閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

766 大坂の本棚に~街道をゆく

 司馬遼太郎/朝日文庫

 この小説家を知つたのは、小學校の五年生か六年生の時に讀んだ、文春文庫の『竜馬がゆく』だつた。母親の本棚から勝手に持ち出した。幕末史…もつと大きく、近世の日本史といつてもいい…には無知だつたのは当然で、併し熱中して讀んだ。新潮文庫の『燃えよ剣』や『国盗り物語』を讀み、文春文庫に戻つて『世に棲む日々』、『翔ぶが如く』を讀み、また『坂の上の雲』も讀んだ。愛讀者であつたと胸を張りたい気がしなくもない。過去形なのは、讚仰の熱が失せ、また多少とは云へ日本史を知り、詰り歴史と小説を分別出來る程度までになつた所為に過ぎない。

 尤も司馬にも責任が無いとは云ひにくく、第一に何巻も續く長篇小説は、決して上手ではなかつた。あのひとは逸話好き噂好きで、屡々余談の形で差し込む癖を持つてゐた。逸話自体は樂めるとして、それで全体の構成が緩み、時に小説なのか逸話集なのか、判らなくなることもあつたのは、歴史ではなく小説の部分でこまりものだと思はれる。

 人物への好みが甚だしく偏つてゐたことを、第二に挙げたい。粗つぽい云ひ方になるが、奇嬌のひと…特異な才には恵まれ、ただそれはごく短い時期にしか通ぜず、苛烈に生き、多くは悲劇的な最期を遂げた人びと…への偏愛。歴史上の人びとへの好惡は我われにもあるとして、この小説家には、奇嬌でない人びとへの評が、時に辛辣の度合ひを越す惡癖も色濃くあつた。『坂の上の雲』で児玉源太郎に対比させられた乃木希典が、度し難い阿房のやうに描かれてゐるのを思ひ出せば、わたしの云ふことは掴んでもらへさうに思ふ。小説、ことに歴史を題材にした小説はまことに六づかしい。

 司馬が『街道をゆく』を始めたのには、さういふ六づかしさからの逃避…逸脱の一面があつたのではなからうか。当方の勝手な思ひ込みなのは念を押すまでもない。併し司馬のもうひとつの特徴といふべき、地理と譬喩、古風な熟語好みを堪能したければ、こちらの方がよい。偶々讀んでゐる飛彈のくだりから挙げると

 「桜は樹皮の華やかな木だが、この木は冷えた溶岩塊のように黒ずんでしまっている。この黒ずみこそ、蒼古たる千年をあらわしている」

とある。かういふ一文が司馬の本質の一面としたら(わたしにはさう感じられるけれど)、緻密な考証の上に想像を成り立たせる歴史の小説を書くのにうんざりした夜、街道をゆくのは快い逸脱だつたらうと想像しても、許される気がする。

 最後にひとつ。この長大な短篇聯作エセーは、十六巻まで實に好もしい装訂だつたのに、十七巻からいきなり、他の文庫群と同じつるつるしたラパーに変つて仕舞つたのは残念でならない。優れた文章に対する敬意の欠けた判断であり、行為でもあつたと思ふ。

765 大坂の本棚に~コンパクト・ディスク

 世の中にコンパクト・ディスクがあつたことを知つてゐるひとは、ひよつとして古老の部類になるのだらうか。

 一体わたしは臆病なたちなので、新しい技術には中々手を出せない。それだものだから、デジタル式のオーディオ・プレイヤーに飛びつけないまま(いやその間にMDやDATもあつた)、昭和から平成を経て、令和の現在に到つてゐる。

 見てのとほり、左からキダタロータイムボカン、ディープ・パープル、グラン・ブルーサウンド・トラックビートルズイエロー・マジック・オーケストラ。自分で云ふのも何だけれど、取り留めもない。上の段には佐野元春鈴木結女浜田省吾山下洋輔やマンハッタン・ジャズ・クインテットもあつて、取り留め云々より、渾沌とかカオスとか、感じられるかも知れない。

