閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

709 冬の曇り

 当り前の心得として晝間は呑まないことにしてゐる。但し用意されてゐたら、それは不本意であつても、その気遣ひに敬意と感謝を示す意味で呑む。また旅行先や(特別)急行列車に乗る時は、当り前から外れた時なので、心得の前提からも外れる。だから呑む。かう書くと丸太の云ふ心得とやらは形骸的で、晝間つから呑むのが当り前なのではないかと疑はれさうだが、お酒が事前に用意されてゐたためしなんぞ無く、旅行や特別急行列車に乗ることも少い。詰り例外的なのであつて、例外的な事態を挙げたと云つて、それが当り前と思はれてはこまる。我が厳密を重んじる讀者諸嬢諸氏は更に、そんなら晝間とは何時までなのだと、追討ちを掛けてくると思へて、そこは時節で異なりますなと曖昧にしておく。尤も尊敬する吉田健一曰く、呑み助の理想は朝から呑み始め、晝を過ぎ、夕になり、気がつけば月が浮んでゐて、愛でてゐる内に朝を迎へるまで、夜になつたり朝になつたり、忙しいもんだね、と云ひながら呑み續けることだといふ。伊丹十三も若い頃、俳優仲間と呑んで呑み續けて、酒量は升やリットルではなく廿時間から卅時間とうそぶいたさうだ。何を云つてゐるのか、よく解らない。文學的な誇張はあるとして、わたしは摘みがないと呑めないたちだから、醉ふ前にお腹がはち切れさうな気分になつて仕舞ふ。

 この時期…詰り冬の寒さがやつてくると、摘むのに恋しくなるのは鍋料理である。もつと大きく、煮込み料理と呼んでもいいが、こちらとしては矢張り、鍋料理でなければ鍋ものと云ひたい。何しろ思ひ浮ぶのは、水炊き、寄せ鍋に常夜鍋なので、煮込みとは呼びにくい。昆布でお出汁を引いて、白菜に豆腐に長葱に春雨、鶏肉と豚肉、菊菜に椎茸に榎茸、鮭や鰤や鱈。餃子を入れていいし、千に切つた大根や薄切りの人参をさつと出汁にくぐらすのもいい。大根おろしと醤油とぽん酢で、幾らでも食べられる。冷酒やお燗は勿論、麦酒も焼酎も、うまくすれば葡萄酒でも似合ふ。野菜があり魚介があり、獸肉も豆腐も、詰り何でもあるのだから栄養學的に咜られる心配は無く、汁気が酒気の邪魔をしないのもいい。お味噌汁や粕汁や豚汁が肴になるのと似てゐる気がする。ある藏の銘柄と、その藏の酒粕を使つた粕汁の相性ときたら、堪らない嬉しさを覚えるくらゐだが、この稿で踏み込むのは控へ、鍋ものに話を戻すと、いやその前に鍋ものと云へばおでんや鋤焼きを忘れてはならぬ、と反發されるかも知れず、さう云はれれば確かにおでんも鋤焼きも好物なのに、併し鍋ものと考へたことがない。大雑把におでんはもつ煮と同族、鋤焼きは鋤焼きで獨立した食べものに思へるからで、双方の愛好者には厭な顔をされるだらうか。

 戻す。鍋ものは煮えてさへゐれば、その辺にある何を入れても、大体は旨く食べられるのが嬉しい。切るなり刻むなりが少し手間だけれど、そのくらゐなら惜しむまでもないし、どこかの鍋料理屋に居るなら、二人前でも三人前でもお代りを頼めば済む。鍋料理屋が朝から翌朝までやつてゐる筈はないと云はれても、理窟の上ではいつまでも呑める時、一ばん似つかはしい相棒(候補)に鍋ものを挙げて異論は出まい。尤も鍋ものを相手に、中々ひとりで呑むわけにはゆかないのは難問である。三人とか四人で呑みながら、あれを入れろこれが煮えたと賑々しく喋るのも、いはば調味料だからで、頭の中に架空の美女(でなくとも変りはあるまいが)を浮べ、勝手な會話に花を咲かせたところで旨くなりはせず、第一面白くも何ともない。鍋ものには矢張り三人か四人、莫迦話の出來る相手が欠かせないらしい。これはこまる。わたしは人附合ひの範囲が非常に狭いから、鍋をつつく相手を集めるのは六づかしい。そこで考へられるのはそれでも何とか集めにかかるか、集められないのは仕方ないから諦めるのでなければ、我慢してひとりで食べるのいづれかであらう。どれも詰らない。集められれば、いいぢやあないかと云はれても、集め損ねたら、その後どうすればいいか解らなくなるし、自棄酒に走りでもしたら、惡醉ひするに決つてゐる。それもこまる。自棄酒の経験は無いけれども、いつだつたか酒席に遅れたので、先に醉つてゐる連中が羨ましくて、追ひつかうとどんどん呑んだら酷い目にあつたことがある。かういふ過ちを繰返してはならない。また逸れた。

 

 併し鍋ものの中でひとつ、具合のいいのがあつて、詰り湯豆腐である。一緒に煮るのは白菜か水菜、それから長葱くらゐ。本当に出來のよい豆腐と、質の高い昆布が手に入れば、それだけでよからうが、中々の難問だらう。南禅寺で食べた時はどうだつたか知ら。何十年も前だから、記憶からすつかり抜け落ちてゐる。ただ小さな鍋で供されたのは確實で、もしかしてその辺りが切つ掛けになつたものか、湯豆腐に限つては、大きな土鍋だと寧ろ落ち着かない。何しろ豆腐の外は菜つぱと葱くらゐだから、小さい土鍋でなくちやあ、却つて貧相になる。見た目を気にするのはと苦言を呈せられても、鍋ものはその見た目の花やかさも味の内だから、気にするのが人情といふものだ。

 ひとり前の土鍋の底に昆布を一枚、たつぷり張られた出汁に豆腐が収つて、脇には菜つ葉と葱。器には大根おろしにぽん酢と醤油、刻んだ青葱を少し散らせば、どうしたつて一本、慾しくなる。もうひとつ、湯豆腐はお酒が本來として、たとへば麦酒は勿論、葡萄酒も決して不似合ひではないのも宜しい。何をもつて宜しいかと云へば、朝に湯豆腐を用意してぬる燗を一本、暢気に嘗めてゐれば晝になるから、麦酒で口を直して豆腐を追加すればなだらかに晝酒へと移れる。實に宜しい。それで改めてお酒を呑んでもよく、煮えるまではシェリー、それから葡萄酒にしたつて惡くない。なあに、慌てなくても、湯豆腐は逃げやしない。と考へたら、気持ちに余裕が生れる。さうすると盃でもグラスでも、上げ下ろしがゆつくりになる。一ぱい一ぱいを樂む時間も長くなつて、淺い醉ひのまま、陽は暮れてゐるにちがひない。それでもうそんな時間なのか、忙しいものだなあ、とうそぶければ、吉田や伊丹の域だし、飽きて眠くなつたら、焜炉の火を切り、その場で寝転べばよい。冬の曇つた一日に相応しい過し方が、外にあるものだらうか。