閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

528 判子

 ニューズはちらちらとしか見ない。そのちらちらの中で、判子への痛烈な非難が最近ちよつと気になつた。曰く、ただの形式である。曰く、紙と時間の無駄である。曰く、電子化すれば解決する。

 

 成る程…分らなくもない。

 

 それで判子の業界が猛烈に反發してゐるらしい。詰り判子は文化であると。簡単に廃止するのは如何なものかと。こちらも(文化といふ言葉の使ひ方に目を瞑れば)分らなくはないと云つておかう。

 中途半端な物言ひをしてゐると思ふが、普段は判子なんて使はないんだもの、仕方がない。とは云ふものの、ニューズを目にして最初に

 (判子をつきやあ、いいわけでもないだらうからなあ)

と思つたのは事實だから、腹の底でかるい反發を感じてはゐたらしい。

 

 花押といふのがある。自分の名前に用ゐられる字を極端に図象化したところから始つた一種のサイン。変遷を辿るのは控へるが、中々恰好がいい。尤も現代の判決では、判子と同じではないと見做されてゐる。併し法律的な判断や解釈を別にすると、機会を見つけて花押を作り、また使つても、惡い趣味とは呼ばれないだらう。和紙に墨と筆で記さなければ、締らないけれど。

 

 そこでわたしは藏書印を思ひ出す。讀んで字の如く、自分の本に押す判子。色々と凝つたものもあるさうだが、曾テ某所ニ在リだとか、此ノ本妓ニ替ヘズ、或は子孫酒ニスルモ亦可(どれも元は漢文)などが記憶に残つてゐる。意味はさして六づかしくないから、説明はしませんよ。いづれも諦観の混つた諧謔に富んでゐる。我われのご先祖は大した洒落つ気の持ち主であつた。

 

 ところでわたしが好きな藏書印は堀口大學の"大學過眼"である。丸谷才一の随筆で讀んだ逸話があつて、戰中の某日、東京神田の古書店街に、"大學過眼"と押印された本が大量に並んだといふ。荷風も断腸亭に書いてゐたかと思ふ。戰火を避けて疎開する為、書巻を手放したのだが、その殆どは目を通す前だつたさうだ。詩人が手放した本の多くは佛國の出版社から送られたもので、袋綴ぢだから讀んだかどうか、直ぐ判つたらしい。

 いいですね、この話。詩人の本好き…でなければ藏書印は作りはしまいし、讀むぞといふ意思表示として印を押しもしないに決つてゐる…がよく判る。またわづか四文字の"大學過眼"が、大量に印刷された本の一冊に物語を作つたところもいい。電子書籍でこんな樂みを味はふのは、少くとも今のところ、無理ではないかと思ふ。こちらの電子書籍きらひもあるから、信用されては困りますよ。

 

 何の話…さう、判子。断つておくと、判子業界には恩も義理もないし、何でもかでも文化といふ単語で纏めて仕舞はうとする態度は寧ろ、気に喰はない。気に喰はない一方、判子が一掃されるのも詰らない。行政だの公の書類だのは横に置いて、個人の樂みの部分…手帖やスケッチの端に、判子をぱんと押すのは残つてゐると思はれるし、さういふ方向なら、たれからも苦情は出ないだらう。ちよいと凝つて、自分の名前の一文字を花押風にするのも惡くないが、余程気を附けないと、樂みはいいんだが、すりやあ惡趣味な印形だねえと笑はれる可能性はある。

527 つき出し考

 呑みに行かうと思ふ時、重視するのは肴…つまみが旨いことで、まあ、当り前と云へば当り前の話でせうな。お酒の品揃へがもうひとつでも、つまみが旨いお店なら、お酒の味もよろしくなるといふものだ。

 

 そこで好きな店、詰りつまみの旨い店を幾つか思ひ出してゆくと、ひとつの共通点があることに気が附いた。勿体振らずに云ふと、いづれもつき出しがいい。凝つたものを出すわけではないにしても、きちんと手は掛つてゐる。

 

 たかだか、つき出しぢやあないの。

 そこまで神経質にならなくてもね。

 と肩をすくめるひともゐるだらうが、それは些か淺薄な態度だと云はなくてはならない。つき出しと呼ぶから軽んじて仕舞ふので、最初のつまみと理解すれば、侮るのは誤りだと気が附くのではないかと思はれる。

 

 つき出しが佳ければ、つまみにも期待が持てる。

 

 厚揚げと鶏肉をさつと煮た小鉢。

 ポーチド・エッグ風に仕立てた卵に温かいマヨネィーズのソース。

 酸つぱい林檎を入れた雪花菜のサラド。

 

 取急ぎ記憶の棚から引つ張つたつき出しを挙げてみたのだが、どうです、どれも旨さうでせう。實際うまかつたし、かういふのを最初に食べれば、さて次は何を呑み、何を食べるかと考へるのが樂みになる。この樂みになるといふのが大事で、愉快なお酒へと誘惑…訂正、誘導するのが、つき出しに求められる本來だと、そろそろ我われは理解したい。こんな風に云へばきつと

 つき出しにはお金を払ひたくない。

 あれはただの無駄だよ。

 と反論が出るのは容易な想像で、一面の正しさは認めてもいい。その程度のつき出ししか用意しないお店は珍しくないし、寧ろ多いかも知れない。但しその批判は、その程度のつき出しを押しつけてくるお店に云ふことでせう。

