閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

947 蔭

 これでも會社勤めの身である。

 ゆゑに日々、通勤をしてゐる。

 その路の端には樹が植はつてゐて、その樹々のつくる蔭が何とも快いのが、不思議である。

 理窟で云ふなら、ビルの蔭でも電柱の蔭でも、蔭は蔭だから、入つた時の感覚は同等だと思ふ。

 併し樹の蔭はちがふ。

 何故と訊かれたつて、さう感じるのだ、仕方ないでせう。

 話をうんと大きくするなら、我われ…少くとも私…の奥底にある(薄つすら残ると云つてもいい)、原始人の記憶が

 「樹の蔭を快く思はせるのだ」

と云ひたくなる…のは、根拠のない夢想です、念の為。

 

 夢想は兎も角。町につくり方といふのがあるなら、樹木はきつと欠かせない。

 「自然を大切に致しませう」

なんて云ふのではなく、いや結果的にはさうかも知れないけれど、その方が佳い心持ちになれる。

 

 神社を思ひだすと、旧い社ほど、樹木の幹は太々しく、その葉は鬱々としてゐる。なのにその清々しさは、寧ろ晴朗なほどで、神さまの場所なのだから、当然と云へばその通りだけれど、さういふ場所を撰ぶ目を、我われの遠いご先祖は持つてゐたことになる。

 近代的に美々しい建物の快適利便が駄目だと云ふほど、狭量な積りはありませんよ。空調の効いた、LEDで調光された場所にこちらの体は馴染んでゐるもの。今さら

 「なかつたことに」

されてもこまる。但し近代の快適利便とは、異なる快さがあるのも、事實のもう一方である。木々の間をすり抜ける風、繁る葉の重なり揺れる音、幹と枝葉がつくる蔭…要するに旧い神社の境内で、ぼんやり立ち尽くす午后の快さを私は云つてゐて、路傍の樹かげは、その欠片ではないかと思はれる。これもまた、夢想のひとつ。