閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

366 特別急行列車に乗りたい

 妙なことを云つて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏を煙に巻く積りではない。どこかに行きたいのでなく、特別急行列車に乗りたいといふ、ただそれだけの話。なので行き先はまあ膠泥しない。特急(とここからは省略する)が停車する驛…町なら、降りて周りを見渡して

「おれはこの後、どうすればいいんだ」

としやがみこむ破目にも陥るまい。第一、特急に乗るのが慾望…訂正、望みなのだから、寝床になるホテルと、地元のひとが集まるやうな呑み屋が一軒か二軒あれば不満は無い。それで兎に角、東京二十三区…詰りわたしが棲むところから乗れる…發にどんな特急があるか調べてみた。

 

◾️甲信方面

 “あずさ”

 “かいじ”

◾️房総半島方面

 “しおさい

 “わかしお

 “さざなみ”

◾️水戸方面

 “ひたち”

 “ときわ”

◾️熱海伊東下田方面

 “踊り子”

◾️箱根方面

 “ロマンスカー

◾️日光鬼怒川方面

 “スペーシア日光

 “スペーシアきぬがわ”

◾️秩父方面

 “レッドアロー”

 “ラビュー”

◾️川越方面

 “レッドアロー”

 

 見落しもあるだらうが、おほむねは把握出來たと思ふ。色々あるから驚いた。因みに云ふ。カタカナを含む名の特急はすべて私鐵で、それ以外が旧國鐵。両者の気風のちがひが感じられる。

 それで何に乗らうか。

 水が見える方がいい。わたしは山地より海辺を好む。何故だかは解らない。幼い頃に父親に連れられて電車を見に行つたのが鐵橋のある河川敷だつたからか、毎年の夏にヂーゼル機関車で若狭へ行くならはしがあつたからか、少年の頃の近所に千里川と神崎川があつたからか。兎にも角にも、鬱蒼と茂る森より、ぽかんと開いた水の光景が喜ばしく思へる。

 すると最初に浮ぶのは新宿發の“さざなみ”で、九時八分發(一本前が七時五十分なのでこれは乗れない)に乗つて濱金谷まで。着到は十時五十四分。わざわざ濱金谷としたのは、そこに目的があるからでなく、東京湾フェリーが出てゐるからで、疲労とか何とかを無視すれば、晝めしをしたためてから乗船出來る。フェリーの行き先は久里濱。勿論濱金谷で一泊して、晝めしとフェリーを翌日に延ばしてよく、濱金谷で寝床が取れないなら、ひと驛前の君津で降りてもいい。

 或は東京から“踊り子”に乗つて伊豆半島を目指すことも考へられる。合理的に考へると、小田原までは“ロマンスカー”を使ふ方がいい。熱海伊東くらゐなら、そこから各驛停車でも別に問題は無く、また廉価に済む。併しそれだと特急に乗るといふより、ただのスムースな移動である。気に入らない。それなら[鐵道唱歌]に敬意を示して、新橋十時四十二分發で十二時十五分熱海着の快速を使ひたい。これは残念ながら特急ではなく、さうなると矢張り“踊り子”といふことになる。熱海なら何べんか行つた。そのくせよく知らない町でもある。散らちら見た限りだと、元號を間違つてゐるんではないかと思はれる看板が幾つもあつた。

 濱金谷でも君津でも熱海でも、併しその辺りは實のところ、どうでもいい。大事なのは“特急に乗る”ことで、では乗つてどうするんだと訊かれるだらう。云ふまでもなく罐麦酒や葡萄酒(半壜)を呑みながら、お弁当(撰択は慎重に)やおつまみ(チーズや佃煮)をやつつける。特急で呑む機会はさう簡単に恵まれるものではないから、一時間とか二時間あれば、いい気分に醉へるだらう。であれば着到する町が歴史と名所旧跡に恵まれてゐるとか、近代的で花やかであるとか、さういふのは改めて目を瞑れるささやかな問題だと解る。