閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

463 出し月かも

 阿倍仲麻呂。八世紀のひと。貴族で政治家で文人。祖父に阿倍比羅夫を持ち、系譜には安倍晴明がゐるといふが、こちらは怪しい。遣唐使として渡唐。帰國に際して開かれた宴席で詠んだと伝はるのが

 あまの原ふりさけ見れば春日なる

 三笠の山に出でし月かも

の一首。古今や百人一首にも収められた有名な歌ですな。異國で詠んだといふ背景が、望郷の念を思はせる。かれにとつて不運だつたのは、乗つた船が難破した事で、懐かしい山河を我が目で再び見る日は來なかつた。尤も貧困にくるしんでの客死ではない。当時の帝である玄宗からはそれなりに重用された(遣唐使に撰ばれるくらゐだもの、學才に恵まれてゐたのは当然である)から、唐朝の官人として役目を全うしたのだらう。

 仲麻呂の歌にある春日は奈良の地名。奈良の春日といへば春日大社を連想するひとが多からうが、創建はかれの晩年の頃だから、建物を指してはゐない。地名で云へば現在の奈良市の一部。異称に飛火野。さだまさしが「まほろば」の冒頭で"春日山から飛火野あたり"と歌つた辺りに相当する。またその春日山を御蓋(三笠)山とも呼ぶ。笠を伏せたやうな穏やかな稜線をしてゐて、その姿は仲麻呂の目の底に焼きついてゐたにちがひない。

 これらの話は後で知つた。後でと書くのだから、その前に知つてゐた事もあつて、それは三笠といふ名前である。日本史戰史好きのひとなら、日本海海戰を思ひ出すだらう。東郷平八郎の座乗艦。註釈のやうに云ふと、艦名は三笠山に因んでゐる。この艦が辿つた歴史も仲麻呂に劣らずドラマチックなのだが、ここでは触れない。それに戰艦三笠も、"その前に"知つてゐたのではなかつた。わたしが最初に知つた三笠はお菓子の名前。カステラ状の生地二枚で粒餡を挟んだ恰好をしてゐる。かういふと我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は首を傾げるだらうか。

 「丸太が云ふのは、もしかすると、銅鑼焼きを指してゐるのか知ら」

 その通り。

 あのお菓子を近畿圏では三笠と呼ぶ。御蓋山のなだらかな稜線に見立てた名附けだといふ。近畿以西でどう呼んでゐるかは知らない。銅鑼焼きといふ呼び名は、『ドラえもん』を讀んでゐて、初めて目にしたと思ふ。当時のわたしはそれが普段、三笠と呼んでゐるあのお菓子と同じだと考へもしなかつた。想像力が足りないと云はれても仕方はないが、漫画のお菓子を現實…小學生の現實だから、身の周りといつてもいい…と簡単に結びつけられるものか。…居直りは兎も角、我が仲麻呂がこのお菓子を食べなかつたのは疑ひない。日本で小豆を用ゐた餡の製法が確立したのは鎌倉期(仲麻呂の時代からざつと四世紀後)だし、カステラ(の原型)が渡來したのは十六世紀の半ば、國産には更に半世紀ほどの時間がかかつてゐる。砂糖や水飴を使ふ技法はもつと遅れて成り立つたと思へるから、小豆餡もカステラも、平城人には想像もつかない贅沢な甘みだつたと断じていい。

 併し仮に右手に小豆の餡、左手にカステラがあつて、こいつらを合体させたらきつと美味いぞ、と頭に浮ぶものだらうか。浮ばないとは云へないにしても、余程飛躍しないと六づかしい気がする。そこで源頼朝が幕府を成立させる前まで、時間を巻き戻すと、ひとつの伝承に行き当る。武藏坊辨慶が手傷を負つた際、とある農家で手当てを受けた。その時に

