閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

709 冬の曇り

 当り前の心得として晝間は呑まないことにしてゐる。但し用意されてゐたら、それは不本意であつても、その気遣ひに敬意と感謝を示す意味で呑む。また旅行先や(特別)急行列車に乗る時は、当り前から外れた時なので、心得の前提からも外れる。だから呑む。かう書くと丸太の云ふ心得とやらは形骸的で、晝間つから呑むのが当り前なのではないかと疑はれさうだが、お酒が事前に用意されてゐたためしなんぞ無く、旅行や特別急行列車に乗ることも少い。詰り例外的なのであつて、例外的な事態を挙げたと云つて、それが当り前と思はれてはこまる。我が厳密を重んじる讀者諸嬢諸氏は更に、そんなら晝間とは何時までなのだと、追討ちを掛けてくると思へて、そこは時節で異なりますなと曖昧にしておく。尤も尊敬する吉田健一曰く、呑み助の理想は朝から呑み始め、晝を過ぎ、夕になり、気がつけば月が浮んでゐて、愛でてゐる内に朝を迎へるまで、夜になつたり朝になつたり、忙しいもんだね、と云ひながら呑み續けることだといふ。伊丹十三も若い頃、俳優仲間と呑んで呑み續けて、酒量は升やリットルではなく廿時間から卅時間とうそぶいたさうだ。何を云つてゐるのか、よく解らない。文學的な誇張はあるとして、わたしは摘みがないと呑めないたちだから、醉ふ前にお腹がはち切れさうな気分になつて仕舞ふ。

 この時期…詰り冬の寒さがやつてくると、摘むのに恋しくなるのは鍋料理である。もつと大きく、煮込み料理と呼んでもいいが、こちらとしては矢張り、鍋料理でなければ鍋ものと云ひたい。何しろ思ひ浮ぶのは、水炊き、寄せ鍋に常夜鍋なので、煮込みとは呼びにくい。昆布でお出汁を引いて、白菜に豆腐に長葱に春雨、鶏肉と豚肉、菊菜に椎茸に榎茸、鮭や鰤や鱈。餃子を入れていいし、千に切つた大根や薄切りの人参をさつと出汁にくぐらすのもいい。大根おろしと醤油とぽん酢で、幾らでも食べられる。冷酒やお燗は勿論、麦酒も焼酎も、うまくすれば葡萄酒でも似合ふ。野菜があり魚介があり、獸肉も豆腐も、詰り何でもあるのだから栄養學的に咜られる心配は無く、汁気が酒気の邪魔をしないのもいい。お味噌汁や粕汁や豚汁が肴になるのと似てゐる気がする。ある藏の銘柄と、その藏の酒粕を使つた粕汁の相性ときたら、堪らない嬉しさを覚えるくらゐだが、この稿で踏み込むのは控へ、鍋ものに話を戻すと、いやその前に鍋ものと云へばおでんや鋤焼きを忘れてはならぬ、と反發されるかも知れず、さう云はれれば確かにおでんも鋤焼きも好物なのに、併し鍋ものと考へたことがない。大雑把におでんはもつ煮と同族、鋤焼きは鋤焼きで獨立した食べものに思へるからで、双方の愛好者には厭な顔をされるだらうか。

 戻す。鍋ものは煮えてさへゐれば、その辺にある何を入れても、大体は旨く食べられるのが嬉しい。切るなり刻むなりが少し手間だけれど、そのくらゐなら惜しむまでもないし、どこかの鍋料理屋に居るなら、二人前でも三人前でもお代りを頼めば済む。鍋料理屋が朝から翌朝までやつてゐる筈はないと云はれても、理窟の上ではいつまでも呑める時、一ばん似つかはしい相棒(候補)に鍋ものを挙げて異論は出まい。尤も鍋ものを相手に、中々ひとりで呑むわけにはゆかないのは難問である。三人とか四人で呑みながら、あれを入れろこれが煮えたと賑々しく喋るのも、いはば調味料だからで、頭の中に架空の美女(でなくとも変りはあるまいが)を浮べ、勝手な會話に花を咲かせたところで旨くなりはせず、第一面白くも何ともない。鍋ものには矢張り三人か四人、莫迦話の出來る相手が欠かせないらしい。これはこまる。わたしは人附合ひの範囲が非常に狭いから、鍋をつつく相手を集めるのは六づかしい。そこで考へられるのはそれでも何とか集めにかかるか、集められないのは仕方ないから諦めるのでなければ、我慢してひとりで食べるのいづれかであらう。どれも詰らない。集められれば、いいぢやあないかと云はれても、集め損ねたら、その後どうすればいいか解らなくなるし、自棄酒に走りでもしたら、惡醉ひするに決つてゐる。それもこまる。自棄酒の経験は無いけれども、いつだつたか酒席に遅れたので、先に醉つてゐる連中が羨ましくて、追ひつかうとどんどん呑んだら酷い目にあつたことがある。かういふ過ちを繰返してはならない。また逸れた。

