これでも會社勤めの身である。
ゆゑに日々、通勤をしてゐる。
その路の端には樹が植はつてゐて、その樹々のつくる蔭が何とも快いのが、不思議である。
理窟で云ふなら、ビルの蔭でも電柱の蔭でも、蔭は蔭だから、入つた時の感覚は同等だと思ふ。
併し樹の蔭はちがふ。
何故と訊かれたつて、さう感じるのだ、仕方ないでせう。
話をうんと大きくするなら、我われ…少くとも私…の奥底にある(薄つすら残ると云つてもいい)、原始人の記憶が
「樹の蔭を快く思はせるのだ」
と云ひたくなる…のは、根拠のない夢想です、念の為。
夢想は兎も角。町につくり方といふのがあるなら、樹木はきつと欠かせない。
「自然を大切に致しませう」
なんて云ふのではなく、いや結果的にはさうかも知れないけれど、その方が佳い心持ちになれる。
神社を思ひだすと、旧い社ほど、樹木の幹は太々しく、その葉は鬱々としてゐる。なのにその清々しさは、寧ろ晴朗なほどで、神さまの場所なのだから、当然と云へばその通りだけれど、さういふ場所を撰ぶ目を、我われの遠いご先祖は持つてゐたことになる。
近代的に美々しい建物の快適利便が駄目だと云ふほど、狭量な積りはありませんよ。空調の効いた、LEDで調光された場所にこちらの体は馴染んでゐるもの。今さら
「なかつたことに」
されてもこまる。但し近代の快適利便とは、異なる快さがあるのも、事實のもう一方である。木々の間をすり抜ける風、繁る葉の重なり揺れる音、幹と枝葉がつくる蔭…要するに旧い神社の境内で、ぼんやり立ち尽くす午后の快さを私は云つてゐて、路傍の樹かげは、その欠片ではないかと思はれる。これもまた、夢想のひとつ。