 「世話になりましたな」

さう云つて農家にあつた銅鑼を熱し、水で溶いた小麦の粉を円く焼いて、餡をくるんで振る舞つたといふ。伝承が主張するところによると、これが

 「銅鑼焼きの元祖であり、また名前の由來」

でもあるさうだが、甚だ疑はしい。当時は小豆餡の製法が完成に到る前だつたし、不完全な製法の餡があつたとしても、その辺の農家にあるとは思へない。武藏坊だつて持つてゐたかどうか。銅鑼もまた同様で、詰り何から何まで怪しい。いや何から何までは云ひ過ぎだらう。挽くか砕くかした小麦を焼く程度の食べものがあつても不思議ではなく、であれば焼き小麦に何かを乗せるか包むかくらゐ工夫が施されても、をかしくはなからう(クレープのやうな形が浮んできますな)辨慶がどうかうはさて措いて、銅鑼焼き…三笠に転用出來る食べもの(乃至食べ方)はあつたのだらう。尤もいつ、たれが、その工夫を、右手の小豆餡と左手のカステラに転用したかは判らない。南都辺りの老舗の和菓子屋で修行を積んだ若い職人が、崎陽に旅した時に閃いた…などといふ伝説でもあつたら、短篇小説にでもなりさうなのに、残念だなあ。

 さて。前段で三笠といふ名前は、御蓋山の稜線に因んでゐるらしいと書いた。だから架空の菓子職人を南都のひととしたのだが、本当か知ら。いや嘘だと云ふのではなくて、異なる由來は無いものだらうかと思つたのだ。確かに御蓋山は穏やかな姿の神名備山ではあるし、それ自体が春日大社の祭祀の対象でもあるが、その名を人口に膾炙せしめたのは、疑ひもなく阿倍仲麻呂の歌である。もうひとつ云へば、文學の中の和歌の地位は、令和の今よりぐつと高かつた。古今や新古今を讀みこむのは學者連中に限られてゐたにしても、百人一首辺りは我われより遥かに馴染んでゐた筈で、さうでなければ、竜田川の一首は落語にならない。念の為に歌を引くと

 ちはやぶる神代もきかず竜田川

 からくれなゐに水くくるとは

歌人在原業平。これも百人一首に収められてゐる。落語はこの歌に長屋のご隠居が無理やりな解釈を施す筋立てで、寄席のお客が意を解してゐたかどうかは兎も角、朝臣業平が詠んだ歌とは知つてゐただらう。おなじ詩歌集にある仲麻呂の歌を知らないとは考へにくい。であれば、あまの原の歌と甘いものが大好きな粋人、といふ現代では少々無理のある人物を想定出來なくもない。丸くふつくら焼かれた生地を見た粋人はきつと満月を連想したにちがひない。

 「お月さまみたいでンな」

呟きながら、仲麻呂の一首を舌にころがして

 「三笠ちふ名前は、どないやろか」

(怪しげな)関西方言にしたのは、平城の京…ナラノミヤコと訓んでほしい…への礼儀の積りである。ここで江戸の通人に顔を出されると、厭みが巧みな京の茶人(京都人に含むところがあるわけではありませんよ。為念)にも登場願はねばならず、甚だ面倒になつて仕舞ふ。

 といふ想像が三笠では出來る。銅鑼焼きでは出來ない。それは丸太の菲才ゆゑではないか、と指摘されるのは容易な推測だが、(時代背景は別として)辨慶にせよ主筋の九郎判官にせよ、武張つた才は豊かに持つてゐてもそれきりである。平泉の藤原一門も、二流の政治をそれなりの経済で支へるのが精一杯だつたのか、和歌でふるつた話は知らない。みやこにゐた後鳥羽院といふ文壇の巨人が、小麦を練つてうすく焼いた饅頭に、煮た小豆を乗せたのを好んだといふゴシップも聞いた事がない。創始伝説に歴史上の大物の花やかな逸話が欠かせないのは改めるまでもないが、我が國の場合、その逸話は戰場の勇猛を厭ひ、恋慕の情や望郷の念をよろこぶ傾向があつたと思ふ。銅鑼(焼き)の不運は、そんな共演者を得られなかつたところにある。…などと書くと仲麻呂は、銅鑼をあはれむ歌を詠むだらうか。ちよつと聞いてみたい気がする。

