閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

698 未だ経験せず

 半世紀余り生きてきて、出前を註文したことがない。饂飩も蕎麦もラーメンもかつ丼も親子丼も、出前で運ばれるのを見たことがなくて、いや正確には、岡持ちをぶら下げた自転車やスーパー・カブを外で目にしても、それが遂に家にまでやつては來なかつた。だからどうだと訊かれるのは多少の困惑を覚えるけれど、食べる樂みの何割か何分か何厘か、損をしてゐる気がしないでもない。勿論それは勘違ひである。

 思ひ返すにわたしが出前を知らなかつたのは、ごく単純にその必要の無い環境で育つたからで、饂飩でも親子丼でも、食べたいと云へば(まあ大体は)作つてもらへた。もし出前を知らない損があつたかあるにしても、作つてもらへた贅沢に勝りはすまい。

 但しわたしは出前の経験を持たないだけで、厭つてゐるわけではないし、正直なところ、ちよつとしたあくがれも感じてゐると白状しておく。その程度のあくがれなら、電話一本でも、何やらいふ宅配のサーヴィスでも、直ぐに叶ふと笑はれさうだが、事はさう簡単だらうか。出前を頼む以上、家で食べたくなるくらゐに旨くなくてはならないから、事前に味を知つておく…詰り一度か二度は、店で食べておく必要がある。とは云つても、店で食べて旨いのが、家でも旨いとは限らない。呑み喰ひの味はひが場所で異なるのは、改めて云ふまでもなく、これは出前ではないが、百貨店の催事で驛弁を買つて家で食べても、大して旨くない。あれは特別急行列車の狭い卓に置き、ごとごと揺られながら、短い割り箸でつつくのも含めて味になつてゐるので、店で食べる味にも、店で食べるから感じられる味がある。

 そこまで肩肘に力を入れなくても、いいではないの、と苦笑を浮べる向きはをられさうだし、きつとその苦笑は正しいのだとも思ふ。炊事の手抜きとちよつとした贅沢(な気分)を兼ねるくらゐの考へなら、惡い撰択でもなささうでもある。尤もひとつ困るのは、出前を奢るには当り前だが、自分の住所を知らせねばならない。旨いまづいの前に、信用出來るかどうか判らない相手に何町何番地の丸太ですと伝へるのは、断然気に入らない。だつたら帰りに弁当を買ふ方がましな気になつて、さうなると残り少ない余命で、出前を註文する機会を持てるのか、甚だ疑はしい。

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 それに弁当ならどうかすると、三割引とか半額とかで買へるからねえ。