閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

785 梯子どんたく~澤乃井篇

 体調が惡くなつたのですとS鰰氏から聯絡があつたのは、どんたく当日週の中頃で、それは止む事を得ない。その暫く前にクロスロードG君からも、諸事情での不参加の報せもあつた。お酒はいいものだが、不調や事情を押して呑むものではないし、押して呑んでもまづいし、押して呑んでまづければ、お酒にも気の毒である。

 天気予報によると、当日の予測最高気温は卅度超。

 見ただけでうんざりし、それからぐつたりもした。

 元々から暑いのは苦手だし、更に蒸し暑ければ厭悪を感じるだけで(まあ雨よりはましなんだけれど)、当日の湿度が解らない内から麦酒が恋しくなつてきた。澤乃井園では以前、多摩の何やらいふ銘の地麦酒を扱つてゐたが、今はどうなのだらう。気になつてきた。

 

 窓の外を確めるまでもなく晴天の週末。

 天気予報が眞夏日とかそんなことを云ふのを聞いて、ひやあと思ひながら冷珈琲を一ぱい。外に出ると風があつたからやれやれとも思ふ。

 中野驛で予定より一本早い五十四分發の快速に乗つたが、三鷹驛で予定の特快に乗り換へ。立川驛で御手洗ひを使ふ序でに、持ち出し忘れを買つて、立川驛發は予定通り。たいへんにスムースで気分が宜しい。東中神驛を過ぎた辺りで、朝めしを摂つてゐないことに気が附いて、気が附いた所為で空腹を感じたが、もう遅い。青梅驛に着到した時、けふは外が暑いからこの先もお気をつけ下さい、と車内の放送があつていい気分になつた。

 いい気分は兎も角も、暑い。

 沢井驛に降りると、改札口が階段経由ではなくなつてゐたので、ちよいと嬉しくなつた。不評だつたのだと思ふ。既に頴娃君は澤乃井に着到済みらしく、利酒処で一ぱい呑んでゐると聯絡があつたから、煙草を一本吹かして合流した。相も変らず巨大なバックパックを重たげに置いてある。こつちも試飲。東京藏人。いつだつたかの催しで東京藏人の名前が附く前の試作を呑んだのを思ひ出した。久しいねえと云ひながら呑んでゐると、見學の時間近くになつた。

 

 では藏の方へ。

 外の陽は莫迦ばかしい酷さなのに、藏の中はひいやりしてゐる。室温は廿度。土藏造りですからね。

 「外気の影響を受けにくいんです」

案内役のひとが教へてくれた。以前にも聞いた筈なのに、改めてははあ江戸人の知恵は大したものだなあと思ふ。酒造好適米を削る話も久しぶりに聞くと新鮮に響く。澤乃井で一ばん贅沢なのは精米三割五分…詰り六割半を削る…で

 「八十時間くらゐ、掛ります」

といふ。どうしてそんなに時間が掛るのか訊いたら、お米が割れてしまふから機械では削れない。高いところから流し落し、また流し落しを何度も繰返して

 「お米同士で、削らせあふんですね」

成る程、さういふ手間があるんなら、その分を値段に入れるのは妥当以前に当然である。

 

 納得して藏の外に出ると、矢張り暑さが莫迦ばかしい。東屋でかるく食べる予定は無かつたことにして、[豆らく]に入つた。中に入ると顔を映す検温機があつて、計ると卅九度と表示されたから大笑ひした。計り直したらちやんと平熱を示したので、安心して席に着いた。さて何を食べますかね。

 暫し考へて、おぼろ豆腐御膳に大辛口をあはせることにした。頴娃君は炒り豆腐御膳と蒼天。先にお酒がやつてきたのはいいが、どうにも喉が渇いて仕方ないと思つたので

 「貴君。壜麦酒を呑まないか」

 「すりやあ最初に思ひつくべきだつた」

妙な云ひ方で同意を示してきたから、麒麟のラガー(中壜)をやつつけた。實にうまい。壜が空になつた辺りで、おぼろ豆腐と炒り豆腐の膳が運ばれた。徳利のやうな容れものに熱いあんが入つてゐて

 「これを掛けて、召し上つてください」

といふことだつた。わたしは素直なたちだから、その通りにして、匙で掬ひ口にすると、果してうまい。大辛口にも似合ふ。その匙がプラスチックなのは減点だが、まあ、八釜しいことは云ひますまい。

 ゆるゆると呑み、莫迦話に花を咲かせ、御膳を味はふ。藏が運営するお店だから、お酒に適ふ味つけなのが、まことに宜しい。贅沢を云へば、品書きに厚揚げや揚げ出し豆腐が無かつたのは惜しまれる。腰の重いもめん豆腐で仕立ててあれば、きつと恰好の肴になるだらうに。

 御馳走様を云つて利酒処に戻らうといふことになつた。お午を少し過ぎたくらゐの澤乃井園は外國の家族連れで混雑してゐる。観光で來日ではなく、在留してゐるのだらう。もしかすると福生の米軍基地で働いてゐるのかも知れない。利酒処に戻る前に煙草を一本吹かしてゐると、小さな子が持つてゐた水鐵砲が偶々こちらを向いてゐた。ホールド・アップしてみせると、得意気な顔つきになつた。

 利酒処で蒼天を試飲した。蒼天はニューナンブ公式の銘柄である。試さなくても美味いのは知つてゐるが、知つてゐるから試す必要がないとは云へない。

 「さ。問題はこの後ですか」

 「これだけ暑いと、外を歩かうといふ気にもならんですな」

 「同感ですな、まつたくのところ」

可及的速やかさで、昭島へ移動すべしと意見の一致をみた。澤乃井園の賣店でちよつとした買物をした我われは、可及的速やかさをもつて、沢井驛から青梅線の乗客となつた。