462 未完成のまま

 特別急行列車に乗りたいと思ふ。

 どこに行かうといふのではなく。

 元來わたしは出無精な男である。麦酒と煙草、お米とお漬物、それから気に入りの本があれば、外に出なくても平気なたちなのだが、だからと云つて何がなんでも外に出たくないのではない。外に出ない…出にくい日が續くと、反發を感じはして、それがかういふ形で噴き出したのではなからうか。えらくいい加減なもの云ひになつたのは、自分で唐突と解るくらゐ唐突にさう感じたからで、自分の中の自覚しない圧迫感が大きいのだらう。併しそこでたとへば勝沼の葡萄酒や白州のヰスキィを恋しがるのでなく、いや恋しくないのではないが、その前に特別急行列車の座席が浮んだのは、我ながら不思議である。尊敬する内田百閒が「特別阿房列車」で"なんにも用事がないけれど"、汽車に乗つて大阪に行つたのとはわけがちがふ。百閒先生は戰争の後、大好きな特別急行列車が再び東海道線を走り出したのが嬉しくて、我慢ならなくなつたから、お金を借りて乗つた。ちやんと動機があるし、汽車に乗るのが目的なのも筋が通つてゐる。

 特別急行列車に乗りたいと思ふ。

 どこに行かうといふのではなく。

 とは云へ特別急行列車に乗るのは、甲府でも大阪でも降りて、どこかを目指すのが本筋でせうと云はれるだらう。その指摘は正しい。この場合の特別急行列車は、目的地へ確實に着到する為の手段である。旧國鐵も私鐵もこの点はほぼ一致する。ほぼと濁したのは観光特急といふのが走つてゐるからだが、どうもあれには違和感がある。乗る事自体を目的にした列車を、鐵道會社が運行していいのか知ら。勿論そこに特別な客室と特別な料理への対価が、わたしには高額に過ぎるから、あの葡萄は酸つぱいに決つてゐるとうそぶく狐のやうに妬む気持ちがないとは云へない…といふより、ある。何かの弾みでお金持ちになれたら、一ぺんは乗つてみたいとも思ふ。思ひはするが、それでも本筋から外れてゐるといふ意味で、わたしの願望と大して変るまい。それにこの稿で云ふ願望は絢爛豪華な観光特急を目指してもゐなくて、指摘は認めつつも、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、諒とされたい。

 特別急行列車に乗りたいと思ふ。

 どこに行かうといふのではなく。

 では何の為に乗りたいのかと疑念が呈せられるだらう。わたしはごくありきたりな男だから、本來なら特別急行列車でどこそこに行きたい。先に挙げた白州の蒸溜所は気分のいい場所だし、勝沼にある数々の葡萄酒藏は、それぞれに魅力的で、それらは確かに樂みである。樂みではあるのだが、着到したらその樂みは終つて仕舞ふ。後は帰宅するだけで、甚だ詰らない。当り前の話だと云はれたらその通りと云はなくてはならないが、当り前だらうがさうでなからうが、家に帰つて荷物を片附け、洗濯をして、風呂にも入り、めしの用意をすると考へるのは、さういふ家事が好きなら兎も角、大体は索寞とした気分になるのではないか。わたしはなる。その理由は何かと云へば、どこそこで何々をするといふ明確な目的があるからで、そこがはつきりしたなら、どうすればいいかも解る。それが曖昧なまま特別急行列車に乗る事なのだと云ふと、生眞面目な讀者諸嬢諸氏は首を傾げるにちがひない。特別急行列車に乗つて、幕の内弁当や罐麦酒、或は鱒寿司にお酒でも、サンドウィッチとチーズと葡萄酒でもいいが(ここの撰択は實に悩ましい)、さういふのを並べると、何がなんだか判らないけれど、自分はこれからどこかに行き着くのだといふ事はわかる。きつと愉快な時間になるだらうとも想像がつく。それは漠然とし、またふはふはもした確信であつて、降りるのが熱海でも宇都宮でも、どこかよく知らない驛でも、そのふはふはの確信は、ふはふはのままで、完成完結には到らない。一ぺん降りて、お蕎麦の一杯も啜つて(旨さうな呑み屋があれば潜り込むのも惡くない)から、出發驛行きの特別急行列車に乗り、先刻までの續きを始めてよく、眠りこけてもかまはない。さうやつて何もかも未完成のままに投げ出さうといふ、詰り衝動。

