閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

367 いいおんなといふ名前の國

 最初に云ふと何ひとつ根拠は無い。

 わたしの先祖は源平合戰の折り、屋島で平家方について敗北し、伊豫に落ち延びて、その後村上水軍に従つたといふ。

 屋島合戰は寿永四年。

 伊豫村上氏の成立はその四半世紀ほど前の永暦元年頃と云はれてゐる。

 いづれも十二世紀の終りで、この時系列に無理はないが、村上水軍の活動が記録に残るのは南北朝が対立した時期、十四世紀の半ば辺りからで、ざつと百五十年の開きがある。仮に名も知れぬ先祖が、何かの縁で伊豫村上氏に従つてゐたとしても、屋島との関係は無かつたと断じていい。そもそもこの時期からの家系なら、薩摩の島津氏(初代の忠久から数へて)に並ぶ旧さといふことになる。

 何故そこで屋島に目を瞑るのかと云ふと、可視的な範囲の先祖と親族は伊豫新居濱のひとだからで、平家の雑兵より村上氏の家來の末席だつたと考へる方が納得し易い。どちらにせよ、いんちきな家系伝なのは揺るがないのだけれど。

 尤もわたしは伊豫生れではない。ではないが、伊豫の親族と年に何べんか会ふ機会はあつて、その所為かあの地には妙な親近感がある。

 一六タルトに別子飴。

 じやこ天と[梅錦]

 道後の温泉。

 『坂の上の雲』(三人の主人公は伊豫人である)

 漱石先生のあの中篇小説をここに含め(たく)ないのは、あのよく出來た面白い小説は、伊豫松山を小莫迦にしてゐる(但しその揶揄ひ方は巧妙である)からだが、あれを喜ぶ松山人は相当にひねくれ…いや知的な人びとなのか。

 併し地味である。隣國の讚岐阿波、瀬戸内を挟んだ安藝や備前備中備後を思ふと、何がどうとは云へないが、花やかさに欠ける気がする。冒頭の村上水軍だつて、紀伊國の熊野水軍に較べたらただの海賊に過ぎない。繰返すと、地味である。

 思ふに伊豫は歴史…日本史だけでなく、瀬戸内史や四國史も含め…の中で、主役を張つた経験を持たないからではないか。四國の切り取りは土佐の長宗我部元親だつたし、思想の怪人である空海は讚岐人である。辛うじて『坂の上の雲』の主人公たちを挙げてもいいが、秋山好古眞之の兄弟は大日本帝國軍人の側面がつよいし、正岡子規は地域史といふより文學史のひとである。どうも伊豫との地縁は薄さうな感じがする。

 だから惡いと云ふのではない。水に恵まれ、気候に恵まれ、海にも恵まれた土地に住んで、わざわざ外に押し出さうと思ふだらうか。愛媛は現代語で“いいおんな”くらゐの意訳が出來る。國産みの神さまに、さういふ名前…愛比売…を宛てたほどだから、余程ゆたかだつた筈で

「そねいに、あたふたせンでも、かまンけんの」

わたしが殿さまなら、きつとさう云ふ。それで家老も家來衆も百姓領民(ここに我がご先祖はゐたであらう)も、文句を云はなかつたらう。開墾や治水に苦しまなければ、立身や出世といつた慾だつたり何だつたりから距離を置けて、さういふ気風は今も残つてゐるのか。今夜辺り、じやこ天を肴に[梅錦]を呑みながら、改めて考へてみよう。