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 ここで上の画像をご覧なさい。極端な例なのを承知で云ふと、これもつき出しである。ここまでくると、一品料理と呼びたくなる…お店の大将曰く、"かういふのをつまみながら、ゆつくり呑んでほしい"さうである…が、批判派はそれでも無駄だと主張するのか知ら。仮に同意を示すならば、我われは

 「お金を払ふに値する、愉快なお酒に誘導してくれる、うまいつき出しを作つてもらひたい」

と言葉を續ける必要がある。でなければ呑み助(貴女やわたしのことですよ、念の為)にとつて、多大な損失になる。いやわたしは本気なのですよ。普段なら自分から食べないものが出て、それが旨いと知る機会になる(わたしの場合、明太子をほんのり効かせたポテト・サラドがさうだつた)…可能性があるのは嬉しいではないか。その期待の為には、凝らなくても手を掛けたつき出しを用意するお店が断然、必要になつてくる。理窟の通つた話だと思ふが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何だらうか。

525 曖昧映画館~レッドブル

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 バディものと呼ばれる映画がある。『48時間』や『リーサル・ウエポン』を出せばいいか。或は変形として『ダイ・ハード』と『ビバリーヒルズ・コップ』も挙げておきたい。基本的な構造は眞面目…といふより堅物の黑人と、正義感はあるが軽薄な白人が、何かしらの事情で…半ば無理やり…コンビを組まされ、反發しあひながら、最終的にはお互ひを信用して、事件なり問題なりを解決に導くといふ筋立て。肌の色や物の考へ方の対立を軸(の一方)に据ゑるのが、如何にもアメリカ的だなあと思ふ。

 そこを変に捻つたのがこの映画でコンビは白人同士…但し片方はアメリカンな、もう片方はソヴェト(公開当時はソヴェトといふ國家が存在してゐた。参考までに権力の頂点に立つてゐたのはミハイル・ゴルバチョフ)の警官。よくまあこんな組合せを思ひついたと感心するが、ポリティカルな色彩はまつたく無い。アーノルド・シュワルツェネッガー演じるソ聯警官のダンコーが、母國で活躍するのは冒頭の僅かな時間だけで、アメリカに逃亡したギャングのボス、ビクトルを追ひ掛けることになるから、後は刑事ものである。

 尤も前段でポリティカルな色は無いと云つたが、ダンコーはあくまでも愛國的な刑事…終盤、ビクトルをアメリカ製の拳銃で射殺した後、"矢張りソ聯製の方がいい"と云ひ放つてゐる…として描冩される。(結果的に)相棒(となつたアメリカ刑事)のアメリカ礼讚には一切首肯しないのだが、そこきソヴェト批判やアメリカへの皮肉を意図があつたとは考へにくい。要するに勤勉と怠惰や黑人と白人以外に、キャラクタのちがひを出さうとした(冷戰も終りさうな時期、ソヴェトも文句は附けないだらうと讀んだ気がする)結果なのだらう。

 その辺の意味をなさない推測はさて措き、アクション映画として観ると、当り前に面白い。ウォルター・ヒルが監督なのだからね。もしかしてソヴェト警官…無愛想で融通が利かず、糞眞面目を取り柄と呼ぶしかない印象の…を主人公にしたのは、シュワルツェネッガーの大根役者ぶりを活かした妙手であつたやも知れない。何にも考へないで、兎にも角にもすつきりしたい夜に、これほど適した一本もさうさう見当らない。露米の警官が別れる最後の場面、ふたりは腕時計を交換する。そこでダンコーは云ふ。

 「おれたちは警官だ。友情を持つたつていい」

バディといふのは、いいものだ。

524 好きな唄の話~An die Freude

 九曲あるベートーヴェン交響曲で、一ばん有名なのは、最後の第九番だと思ふ。都市伝説だと、コンパクト・ディスクの収録時間(おほよそ七十四分)は、カラヤンが棒を振るベルリン・フィルの演奏時間にあはせたといふが、まあ嘘…伝説でせうね。似つかはしい気もするけれども。

 その第九番の最後、第四樂章の合唱を"歓びの唄"、或は"歓喜の歌"と呼ぶ。シラーの詩にベートーヴェンが少し、手を加へてゐて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、年末に聴く機会が多いのではないか。わたしもさうである。

 今回初めてざつと日本語訳に目を通した。神を信じ、また鑽仰するひとでなければ、一言半句も書けないと思つた。揶揄する積りではなく、さういふ言葉の連なりを音で包み込んだ作曲家の偉大さを、我われは鑽仰しなくてはならない。

 

 尤もこの"歓びの歌"をちやんと聴いた経験を持つひとが、この國に果して何人ゐるものやら、甚だ疑はしい。ちやんとと云ふのは、第九番を最初から聴いたかどうかで、正直に云へば、わたしは一ぺんしかない。カラヤンベルリン・フィルコンパクト・ディスク版。これも正直に云へば、第四樂章が始まるまでは、たいへんに辛かつた。小聲で呟くと、やうやく始まつたかといふ歓びが、"歓喜の歌"の由來かと勘違ひをしたくらゐで、まつたく失礼な話である。

 念を押して云ふと、シラーにもベートーヴェンにも責任が無いのは改めるまでもない。こちらの器が小さすぎた。いや更に小聲で附け加へると、もしかするとカラヤンがあはなかつた可能性はある。後年になつて(第九番ではないが)ヤンソンスクライバーの棒を聴くと、實に快かつたもの。カラヤンが偉大な指揮者なのを認めるのは当然だが、ああいふ精密な(精密すぎる)指揮が耳にあはないのだから仕方がない。なので令和二年の年末は、好みの指揮者が振る第九番の"歓喜の歌"を聴かうと思つてゐる。