 特別急行列車に乗りたいと思ふ。

 どこに行かうといふのではなく。

461 取り込みと取り出し

 この手帖をちよいと休む事にした。

 おほむね月水金曜日に更新をしてきたが、話の種がどうも不安になつてきたからである。實に判り易い事情でせう。こんな場合に素人といふ立場は有難い。併しそれだけだと何だか安直な態度と思はれる。安直なのは事實だから、正面から反論はしないとして、恰好は少しつけておきたい。

 

 とんかつを論じたいとしませう。この時にとんかつの事だけを調べても、文章にはしにくい。豚肉の調理法だの、揚げるといふ技法やそこで使はれる食べものだの、我が國での食肉史や畜産史だの、さういふ事どもをある程度は知つておかないと、話を広げにくい。たとへば

 「どこそこにある何々といふお店のとんかつは、何とか豚を使つてゐます。自家製のパン粉と獨自に案配した油でじつくりと揚げてあつて、衣はざつくりしてゐるのに、お肉はしつとりとジューシーな出來上り。手作りのソース(お味噌が隠し味ださうですよ)で食べると、何とか豚の脂のあまみが口の中を満たして、とんかつを食べる幸せつて、かういふ事なんだなと思へるのです」

といふ程度なら(自分ででつち上げて云ふのも何だが、實に気持ち惡い文章になつたが)、そんな準備は要らない。だがそんな準備が要らないなら、わたしが書かなくてもたれかが書き流す筈で、わたしが書かなくてもかまふまい。

 とんかつについてその周辺と、また関連しさうな事を調べて論じたい場合、調べた事の大半…体感だと七割以上は書かない。文章にした部分に溶け込ませてある。カレーに使ふ玉葱の微塵切りのやうに。我ながら気障だなあ。

 

 とは云へその気障を押し通さうとすると、自分の中に取り込む量に対し、自分の中から取り出す量が圧倒的に減る。玉葱の微塵切りを時間を掛けて炒めると、笊一杯に刻んだ筈の玉葱が信じ難い分量になつてしまふやうなものだ。それ自体を苦痛とは思はないけれど、大坂言葉でいふ"エラい"…大雑把に"疲れる"とか"面倒な"くらゐの語感…過程であるのもまた本心であると白状しておく。

 冒頭で云つた、話の種の不安には、書く事が無いといふ事情以上に、取り込みと取り出しの過程を、今の早さで續けるのに無理を感じてきた面がある。無理をすれば出來なくはない、と裏返せもするが、無理をする必要があるのかどうか。それでこの手帖が詰らなくなつたら(我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にとつてといふより、書き手であるわたしにとつて)、その無理は不要を飛び越し、害毒であらう。休まうと判断した理由を、恰好よく云へばさういふ事になる。なので更新そのものを(暫くにしても)止める積りはない。更新の頻度をぐつと下げて、取り込みと取り出しに掛ける手間、時間を増やしていかうと思つてゐる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、諦め…訂正、改めて気長なお附合ひを御願ひ奉りまする。

460 化石レンズを使ふ為

 ペンタックスM50ミリ/F1.7といふレンズが手元にある。同じペンタックスのM28ミリ/F2.8といふレンズもある。古い冩眞機好きから

 「化石のやうだね」

と笑はれさうであつて、またそれは正しい。何しろどちらもプログラム露光に対応しない(絞り値優先の自動露光では使へるけれど)レンズだからね。

 フヰルムで冩す分に文句は無い。特別に優れた描冩をするわけではないけれど、目を覆ひたくなる破綻もせず、ある時期のペンタックス…旭光学工業の性格がそのまま形になつたのかと云ひたくなつてくる。

 このレンズで採用されてゐるKバヨネット・マウント、實は意外なくらゐ便利がいい。M42ねぢマウントとの互換性が(原則的に)保たれてゐるのもさうだが、現行機でも大体は使へて、融通の幅で云へば"不滅の"ニコンFバヨネット・マウントを凌ぐのではないかとも思ふ。

 「そんなのは實用的ではないよ」

生眞面目な冩眞愛好家から叱られるのは然りとして

 「實用的ではない使ひ方をしてはならない、といふ理由はありませんな」

さう異議を唱へてもいい筈である。眞面目に撮るなら、眞面目に撮る為のカメラとレンズを揃へれば済む事で、さういふ話はこの手帖の手に余る。

 周章てて念を押すと、ペンタックスが眞面目に撮るのに不向きだと云ふのではない。あすこは實直の一方で、ライカねぢマウントの47ミリや、17-28ミリだつたかの魚眼ズーム・レンズといつた妙やレンズを出したがる癖があつて、それも面白がりゆゑではなく、一応の理窟をもつて(無理やりな感じもある)出してくる。

