東都は蕎麦がうまい。尤も蕎麦がのしてくるまでは饂飩の天下だつたさうで、どんな事情があつたのか、よく解らない。蕎麦の茹で上がりの方が早いから、職人の気性に適つたとか、そんな程度の理由だつたのではないかと想像してゐる。箱根の関を潜り抜けた土地で、饂飩を初めて食べたのは平成元年の市川市、驛に併設された建物に入つてゐた饂飩屋だつた。東の野蛮人の饂飩はまづいにちがひないと決めつけてゐたから、関西風だつたか大坂風だつたか、さういふ幟の店できつねうどんを註文した。味は覚えてゐない。だからそれなりだつたのだらう。ひとつ忘れ難いのは、白葱があしらはれてゐたことで、啜りながら、えらいモンを出してくるンやなアと思つた。かういふ初体験は尾を引く。それに蕎麦が旨いと知りもしたから、箱根より東で饂飩を食べたいとは思はなくなつた。
山下洋輔に“ピアノ弾き”と題されたエセーが何冊かあつて、これがまつたく面白い。ジャズマンの生態が虚々實々、描かれてゐて、その中に山下のトリオ(確か坂田明と森山威男)がヨーロッパでコンサート・ツアーを行つた時のくだりがある。ドイツやフランスを何週間も巡るので、段々と日本の食べものが恋しくなつてくる。藥罐一杯の鰹出汁が飲みたいとか、どこやらの驛のキツネソバを持つてこいとか、喚きたてたとやら。そこを讀んで大笑ひしつつ、わたしは些か奇異の念を感じた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には今さら説明の必要もない筈だが、念の為に云ふと、キツネソバは大坂で食べることが出來ない。さういふ組合せが少なくとも店の品書きにはないからで、東京には妙なモンがあるンやねえと思つた。その妙なモンといふ印象はどうやら不快なそれではなかつたらしい。何年か経つた冬の或る日、神田かどこかの立ち喰ひ蕎麦屋に潜り込んだ時に、註文してみた。
きつねうどんの油揚げ…大坂人は(こつそり)“お揚げサン”と呼ぶのだが…は分厚くてやはらかく、甘みがある。さういふ積りがあつて見ると、油揚げが、ひどく薄つぺらに映つたので少々驚いた。かぢると、堅く、からい。まづいとは思はなかつたが、お揚げサンとは呼べんわナとは思つた。但し食べたくないとは感じなかつたらしく、きつねそばを何べんか啜つて、多分その流れのまま、きつねうどんを食べてみたがまづかつた。これはアカンやつやね。さう呟いてから、池波正太郎が
「ああいふの(大坂の人間が東京の饂飩を辛くて食べられないと非難する態度)を、馬鹿の骨頂といふんですよ」
と痛罵してゐたのを思ひ出した。何故かと曰く、江戸人が好んだ蕎麦は、労働者が一日、烈しく働いた後に食べたものだから、味つけが濃くなつて当然だと云ふ。間違ひではないとしても、何とはなしに魯山人めいた厭みが感じられる。それに堅くてからい油揚げは、遠慮勝ちに云つても旨くはないもの。
この辺りは併し、饂飩だ蕎麦だといふより、油揚げの俗信のちがひであらう。お稲荷さまの御使ひが狐なのは聲を大にするまでもなく、また御使ひ狐の好物は油揚げだし、お稲荷さまの総本宮は京都の伏見稲荷大社でもある。もうひとつ、油揚げ…お揚げサンにはシノダといふ旧い俗称があつて、今では多分余つ程のお年寄りでしか用ゐないと思ふのだが、シノダは大坂南部の信太ノ森のことである。何の話かと思ふ我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、葛の葉の伝承をお調べなさい。安倍晴明や蘆屋道満も絡んでくるから、数奇者には興味深いのではないか。この稿では矢張り狐が絡んでゐると指摘しませう。晴明は九世紀前半の生れだから千年余り、大坂人は狐と油揚げの関係に馴染んでゐる。馴染み續けてゐる。馴染みきつてゐる。すりやあ、美味いよ。
かと云つて大坂風のお揚げサンが、江戸風の蕎麦に適ふかどうかは、別の疑問として残る。ただその場合、そもそも蕎麦に油揚げが適ふのか知らと疑問が續く。ジャズマンには申し訳ないが、蕎麦に似合ふのは天かすや掻き揚げ(但し海老の天麩羅は饂飩向け)の筈で、適材適所といふ熟語はこんな時に用ゐるのだらう。さう云へば大坂にはきざみと呼ばれる種があるのを思ひ出した。 油揚げを細く刻んだのを乗せるので、饂飩と一緒に啜るのがうまいし、これなら御使ひ狐の細い口でも食べ易からう。併しここで、狐は本來、肉食なのだよと指摘が出るやも知れないが、油揚げは大豆から作られる。それに大豆は畑の肉とも呼ばれるくらゐだから、八釜しく云ふ必要はないでせう。美味い食べもの慾張りな江戸…東京人が、かういふ旨いものに冷淡なのは、不思議でならない。