視野の広さ。

・その考察の實證性の高さ。

・更にその名前を手掛りに、日本の女性史を展望する仕掛け。

を順に挙げ、時に手を拍つて喜び、時に小さな疑念を示しながら、面白がり、著者を言祝ぐ。

 

 まづ何よりも著者の、女性に対する愛着、あるいは愛執だからである。さながら、蝶が大好きな蝶類學者の蝶類図鑑が完成したときのやうに祝意を表したい。

 

女性名を扱つた本だから、蝶(と蝶類學者)をもつてきたのは明らかだが、その冗談の手触りが優しくて嬉しくなり、“蝶類図鑑”を一讀したくもなつてくる。かういふのを文章の藝…書評と呼ぶので、それらを三冊纏めても、たつた三千円で存分に味はへると思へば、廉価と云ふのは間違ひないとして、寧ろ贅沢と呼ぶ方が適切かも知れない。

 

◾️弐

 ここで問題になるのは、かういつた藝を讀み馴れた自分が書評を書けるのかといふ事で、冒頭に謙遜でなく讀書感想文と云つたのは、その辺の事情がある。これで“本の話”を書評と称するほど、わたしは耻知らずではない。厳密な事を云へば、讀書感想文は“非常に出來の惡い”書評とも呼べるのだが、それだと具合が惡いのでその点は目を瞑る。

 では出來の惡くない…書評と自称しても許されるだらう書評の條件は何だと訊かれると思はれて、一応の條件と思へる事柄は列挙出來る。

 俯瞰と位置附け、比較と分析。

 この四つになると思ふ。えらく抽象的だと叱られさうですな。そこである小説の書評をものにしたいとして、挙げた順に條件を考へてゆく。

 先づ俯瞰と位置附けは別の要素だが、分けにくいので同時に進めると、大きくは文學の歴史、中くらゐはその小説の分野史、小さくは筆者の個人史といふ時間軸を想定して(これが俯瞰)、対象になる小説が本流か亞流か、でなければ“非”或は“反”なのか(こちらが位置附け)と考へる事である。併せてその小説が書かれた時代や地域についても、ひと通りは知つておく方が宜しからう。

 その上で、同じ筆者の別の本(それは小説に限らない)、時間の規模の大中小を問はず、歴史上の同系列の本、同時代の別の本との比較をしなくてはならない。優劣を決めるのではなく、差異を考へるんである。位置附けの変形とも云へるが、この過程を経る事で、その小説の書評を“本当に書いていいのかどうか”の判断が出來るのではないか。

 併しそれで書評に取り掛かれるわけではない。有り体に云へば、やうやく外濠が埋つただけの事で、ではその小説のどこがわざわざ書評を書くに足るのかを明確にしなければならない。その作業が分析であつて、“面白いぞ”とか、“手に汗を握つた”と騒ぎ立てるだけでは話にならない。俯瞰と位置附けと比較まで出來てゐて、そんな破目になるとしたら、そもそも書評に向いてゐないひとなのだと思はれる。

 念を押すと、ここまではあくまでも“一応の”條件に過ぎない。それらを満たした後に、それらを論理的に具体的に(詰り俯瞰と位置附けと比較を示しつつ)、諧謔と尊敬を忘れず、讀んだひとに、この小説はきつと面白いのだと感じさせる文章に(職業的な書評家なら文字数も考慮して)纏めなくてはならない。とんでもない難行であつて、かうなるとどこかの批評家…どうせイギリス辺りだらう…が

 「おれたちは文學を正しく評価するのだから、文學それ自体よりえらいのだ」

と高らかに叫んだのも納得出來るのだが、かう云ふと、他方から

 「なんて極端な態度なんだ。我われに書評を書くなと云ひたいのか」

と猛反發が出るのははつきりしてゐる。勘違ひされては困るから云ふと、書くなと云ふ積りではまつたくない。面白い本を同好の士に紹介したくなるのは、文化的な本能だもの。ただそこで我われは、伊丹十三が我われに、“自分の評価が、他人の評価を上回る事があつてはならない”と忠告して呉れた事を思ひ出す必要はある。即ちある本について一文をものにした時、書いた貴女もわたしも、自分が書いたものは“本当に書評なのか”と、疑念を抱けねばをかしい。その疑念や葛藤を経て、なほ私は書評を書いてゐると思へるなら、それは羨望に値する。

 

◾️參

 併しかうまで書いて、それでも書評への…大きくかまへれば批評へのあくがれは、詰りさう呼ばれるのに相応しい一文を書きたい、といふ気持ち(残つた寿命では六づかしからうと思ひつつ)はある。前の項で云つた四つの條件、即ち俯瞰と位置附けと比較と分析を満たすのは、高度に知的な作業であつて、それを文章に纏めるのは別の面で高度に知的な作業である。前者を歴史への、後者を文學への敬意と呼んで、おほむね誤りにはなるまい。

 讀書好きで、文章を書く嗜好があつて、その両者を分割したままでゐられるか知ら。

 たとへば丸谷才一に『女ざかり』といふ長篇小説がある。手元にあるのは文春文庫版。吉永小百合主演で映画にも(観る機会に恵まれてゐないが)なつた。映画なるくらゐなら面白いのだらうと考へるのは順序が逆で、映画に仕立てたくなる程、面白い小説と理解しなくてはならない。では何が、或はどこがどう面白いのか。新聞の論説といふ詰らなささうな題材から始る筋立ての妙や主人公である南弓子と、その周辺の人物像のまことに魅力的な描寫、贈答といふ文化形態への言及(これが物語を傍で支へる)、現代と過去の恋愛模様、近代史に仄暗く潜む呪術性の破片、エロチックな冗談にしやれた会話…かう細分化して、その説明、紹介になるとは思へない。それぞれのパーツは確かに入念に磨かれてゐるが、寧ろそれらのすべてが、必要な場所に必要な形で配置されてゐる事に、我われは驚嘆させられる。筒井康隆がこれを

 「古典的作法に則った(中略)ディケンズ張りの緻密な計算による、ほとんど頽廃的なまでに長篇の技巧を駆使した」

作品と絶讚したのは、その辺りの機微を丸ごととらへた批評で、もしかすると多少の嫉妬心もあつたのか知らとも思はなくもないが、それでこの鮮やかな一筆書きの値うちが下がるわけではない。また筒井は“それ(註釈を入れると、前段の“頽廃的なまでの長篇技巧”)をここまで徹底的にやった丸谷作品は他にない”と續けてもゐる。『女ざかり』はかうして、(ひとまづは)技法の面から文學史の中に位置附けられ、更にそれ以前の丸谷小説に比較して際立つた特徴を持つてゐると指摘もされ…詰り書評といふ文章の藝が成り立つた。

 「すりやあ君」と呆れながら「筒井ほどの讀み巧者で文章家が書くのだ。鮮やかな藝が示されない方が、寧ろ不思議といふものさ」

そんな風に呟くひとがゐる筈で、またその指摘は十分に正しいし、そもそも丸谷の書評藝が、さうぢやあないかと、追討ちを掛けられたら、居直る余地も無くなつて仕舞ふ。

 ではそれで『女ざかり』について書くのを諦められるかと云へば、そんな事はない。『鷲は舞い降りた』や『金沢』についても書きたい。外にも話をしたい本は何冊かあつて、それらは少しづつ(所謂讀書感想文の域に留まつてゐるねと云はれるだらうが)触れる事にならうとも思ふ。自分が感じた歓びや昂奮を知つてもらひたい…半ばは押し附けなのだらうが、それはこつちの知つた事ではない…からで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、それは丸太の文化的な本能なのだから、諒とせられたい。