 

 併し鍋ものの中でひとつ、具合のいいのがあつて、詰り湯豆腐である。一緒に煮るのは白菜か水菜、それから長葱くらゐ。本当に出來のよい豆腐と、質の高い昆布が手に入れば、それだけでよからうが、中々の難問だらう。南禅寺で食べた時はどうだつたか知ら。何十年も前だから、記憶からすつかり抜け落ちてゐる。ただ小さな鍋で供されたのは確實で、もしかしてその辺りが切つ掛けになつたものか、湯豆腐に限つては、大きな土鍋だと寧ろ落ち着かない。何しろ豆腐の外は菜つぱと葱くらゐだから、小さい土鍋でなくちやあ、却つて貧相になる。見た目を気にするのはと苦言を呈せられても、鍋ものはその見た目の花やかさも味の内だから、気にするのが人情といふものだ。

 ひとり前の土鍋の底に昆布を一枚、たつぷり張られた出汁に豆腐が収つて、脇には菜つ葉と葱。器には大根おろしにぽん酢と醤油、刻んだ青葱を少し散らせば、どうしたつて一本、慾しくなる。もうひとつ、湯豆腐はお酒が本來として、たとへば麦酒は勿論、葡萄酒も決して不似合ひではないのも宜しい。何をもつて宜しいかと云へば、朝に湯豆腐を用意してぬる燗を一本、暢気に嘗めてゐれば晝になるから、麦酒で口を直して豆腐を追加すればなだらかに晝酒へと移れる。實に宜しい。それで改めてお酒を呑んでもよく、煮えるまではシェリー、それから葡萄酒にしたつて惡くない。なあに、慌てなくても、湯豆腐は逃げやしない。と考へたら、気持ちに余裕が生れる。さうすると盃でもグラスでも、上げ下ろしがゆつくりになる。一ぱい一ぱいを樂む時間も長くなつて、淺い醉ひのまま、陽は暮れてゐるにちがひない。それでもうそんな時間なのか、忙しいものだなあ、とうそぶければ、吉田や伊丹の域だし、飽きて眠くなつたら、焜炉の火を切り、その場で寝転べばよい。冬の曇つた一日に相応しい過し方が、外にあるものだらうか。

708 饗宴(贋)

 吉田健一の『酒肴酒』といふ随筆集(光文社文庫に入つてゐる)に、「饗宴」と題されたやや長めの一篇がある。胃病で飲食に不自由した時に想像する、"もの凄いご馳走の夢"に就ての一文で、實際と経験と妄想が入り交つた、随筆なのか何なのか、兎に角讀んでゐる内、こちらの腹も膨れてくる気がするから(或は烈しく空腹を感じるから)、きつと佳い文章なのだらう。尤もこの場合の"佳い"は、"甚だしい迷惑"と殆ど同じ意味である。

 胃を患つた吉田の知人曰く、飲食に制限が掛つたら、頭に浮ぶのは食べること計りになるといふ。そこで吉田の空想も食べることにぐつと傾いてゐて、かういふのも説得力なのかどうか、無秩序で絢爛豪華な献立の中に、お酒も麦酒も葡萄酒も出ないのが不自然に思はない。勿論それは空想だから成り立つので、ご馳走のお皿が目の前に並べ立てられた時に、あの批評家が一ぱいを嗜まないとは考へられないのだが。