 うちにしか、出せんでせう。

 さう嘯いてゐる気がされなくもない。いやいや、あなたたちしか出さうとはせんでせうさ、と口惡く云ひ返してもいいが、云ひながら喜んでゐるのもまた事實で、さういふ会社のカメラをちやんと持つた経験が無い…買つた記憶があるのはSPとK2DMD、それからMZ-5の三台…のは、自分でも不思議でならない。手持ちの二本のレンズは今、リコーの一眼レフに附けてゐるが、折角だからデジタルでも使へる準備はしてもいいのではなからうか。

 眞つ当に考へればK-1(Ⅱ)であらう。所謂フル・サイズで、28ミリや50ミリの画角をそのまま使へる利点がある。その一方、このカメラは大柄に過ぎ、重過ぎる。第一この位取りになると、現行のレンズを中心に据ゑ、腰も据ゑて使ふのが本道に思へる。それでK-01を候補に考へてみた。これはKバヨネット・マウントをそのままミラーレスにしたヘンタイ(褒め言葉)カメラで、マーク・ニューソンのデザインはどこかが致命的に間違つてゐるのだが、その間違ひ具合も含めてペンタックスらしい。但し手持ちのレンズを使ふには不便が大きすぎる。

f:id:blackzampa:20200427213036j:plain

 では矢張りリコーで使はざるを得ないのかと云ふと、まだKPがあつた。これもまたペンタックスらしく、をかしなヴァージョン(その画像を借りてある)を出してゐて、その妙なヴァージョンが恰好いい。モダーンなのだか、クラッシックなのだか、その辺をごちや混ぜにした感がある。かういふ機種は案外と無いもので、我が辛辣な讀者諸嬢諸氏の云ふ"化石のやうな"レンズでも様になるのは狙つたからか、偶々だつたのかは(どちらにしてもニコンでは出來ないだらう)解らない。その辺の事情には目を瞑るとして、ペンタックスの化石…いやシーラカンス・レンズで遊ぶとすれば、見た目も含めてKPは惡くない選択ではなからうか。後はGRの28ミリをKバヨネット・マウントにしてくれれば、躊躇する理由はまつたく無くなるのだがなあ。

459 弾み

 何の弾みだか、時に和歌が…正しくは和歌の一部が頭をよぎる事がある。たとへば

 

 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ

 それその母も我を待つらむそ

 

の前半部分。六づかしい歌ではない。憶良めはそろそろ帰ります、子供たちが泣いてゐるだらうし、家内も待つてゐるでせうから。くらゐの意味。筑前守として赴任した太宰府での酒席を辞する時に詠んだといふ。

 「臣どのは子煩悩な」

 「愛妻家でもあられる」

その場の貴族も笑ひ、また褒めそやしたにちがひない。和歌が藝術になる前の話である。

 ところで確かめると、憶良が筑紫に任ぜられたのは神龜三年。七年後の天平五年に没してゐて、八世紀の前半頃に相当する。生れたのは斉明帝の六年、七世紀の半ば過ぎ。どうやら上の戯れ歌を詠みすてたのは、六十を過ぎてからと推察出來る。現實に妻子がゐたとして、父を恋しがつて泣く年齢ではないし、当時は通ひ婚だから邸で妻が待つ筈もない。要は即興で大嘘…冗談を飛ばしたわけで、和歌を社交の道具といふ目で見れば満点ではなからうか。

 皮肉を混ぜてこの一首を讀むと、鬱屈が感じられなくもない。筑紫は遠ノ朝廷とも呼ばれた大國で、奈良に匹敵する大寺も建てられてゐたといふ。隋唐と遣り取りをする際は直接の窓口でもあつたから、倭國では稀な都市だつたと想像していい。とは云へ平城貴族にしてみれば、遠隔草莽の土地の印象は拭ひ難かつたらうし、還暦を過ぎて赴けと命ぜられたとなると、年を経て世に沈む自嘲の気分も相俟つて、宴席ひとつも憂鬱に感じて不思議ではあるまい。その気分を太宰府の高官が理解したとは思ひにくい。

