閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

696 廉な蕎麦の樂み

 画像は吉田健一風に云へば、かけに生卵と天かすをのせたやつ、である。あの旅行を好んだ批評家兼小説家兼呑み助兼喰ひしん坊は、急行列車の途中驛の停車中に、構内の立ち喰ひで蕎麦を啜つたりしたらしい。当り前に考へたら、驛の立ち喰ひ蕎麦なんて、さほど感心しないだらうに、旅先の限られた時間で大慌てに掻き込む分、味が異つてゐたのだらう。

 内田百閒もある時期、お晝は蕎麦(夏はもり、冬はかけ)の出前に決めてゐたといふ。特段に旨いわけでもないが、毎日規則正しく届けられる同じ味の蕎麦は、旨いまづいとは別にうまいさうで、鶏の餌にたとへてゐたが、禅問答にも思はれる。解りにくい。要するにこの頑質で厳密な爺さんは、自分好みの日常が狂ふのを、極端に厭つてゐたにちがひない。

 ふたりの明治文士は、廉な蕎麦を樂んだ点で共通して、併しその樂み方は丸でちがふ。大雑把に吉田の非日常不規則的と内田の日常規則的と云へると思ふが、これらが対立すると考へると、おそらく間違つて仕舞ふ。通人が好みさうな、老舗の蕎麦屋で鴨焼きや玉子焼きを肴に徳利を一本、その後おもむろにもりを一枚、平らげるのは勿論うまい。とは云つても、それでまづければ(上に挙げたのを全部やつつければ、蕎麦屋によつては三千円くらゐ掛かりかねない)寧ろ詐欺なのだから、わざわざ褒めるまでもない。

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 かけに生卵と天かすをのせたやつに話を戻す。

 たぬき蕎麦。生卵を落して下さいなと註文して、月見に天かすとも、かけに卵と天かすとも云はなかつた。どの註文でも出されるのは同じだし、値段も変らない。三百円だか、もちつと高いか、まあでもそれくらゐ。天かす…揚げ玉をわざわざ揚げてゐて、立ち喰ひ系統の蕎麦屋では大体、業務用と云へばいいのか、天かすを別に買つてあることを思ふと、手間もお金も掛かるだらうに、えらく廉である。

 これを毎日、決つた時間に啜る習慣があれば、百閒先生の流儀になり、年に一度か二度の旅先で掻き込むのが樂みでと云へば吉田式になるが、残念ながらわたしの場合、どちらでもない。気が向いた時にふらつと立ち寄る程度、日常からは爪先は離れても、日々から切り離された旅先には到らず…有り体に云へば平々凡々であつて、どうも腰が坐りませんな。尤も平々凡々だから、かけに生卵と天かすをのせたやつがまづくなるわけでもない。詰り廉な蕎麦もまた、樂みととらへる方が余程に健全で、何処そこのでなくちやあ、蕎麦の味は解りませんなど云ふ食通には近寄りたくないものだ。尤もそれでわたしが、明治生れの文士のやうに、えらくなれる保證があるわけではないけれども。