 併し入院中、酒精を求めないのは解る。卅余年前、三ヶ月ほど入院したことがあつて(胃病ではなかつたけれど)、病院で出された三食に、罐麦酒の一本も附かないのを不満には思はなかつた。寧ろ栄養だのカロリーだのを考慮しない、医學的には不健康な食べものを恋しがつた記憶がある。その頃に吉田の一文を讀んでゐたら、どんな気分になつたらう。具体的な空想を働かせるほどの経験が無かつたから、却つて苛立ちが募つたかも知れない。

 では卅年余りが過ぎた令和三年ならどうか。幸ひ胃腸は健全らしく、飲食に不自由はしてゐないから、呑まないで食べ續けるのを空想するのは六づかしい。一方で卅年前に較べれば、胃袋は縮んだと思しく、食べられる量がぐんと減つてもゐるのは残念である。なので胃袋の大きさ、それから財布の都合を考へずに食べるとしたら、と空想を働かせてみたい。空想と云つても、ただの架空では面白みに欠けるから、その辺は現實に則しつつ、誤魔化しも入れつつ、進めますよ。

 

 そこで先づ大久保に行く。百人町の交叉点から大久保驛の間には呑み屋が何軒か並んでゐるが、最初は[長寿庵]で天玉蕎麦を啜る。何と云ふこともない、立ち喰ひに椅子を置いた程度の蕎麦屋だが、店で揚げてゐるか掻き揚げ…いつだつたか、天麩羅蕎麦を平らげた女性が、残つたつゆにその掻き揚げだけを追加してもらふのを見たことがある…がうまい。腹にしつかり収め、さあこれから呑み喰ひを愉むぞ、と気合ひを入れるのに好適である。

 いきなり重い酒精を入れるのは好もしくないので、天玉蕎麦を平らげたら、[かぶら屋]に入る。深々とした論評を必要としないありふれたチェーンの安呑み屋。以前は純然とした立ち呑み形式で、愛想と客あしらひの巧いお姐さんが店長として、どうも特権的に好き勝手を…詰り摘みに工夫を凝らしてゐた。改装とあはせてお姐さんは異動したのか、姿を見なくなり、メニュもチェーン共通に纏められたが、現在の店長もあしらひがいい。酎ハイや抹茶ハイを呑んで、串ものを何本か(ハラミにネギマ、玉葱のフライ)、コロッケやミンチカツも食べておかうか。

 或は[ぽかぽこ]にするのもいい。立ち呑み。愛想がいいのか惡いのか、小父さんがひとりで切盛りしてゐる。壜麦酒にサッポロの赤ラベルを用意してゐるところに、判つてゐるなといふ感じがする。その赤ラベルを呑みながら、矢張り串もの。でなければ、厚揚げを焼いてもらふのも宜しからう。そこから中央緩行線に乗つて二驛行けば中野驛だからそこで降りる。帰りも中野驛から電車に乗らねばならない。ひとまづは驛に近い喫煙所で一服を点け、早稲田通りの方へ歩く。早稲田通りを渡ると新井藥師の商店街だが、そつちはよく知らない。渡らず中野驛の方を向くと、昭和新道通りが見える。

 

 かう書いてから、いきなり中野に行つてもいいと思つた。驛前にある名前を知らない立ち喰ひ蕎麦屋で、田舎蕎麦を啜るのも惡くはない。確かすりおろした生姜をちよつぴり入れるのを薦めてゐて、それが野暮つたい蕎麦に似合つてゐた。偶に家で食べるカップ入りの即席蕎麦にも応用が効く。蕎麦屋なら他にも[富士そば]や[梅もと]もある…残念ながら、この稿のやうな空想には、ちつとあはない。蕎麦に拘泥する必要はなくて、呑み喰ひを樂む準備運動になるかるい食事なら、好きに撰べるのは有難い。それで昭和新道通りに戻ると、ここは大久保驛前より色々の呑み屋がある。

 

 店の名前は忘れた(ジャックとかジョニーとか、そんな感じだつた)が、そこに潜り込んで、ホッピーにする。ホッピーも莫迦には出來ないもので、店によつて味が異なる。使つてゐる焼酎のちがひらしい。数寄者に云はせると、キンミヤ焼酎が本道といふ。尤もホッピーの會社によると、ジョッキを凍らせ、焼酎もホッピーも十分に冷し、氷は入れないのが推薦の呑み方で、焼酎の銘柄には触れてゐない。推薦の呑み方は試したことはない。摘むのは鶏の唐揚げ、焼き厚揚げ、ポテト・サラド、それからもつ煮。前二者は時間が掛かるだらうから、後二者で繋がうといふ魂胆である。余りにも基本的過ぎて詰らないと云はれても、こちらは変り種を求めてゐるわけではない。

