閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

497 好きな唄の話~韃靼人の踊り

 モンゴル帝國がロシヤの広範囲を支配に置いたざつと二世紀半を、ロシヤでは"タタールの軛"と呼ぶ。司馬遼太郎の云ふ遊牧帝國の群れが、暴風雨のやうにユーラシアを駆け抜けた時代と云つてもいい。軛と呼ぶ以上、ロシヤ人にとつて、誇らしい歴史ではない。但し奪ひ取ることを國家の機能と見た場合、騎馬民帝國が霧消した後のロシヤ帝國はその機能の忠實な後継者だつた気もする。ロシヤ帝國末期のひとだつたボロディンは(その死後卅年を経て帝政は崩壊する)、さういふ複雑な歴史の事情に悩まされなかつただらうけれど。

 

 コンチャークは十一世紀の終り頃から十二世紀初頭に實在した人物である。騎馬遊牧國のハン。

 イーゴリも實在の人物で、コンチャークと同時期に生き、近い地域にゐたロシヤ系の公。

 ふたりは刃を交へてゐる。事情はよく判らない。双方に事情があり、それぞれに正義だの誇りだの大義名分があつたのだらう。ほぼ確實なのは千百八十五年…我が國で云ふと檀ノ浦で平家が敗れた後、勝将の筈の源義経に追討の宣旨が發された年…、コンチャークに敗れたイーゴリが捕虜になつたことで、ボロディンは七世紀後、この時期のハンと公を歌劇に取上げた。その中で唄はれるのがこの唄である。

 

 樂団の演奏會なら合唱が省かれるのも珍しくないけれど、唄がある方が断然宜しい。故郷を懐かしむあはれな女の嘆きと、ハンの譽れを太陽に等しいと讚へる屈強な男どもの喚聲が入れ替る様は、同じ戰の両面である。にも関らず、その唄に血の匂ひはしない。騎馬民が得意とする弓矢の響きも、ロシヤ人がふるふ剣戟の音も聞こえない。繊細と雄壮が渾然となつてゐて、思ひ切つて云へばボロディンは、軛の現實…ロシヤ的な意味合ひでの…に目を瞑り、架空の

 「戰争が優雅だつたあの頃」

をあの唄で表したのではなからうか。いやこれは間違ひだと断定してかまふまい。何しろこの唄を含む歌劇全体をわたしは観てゐない(歌劇好きの讀者諸嬢諸氏からは呆れられるだらうな)のだから。併しその一方、これだけ優美な唄を作つたボロディンが(歌劇自体の成立はまた別問題として)、その他の箇所を血腥くするとも思へない。作曲家は譜面で歴史を物語へと改竄したのである。冒瀆?…まさか。これは物語になれなかつた歴史への感傷と理解したい。

496 好きな唄の話~天国列車で行こう

 永井豪といふ漫画家がゐる。元天才。かう書くと激怒するひとも出るだらうが、天才にすらなれない漫画家が殆どの世界で、天才であつた事實は凄いことなのだと云つておく。序でに讀むなら、『デビルマン』(但しオリジナル版)は勿論、『手天童子』にも目を通しませう。広げた風呂敷が明後日の方向に飛ぶことが多いかれの漫画で、奇蹟的に伏線を回収し、實に綺麗に終つてゐる。永井にはまた構成ががつしりしたのを描いてほしいなと思ふのだが、六づかしいのか知ら。

 

 天才になり損ねたひとなら、それなりにゐる。サンプラザ中野をその中に入れると叱られるだらうか。爆風スランプといふ括りで見る限り、最初の三枚のアルバムでほぼすべてが出尽してゐると思へてならない。その程度だつたのだと云ふのは併し間違ひで、かれの志向とバンドに求められた方向が不幸な角度でずれて仕舞つた結果(厭なことを云へば、爆風銃とスーパー・スランプがかれの志向で纏つてゐたら、無残に失敗してゐたとは思ふ)と見ておきたい。

 

 皮肉のミンチと冷笑の千切りに諦観を散らし、諧謔の皮でくるんだ…矢張り初期の佳曲である[狂い咲きピエロ]は自画像のやうだ…のが爆風スランプであつた。サンプラザ中野個人が何を考へてゐたかは別として、我われはさういふ風にかれらの唄を聴いてゐたんである。

 この唄では逃避行、逃避の願望が剥き出しになつてゐる。救ひになつたかも知れない天使("ビニールに入れ"ておいた)は朝になると姿を消して後はコンクリートの空を見上げる外にない。それはきつと現実の様を暗示し、さう、それは甞てわたしや貴女が屡々感じた絶望に似てゐる。我われは夜を待ちかね、その果てにある最終の天国列車を目指して走る。

495 好きな唄の話~夜歩く

 筋肉少女帯のアルバムで一ばん完成してゐるのは『サーカス団、パノラマ島へ帰る』ではないかと思ふ。ことに冒頭、[ビッキー・ホリデイの唄]から[詩人オウムの世界]は大槻ケンヂの猟奇好み、乱歩趣味がちやんと唄物語になつてゐる。今確かめたら發賣は平成二年…實に卅年も前だと知つて、少し計り驚いてゐる。

