閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

500 イホ

 歴史的仮名遣ひの表記である。發音は"io"、漢字で書くと五百。音は五(i)/百(o)に分解出來る。五百羅漢なんて云ひますな。この場合、はつきりした数といふより、漠然とした大きな数字と考へるのが正しい。

 ある俳人が自撰の句集に『五百句』と附けておいて、廿か卅、溢れたかも知れないが、気にしなくてもいいでせうと書いてゐるさうで、たれだつたか。こんな態度を抜けぬけと取れるのは虚子くらゐしか思ひ浮ばない。ひよつとすると俳人には、五百羅漢の数を莫迦正直に数へた揚げ句

 「なんだ五百十体もあるぢやあないか」

と首を傾げた少年時代でもあつて、以來数字もこのくらゐになつたら、いい加減…訂正、大掴みでいいのだと考へるようになつたのだらうか。

 翻つてこの手帖を見る。それぞれの外題には番號を振つてあるから、ざつとこの程度といふ掴み方は出來ない。番號を振つたのはライカの眞似で、何故さういふことをする積りになつたのかは忘れた。何となく恰好いいとか、その程度だつたに決つてゐるか。併しその数が増えるのは勿論、惡い気分ではない。減る心配も無いことだし。かう云ふと

 「数と値うちはちがふものだよ」

と忠告されるだらう。それは正しい。何しろ文章の質は(厄介なことに)数と比例しない。我が閑を持て余した讀者諸嬢諸氏よ、嘘だと思ふなら、この手帖の若い番號と直近の番號を讀みくらべてみ玉へ。最初の頃に書いたのが面白いと感ぜられる可能性は少からずある。他ならぬわたし自身がさう思ふ(こともある)のだ、信用してもらつてかまはない。そこで

 「丸太の前提は、をかしいのではないか」

さう疑義が呈されるかも知れない。文章の数と質が比例しないのは云はば何も考へず、工夫も凝らさず、単にだらだらと書き續けた結果の筈で

 「さういふ怠慢を前提にしてはならない」

さう叱られたら頭を抱へざるを得ない。それが本筋なのは当然であつて、では丹念に考へ、工夫を凝らして書くとなつたら、さあどうか知ら、月に一本も書けないだらうな。書くといふ行為に眞面目であれば、文筆への志は兎も角、それでもかまはないといふか、さうでなくてはならぬ。併しわたしの場合、不眞面目とは云はない…云へないのは認めつつ、書くこと自体が娯樂であつて、だとすれば月に一本程度では我慢ならない。それが駄文を垂れ流してもいい理由になるものか、議論の余地がたつぷり残るのは認めるが、書くべきではない理由にはならないと思ふ。

 それに質には結びつけなくても、数は力に転化する、可能性がある。具体的にこちらの頭にあるのは畏れ多いが明治帝で、あの武張つた天皇は和歌が大好きだつた。生涯に十万首くらゐ詠んだといふ。但し御製の出來はもうひとつらしく、丸谷才一本居宣長と並べて"下手の横好き"と評してゐた。宣長の歌は下手だと思ふが、辛辣な批評だなあ。ただ文藝的な評価はさて措き、十万といふ数には数寄者の力が感じられる。これも丸谷の随筆で知つたのだが、これだけの歌を詠んだのは外に正徹(室町時代の僧)と出口王仁三郎(大本教の教祖)くらゐだといふ。詰り何と云へるわけでもない…念の為に云へば歌僧や教祖は帝を遥かに凌ぐ上手だつた…けれど

 「詠み(書き)續けた」

事實を小さく見るのは六づかしい。のではなからうか。であればこの手帖だつて、續けることで小さく見られなくなる期待を持てさうに思ふ。尤もさうなるには十万回は無理としても一万回、せめて五千回を過ぎてからにならうし(それなら[五百本]と題した自撰も許されさうだ)、果してそこまで生き延びられるのかといふ問題が立ちはだかつてくる。