 そこから[ぱにぱに]まで歩く。歩くといつたところで、三分もかからない。ここは立ち呑み屋で摘みがうまい。焼き餃子、素揚げの茄子に葱だかで仕立てたソースをかけたの、鶏の天麩羅、ポーク玉子。金魚といふ酎ハイの一種(大葉と唐辛子が入れてある)を二杯か三杯。摘みは全体的に中華風の味つけだから、お酒をあはすのは少々六づかしい。小さく切つたチーズに削り節をあはせ、何やらドレッシングをかけたのや、薄く切つた苦瓜を酢のもののやうに仕立てたので、濁り酒(五郎八だつたか)を呑む手はあるにしても、金魚から濁り酒へ、なだらかに移れるとは思ひにくい。それにお酒の方は別に目処がある。目処といふのは、お酒に適ふ肴があるのを意味してゐて、そこにゆく前にまた少し歩く。

 この場合の少しは文字通りの意味で、この狭さが昭和新道通りのいいところである。目立たないところに、ここは店名を伏せるが、實にうまい店がある。黑糖の焼酎に泡盛。その前につき出しを摘みにオリオン・ビールとする。[ぱにぱに]もさうだが、ちよいと手を掛けたつき出しを用意する店は、それで信用したくなる。都立家政驛の近くにある[かっぱ屋]といふ呑み屋のつき出しもいい。詰り摘みが旨いので、あすこの水餃子と浅蜊の酒蒸しと色々の焼き魚、どうかすると出てくるカレー・ライスに無沙汰なのは残念でならない。

 

 ただわたしは空想の中で中野にゐる。空想だから一ぺん都立家政まで飛んでもいいのだが、それが許されるなら、ゴールデン街のお酒を揃へた小汚ない呑み屋(今もあるのか知ら)だの、天満の[てぃだ]、梅田の[ケラー]、中崎町や京橋(大坂の方である)の名前を忘れた立ち呑み屋にも行けることになつて、収拾がつかなくなる。都立家政なら新井藥師の商店街を抜け、西武新宿線に乗れば、行けなくはないとして、そんならゴールデン街だらうが梅田や天満だらうが、行けなくはないことになる。収拾をつける前に切りが無い。空想に求められるのは、奔放ではなく節度なのだと、我われは理解する必要がある。

 

 中野の某店に戻る。オリオンとつき出しをやつつけた筈だから、安心してちやんぷるーを註文する。苦瓜か素麺か、出來るなら半々で出してほしい。玉子焼きも食べる。黑糖焼酎か泡盛を水割りで。その後に何といふ名前だつたか、辛くちのソーダでヰスキィを割つてもらふ。折角の蒸溜酒を割るのは勿体無いと思ふひともゐるだらうが、わたしの舌は粗雑に出來てゐる。寧ろ少し割つてもらふ方が、旨いと思ふし、味のちがひも解る。ちやんぷるーやポーク玉子だけでなく、何とか豆も食べる。落花生だかを黑糖でまぶしてゐてあまい。但しその甘さが派手ではないから、黑糖焼酎や泡盛に適ふ。この店にはどうかするとルリカケスラム酒が置いてあるから、幸運に恵まれれば、あはしてみたい。

 串焼きだの唐揚げだの餃子だのちやんぷるーだのを食べてきた。そこで目処をつけてゐた店に行く、いやその前にもちつと、食べておきたい。そこで臺灣料理で呑める店に入る。臺灣麦酒、紹興酒。トマトと玉子の炒めもの、家常豆腐、拉麺。食べたことのない料理が色々あるので、試してもいい。ここは一品がたつぷりしてゐるから、半量づつで幾つかを平らげたら、十分に満腹を感じるだらう。改めて目処をつけてゐた店に足を向ける。摘みが旨いのは云ふまでもない立ち呑み屋。満腹で大丈夫かと思ふひともゐる筈だが、ここ(と名前は伏せる)の肴は、呑み助向き…詰りお漬物や烏賊を焚いたの、蓮の金平、油揚げと青菜を煮たのが、小皿で盆栽のやうに出る。かういふのを眺めつ、鳳凰美田だの鍋島だのを冷やでやつつけるのは、嬉しいことである。眺めるだけでは詰らないのは勿論だから、摘みもする。