 現代の若ものには想像が六づかしいかとも思ふが、わたしやわたしと同世代の人びとは、音樂の情報を入手するのにたいへんな手間を掛けてゐた。インターネットだのサブスクリプションだのは萌芽すら見られず、新譜は情報雑誌(さういふものがあつたのだ)か目にするか、FMで耳にするかくらゐで、後はレンタル・レコード屋で借りて試し聴くか、友人知人と貸し借りをするしかなかつた。

 不便と云へばまことにその通り。その分だけ、買つたら丹念に聴き、大事に保管もした。これも若ものには信じ難からうけれど、何しろ一枚が三千二百円も…レーベルによつてはもつと高額だつた…したんだもの。だから大坂の本棚には今も、コンパクト・ディスクを並べてある。

764 大坂の本棚に~上橋菜穂子

 "守り人"のシリーズなど/新潮文庫

 母親には少女小説趣味がある。村岡花子が訳した"赤毛のアン"に夢中だつたと云ふくらゐで、後は歴史小説(司馬遼太郎)と探偵小説(クリスティとクィーン)さういふ趣味の持ち主にとつて、上橋菜穂子は好感を抱くに足る小説家だと思ふ。

 全巻、一讀した"守り人"は、ファンタシーでありつつ、民俗風俗や地理の考証がしつかりしてゐたのには感心した。主人公たちと相対する側にも、その行動には納得出來る事情と理由があつて、単純な善惡の対立にしてゐないのもよい。

 成る程。おれの本の好み原型は、この辺なのだな。

 それは兎も角。母親の本棚には、不思議なことに詩集歌集の類が一冊も並んでゐなかつた。お蔭で今に到るまで、詩歌がまつたく解らない、非文學的な嗜好になつて仕舞つたのだな。そこで、一夕、文句…不満を云つたことがある。さうしたら反論の代りに与謝野晶子上田敏を暗誦した。不肖の倅としては驚かざるを得ない。曰く、それが流行りだつたさうで、もしかすると当時の少女たちにとつて、詩歌は讀むのではなく、暗誦するのが当然で、活字を買ふまでもなかつたのかも知れない。

763 大坂の本棚に~ちくま日本文学全集

 日本の文學者たち/筑摩書房

 少し豪華な装訂の、まあ文庫本と云つていい。

 一冊千円で全五十巻。筑摩はよく全巻を出せたと思ふし、わたしもよく全巻を買つたと思ふ。尤もほぼ、目を通してはゐないのだけれど。

 画像は第三回配本の第三巻、内田百閒で、平成三年の第一刷。装訂は安野光雅赤瀬川原平の「宇宙人の私小説」と題した一文と、簡単な年譜が添へてある。他の巻も似たやうな構成になつてゐるのだらう。

 帯を見るに鶴見俊輔森毅池内紀安野光雅、そして井上ひさしの名前が"編輯協力"として挙つてゐる。"編輯"にどこまで"協力"したのか。そもそも何を切つ掛けに企画されたものか。ちよいと調べれば裏話も逸話も判らうが、この手の話は知つたところで、呆気ないのが通り相場でもある。

 文學への熱情にあふれた青年編輯者がきつと、社内の反対を押しきつて實現に向けて動いたのだ。

 さう想像して、後は何もせずに置いておく方が、かういふ全集を樂むのに、相応しい態度の気がする。

762 大坂の本棚に~一夢庵風流記

 隆慶一郎/読売新聞社

 初版は平成元年。手元のは翌平成二年の第十刷。

 天下の奇人…傾奇者、慶次郎前田利益を主人公に云々と説明するより、漫画『花の慶次』の元になつた小説、と云ふ方が通るかも知れない。中身については後日、"本の話"で触れることにする。

 本棚での並びを考へると、単行本を買ふことは滅多に無いのだが、辛抱堪らず買つた。この頃はまだ、あの不細工きはまるバー・コードが印刷されてをらず、表裏どちらから眺めても、惡い姿にならないのが宜しい。

 和田誠の本で讀んだ記憶があるのだが、装訂家にとつてあの不規則な縦棒は、我慢ならないといふ。どうやつてもデザインに収まらないからださうで、まあ当然でせうね。勿論そこに出版社の都合もあるのだらうと、その辺を察するのは吝かでないにせよ、デザイナーの見立てと出版社の事情なら、前者を優先させるのが、本來ではないだらうか。