 尤も酒席を罷る一首にさういふ複雑な心境があつたかどうかと云へば、少くとも表向きには無かつたらうなと思ふ。もしかすると、都人士の社交はかういふものだよと見せつけたのかも知れないが、そこに通人の厭みは感じられず、千三百年後の我われは感心させられる。この一首は後に『萬葉集』にも収められてゐるから、勅撰の和歌集に文學の形式を教へる一面があつた…これは丸谷才一の指摘で知つた…事を思ふと、憶良の当意即妙は優れた"お手本"であつたらしい。

f:id:blackzampa:20200424182816j:plain

 ところで当時の(ごく限られた数の)讀者は音讀で和歌を味はつた筈である。識字率はひくく、筆墨硯紙がおそろしく贅沢な品で、日本語の表記が定まりきつてもゐない時代、詩歌は音と聲で樂むもので、遡るとホメロスといふ先達がゐる。あの曖昧な詩人(群)の英雄譚は語られる叙事詩であつた。その二千年余り前の吟遊詩人が語つた英雄たちの物語は、文字に移され、文章として纏められる中で、原型が崩れていつたと思はれる。詩歌には音…聲で輝きを放つものと、文字で香り高くなるものがあるのだから、これは止む事を得ない。

 そこで憶良の歌は明らかに前者に属しますな。黙讀してもいいけれど、可笑しみは薄まつて仕舞ふ。歌は精撰して文字に纏めるものだ、といふ習慣がいつ頃成り立つたのかは判らないが(古今新古今百人一首辺りからだらうか)、この特異な定型短詩の性格は、そこを境に変つたのではないかと思ふ。ひとつの語に複雑な意味を忍ばせる…簡単な例を挙げれば"よる"に"夜"と"寄る"と"依る"の意を持たせる…技法は、文字でないと気づきにくい。繊細とも煩瑣とも云へる。概ねは前者を支持してゐたところに

 「それは下らない恰好つけぢやあないか」

と喧嘩を吹つ掛けたのが『歌よみに与ふる書』の正岡子規であつた。何しろ源實朝以來、和歌はふるはない。紀貫之は下手糞だし古今は詰らないと、秘佛を薪に叩き割るやうな罵倒で話を始めるのだから、子規が云ひたい事への共感や反感より、罵倒の鮮やかさに気を取られて仕舞ふ。岩波文庫に入つてゐるから、興味のあるひとはご一讀あれ。

 とは云へ子規が音讀と黙讀のちがひを意識したかどうか。短命だつた伊豫の俳人は萬葉ぶりの雄渾と簡潔、そして冩生に傾倒したが、それを音で聞かせる事には頓着しなかつた気がする。有名な

 

 鶏頭の十四五本もありぬべし

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

を聲に出して讀みたいかと云ふと、首を傾げざるを得ないでせう。但し黙讀…頭の中で音にすると、鶏頭の鮮やかないろや夕暮れの古寺が浮ぶ。思ひ切つて断定すれば、それは冩眞如きでは太刀打ち出來ない言葉の藝と云つていい。

 尤も子規の發句でわたしが一ばん好きなのは

 

 春や昔十五万石の城下哉

 

で、ここには藝も技術も理窟も、七面倒は残らずあちら側に措いた気らくさ…春風駘蕩といふ古風な言葉が浮んでくるなあ…が感じられる。子規が推敲したかどうかは判らない。字の使ひ方は考へたらうが、音は口をついて出たそのままだつたと思ひたい。感興を即興で詠んだ一瞬、伊豫の若ものは山上憶良の隣に立つたのではないか。呪術でも社交でもなく、詠ひたいから詠ふのだ。それは發見と呼べる感動だつたと思へてくるのだが、根拠のある話ではない。不意に頭をよぎる歌や句には、恋慕や哀惜、或は歓喜といつた烈しい感情だけでなく、火花のやうに爆ぜた機知や冗談も含まれるらしい。その場合、入念緻密より精神の反射の素早さが寧ろ大切であつて、この閑文字に一ばん欠けてゐる要素であると、今やつと気がついた。