 他にも摘みに拘泥しなければ呑める場所は幾つかあつて、お酒や焼酎、葡萄酒、ヰスキィを樂めるけれど…摘みの類がまづいわけではないから念の為…、この稿は尊敬する吉田の眞似なのでそつちは触れない。おほむねの順番は考慮してあるが、實は触れなかつた店を挟む方が、様々醉へる…醉ひ直せるし、"饗宴"の字にも似合ふ。一方で吉田は、醉ひ心地の一貫性を重んじた。あのひとが毎年の金沢行の急行列車にシェリーとお酒を持ち込んだのは、同じやうな醉ひが續くからださうで、本当だらうか。であれば、最初に葡萄酒を呑ませるバーでシェリーを二杯くらゐやつつけ、それからはお酒に任す方向もあるのかと思へてくるけれど、今から改めて考へるのは面倒である。まあそつちは今晩にでも、呑みながら考へてみませう。

707 曖昧映画館~機動警察パトレイバー the Movie

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 平成元年公開だから、令和三年から卅年余り遡つた頃の映画として観る必要がある。

 平成三年、Windows3.1發賣。

 平成七年、Windows95發賣。

 当時のパーソナル・コンピュータのOSはMS-DOS 4が主流(参考までに云ふと漢字Talkは6の系統)で、ネットワークなどは企業が使ふものだつた。わたしが仕事でコンピュータを触り出したのは、MS-DOS 5/Windows3.1から95への転換期、詰りコンピュータによるネットワークが一般的になつてきた頃だつたから、この映画より後の話といふことになる。さう考へると、この時期にシステムのクラッキングを物語の鍵としたのは、慧眼と云つていい。

 

 周章てて云ふと、この映画の世界では"レイバー"と呼ばれる(人型の)ロボットが活用されてゐる。そのレイバーを制禦するOSの新しいバージョン(に仕込まれた罠)が、上に書いた物語の軸…鍵になる。となつたら、話は開發者を捕へることと、OSの修正の方向になりさうなものだが、その部分はまつたく描冩されない。開發者は(後半で判るのだが)冒頭で自殺してゐるし、主人公たちが属するのは警察だから、仕込まれた罠が引き起す(だらう)被害を食ひ止める為に行動をしなくてはならない。取らざるを得ないと云ふべきか。

 

 ある條件が満たされると、仕込まれた罠が動作を始める。そのOSを搭載したレイバーの中には、警察用の新型も含まれてゐて、それは当然、暴走を起す。意図的にバージョン・アップをしなかつた現行機との対決がクライマックスで、それまでは些か陰鬱に進んだ警察ドラマが、ここでやつとロボット・アニメイションらしくなる。尤も監督をした押井守は多分、そのロボット・アニメイションらしさを厭つてゐた気がする(次作でそれは顕著…といふより、剥き出しになるのだが)かれはこれを、"ロボットがある社會で起きる事件"の映画と考へてゐて、ロボット自体は小道具に過ぎなかつた。骨骼を取り出せば、新型の戦闘機でも金融機関でも、話は成り立つ(映画ではないので念の為)のが證拠。

 

 かう書くと、えらく批判的だと思はれるだらうが、またその面があるのは否定もしないが、好き嫌ひで云ふと、この映画は好きの範疇に入る。しつつこいロケーションがあつたと思へる町中の描き方だつたり、過剰なのに過剰と感じさせないカメラ・ワークだつたり、システムが暴走する條件附けの説得力だつたり、よく出來てゐるのは間違ひない。ロボットの尤もらしさを堪能したいなら、最適の一本と云つていい。

706 曖昧映画館~水戸黄門漫遊記 怪力類人猿

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 YouTube東映EXTREMEチャンネルといふのがある。そこで、期間限定での公開時、何の予備知識も無しに観た。題名に惹かれたからなのは、云ふまでもない。水戸の老公と類人猿(然も怪力)の組合せですよ。酷い題名だが、観たくならない方が、どうかしてゐる。他國でこんな題の映画…アーサー王と怪力類人猿や項羽と劉邦と怪力類人猿…はとても撮れないだらうな。ジャンヌ・ダルクと怪力類人猿ならちよつと、観てみたい。