 その筋少を初めて聴いたのは、更に遡つた昭和六十三年の『SISTER STRAWBERRY』で、その時はなんてえ酷い雑音なんだと思つた。

 「ぢやあどうして買つたのさ」

と云はれるだらうが、そこは思ひ出せない。当時は令和の今ほど音樂は安くなかつた上、新譜の情報も限られてゐた。その中でこの一枚をわざわざ撰んだ動機は何なのか。自分のことながら興味を感じなくもない。その辺の事情は兎も角、この唄だけはえらく気に入つた。三柴江戸蔵の叩いたピアノがよほど性にあつたのか。外が余りと云へばあまりで、相対的にましだと感じたのか。

 

 工場の脇の道を"きみ"と歩く夜。"きみ"はどうやら語り手である"ぼく"の恋人らしい。その語り手は唄ひ手即ち大槻なのかどうかは判らない。"きみ"は夜の底に沈む幽霊に思ひを馳せ、濡れた歩道を高いヒールでよろめきながら踊る。"ぼく"はその姿を見つめ何を思ふのか。判らない。わたしは"ぼく"でないもの。貴女が"きみ"でないのと同じく。そして語りに語つた"ぼく"は叫ぶ。

 ファントム!

 だがそのファントムは果して本当なのか。"きみ"は實在してゐなかつたかも知れず、實在したとしてファントムでないのかも知れず…"きみ"が"ぼく"の迷妄ではないと、たれが保證出來るだらうか?…寧ろ"ぼく"こそがファントムであるのかも知れない。とわたしが書くのは根拠の無い勝手な妄想である。併しそれは決定的に誤つてゐるとは云へまい。さういふ解釈の余地が残る、掌編小説のやうな唄ではあるまいか。

494 好きな唄の話~ガラスの天球儀

 涙の雨が降る天球儀の中を、走れ君のレイン・コート、さう呼び掛けるのである。

 (これはもう、ジュブナイルではないか)

 ジュブナイルとは何ぞやと訊かれたら応じるのは六づかしいが、少年の冒険小説…いや冒険の物語と(ここでは)(一応)云つておかう。今でもあるのか知ら、何とか少年文庫。現代では色々とややこしさうな気もするが。

 斉藤由貴が唄ふ谷山浩子の歌詞は、綿飴の上をつま先で歩くやうに非現實的な感じがして、そのふはふはした落ち着かなさがいい。かう云ふと何故それがいいのですと詰め寄るひとが出る筈だが、それはジュブナイルの定義同様に応じるのが六づかしい。谷山の詩…詞ではなく…を、斉藤の聲が奇蹟的に世界の形にしてゐると気取るのもいいが、思ひきつて、わたしに適ふのだと開き直らうか。どうも後者の方が事実に近い気がする。

 

 尤もこの唄は斉藤谷山としてはやや珍しい。ここでまたしてもジュブナイルの語感に頼らなくてはならないのだが、このふたりが作るのは、どちらかと云へば叙情的な少女漫画を聯想させるのが多く…[SORAMIMI]や[MAY]を挙げればいいと思ふ。序でながら、前者と[土曜日のタマネギ]は斉藤由貴の唄つた最高傑作だとわたしは信じてゐる…、少年の冒険、正確に云へば少年の冒険を見守る妖精のやうな視点は、砕けた水甕の所為でずぶ濡れになつた銀河と共に、冒険譚の画を作つてゐる。そのくせその画は映像的ではまつたくなく、少女漫画のやうな流れも感じさせず、寧ろ絵物語…水彩画家が描いた紙芝居に近い。さう考へれば、唄の在り方として特殊な方に分類したくなるわたしの気分も、誤りではないのかと思はれてくる。

493 好きな唄の話~Oh!クラウディア

 古代のローマ人は個人の名前に無頓着だつた。たとへばセクストゥスを日本語にすると六郎くらゐの意味。そのくせ渾名は好きで、アフリカヌス(大スキピオ)やフェリックス(スッラ)、マーニュス(ポンペイウス)辺りは有名でせう。外にもファビウス(愚図、鈍間が転じて慎重な者)やピウス(慈悲深い者)を挙げてもいい。女性の名前はもつと無造作だつた。一門名を女性名詞化させたのが多く、ユリア(ユリウス)、コルネリア(コルネリウス)、ルクレツィア(ルクレティウス)を挙げればよからう。さう、もうひとつ。クラウディウス一門の女性はクラウディアなのだが、さて作詞した桑田佳祐は、ローマ人の名前に興味があつたものか。無かつたでせうね。

 

 昭和五十七年のアルバム『NUDE MAN』に収録されてゐるが、わたしが初めて聴いたのは同年の『バラッド』に収められた方で(イントロダクションの扱ひがちがふ)、そちらの印象が強い。何がどうと考へる前に感動した。かういふ感動はたちが惡い。その感動乃至漠然を言葉に文字に出來なくはなからうと考へを進めてもみたが、どうやつても嘘…いや嘘ではなく、無理が生じて仕舞ふ。ややこしい唄ではない。一年前の夏に別れた女を独りで懐かしむだけの内容。ただその思ひ出し方がおそろしく綺麗で、水彩画の技法を使つた水墨画のやうなモノ・クロームの映画みたいな画が浮んできて、何を云つてゐるか判らないでせう。書いてゐる本人もよく判らない。わたしの貧弱な語彙で置換するのが無理なのは確實であるから、止む事を得ないとここでは居直つておく。