 

 話もまた酷い。一応は宇都宮城の釣り天井伝を筋の中心に置いてはあるものの、事件は元和八年に起きてゐて、ご老公は六年後の寛永五年に生れてゐるから、この時点で設定が破綻してゐる。更に云へば惡役兼女主人公は、話の始まる前に改易された福島正則の姫君で、徳川に恨みがあり、将軍暗殺を目論んでゐるのだが(改易から釣り天井の時系列はあつてゐる。但し正則の死去は釣り天井の一件の二年後)、この映画での将軍は五代綱吉である。徳川の治世は安定期に入つてゐて…いやもう止めませう。近い時期の面白さうな伝説を幾つか混ぜて、筋立てをでつちあげたにちがひない。

 それより酷いのは、副題でもある"怪力類人猿"がゐなくても、映画の筋が進められることで、老公の一行と類人猿が絡むのは、前半にほんの少し、あしらはれただけである。その怪力類人猿の正体までは触れない。種はあつさり割られてゐて、それがまた時系列をまつたく知らないか、考へてゐないのでなければ、無視を決め込んでゐるものだとは云つておかう。いい加減もでつちあげも、ここまでくれば怒れないし、苦笑も失笑も浮ばない。月形龍之介といふ大スターを起用してこれだもの。当時の日本映画界は妙な具合に沸騰してゐたのか…怪作『宇宙人東京に現わる』や、傑作『空の大怪獣 ラドン』も同じ年の公開…と思ふ。

 

 さうさう。この映画に劇場公開は昭和卅一年。漫遊記は同年に續けて、"怪猫乱舞"と"人喰い狒々"と"鳴門の妖鬼"も公開されてゐる。詰り当つたのだらう。凄い時代だつたのだ。

705 曖昧映画館~激突 将軍家光の乱心

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 平成元年公開の当時、映画館で観たと思ふ。観たかつたからではなく、何かの都合か弾みだつた筈だ。期待してはをらず、だから面白く観ることが出來た…と思ふ。尤も後日に観直す機会があつて、何とも微妙な気分になつた。

 

 千代田城の主、徳川家光は、息子…後継者でもある…竹千代の命を奪はうとしてゐる。己に似てゐない、だから気に喰はない。さういふ理由。老中、阿部重次は配下の伊庭庄左衛門に暗殺を命ずる。一方、堀田正盛は竹千代を守らんが為、石河刑部を頭目とする浪人集団を傭つてゐた。

 ここまでが話の前提。

 その竹千代の元服を行ふ。五日後、江戸に來い。

 嗣子を保護する堀田家に家光から上意が伝へられる。罠なのは云ふまでもない。道中の暗殺が成功しても、江戸行を拒んでも堀田家は取り潰される。生きて千代田城に乗り込み、当代の将軍に打ち克つ以外、竹千代には生きる途は無い。伊庭の一党と刑部の傭はれ浪人との激突や如何に。

 

 かう書けば、面白さうでせう。愛だの正義だの民草の暮しだの、現代劇から引つ張つたやうな御為ごかしはまつたく見当らないし、身を削つたアクションは大したもので(千葉真一がそつちを全部、担当したのだから当然だらう)、そこはその通りである…ではあるのだが。

 思ふに口ごもつて仕舞ふのは、脚本が纏まりきらなかつた所為でなからうか。ちらちら見え隠れする"理不尽"…この映画では、上位の身分が押しつける我儘勝手と考へていい…への抵抗をもつとはつきり見せてもよかつたのに。主人公側の登場人物には様々な"理不尽"への怒りがあるのだから、そこが多重的に描かれてゐればと思ふ。

 もうひとつ。アクションを折角、派手に仕掛けたのだ(アクション監督を兼任した千葉真一の殺陣は實に見事)、全体をもつと、漫画的…芝居的にした方がよかつた。ちやんばら映画といふ娯樂の未体験者には、勧めてもいいかと思ふけれども、歴史劇ではなく、時代劇なんだもの、荒唐無稽に徹するまで思ひきれなかつたのは、残念と云ふ外にない。