閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

793 上手の天麩羅

 過日、ちよいと一ぱいを引つ掛けた時のつき出し。

 ご覧のとほりの天麩羅で、見た目はまあ、仕方がない。

 天麩羅屋で呑んだのではないもの。

 画像では判りにくいので云ふと、種は茄子と烏賊。

 正直なところ、困つたなあと思つたのは、わたしが茄子を苦手にしてゐるからで、お店の責任ではない。それにこのお店の摘みが信用出來るのは、既に知るところでもある。

 それで食べると果して實に美味い。

 塩を少し振つたのだが、纏ふ衣のかるさと、茄子の水気がうまくあはさつてゐる。感心し、苦手の前言を翻して、快哉をあげたくなつた。

 烏賊はもつと感心した。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏も御存知の通り、烏賊は火の通し具合を間違ふと、護謨のやうな歯触りになるでせう。そんなことは勿論なく、自分でも不思議なのは、ごく上等のビスケットが聯想された。まさか英國人のお茶の時間には出せなからうけれど。

 

 上手の天麩羅はお酒の時間を豊かにしてくれる。

792 おまかせ円盤

 当人から聞いたわけではないが、外ツ國の客人が日本の料理屋で驚くのは、品書きに

 「おまかせ」

があることださうだ。何だこれはと思ふらしく、気持ちは判らなくもない。何が出されるか、適正な値段なのか、そもそも美味いのか、見当がつかないんだもの。わたしだつて(きつと貴女もさうでせう)フランスのア・ラ・カルトや中華の点心なら兎も角、アメリカンなレストランに"おまかせ"があつても、註文する度胸は持てない。

 料理する側の自信と誠實。

 食べる側のお店への信用。

 両方…材料を吟味し、調理に手を掛けて出すのと、出てきた一品一品を、丁寧に味はふのが…重なつて成り立つのが、本來の"おまかせ"である。テンプラ・レストランは知らず、天麩羅屋で"おまかせ"を頼んで、海老フライや鶏の唐揚げやとんかつは出ないでせう。話がちがふ方向に進みさうだ。

 まあ、いいか。

 本來でない…云つてしまへば安直な"おまかせ"も勿論あるからで、呑み屋の品書きに見掛ける

 「何々のおまかせ何点盛り」

といふのがそれ。たとへば"お刺身のおまかせ四点盛り"と云へばいいか。ここで念を押すと、安直と不味いは結びつくとは限らない。余談混りに實例を挙げると、田町に今は閉店したチェーンの某居酒屋があつて、そこの"刺身四点盛り"は、おまけがありますと称して、六点で出されるのが常だつた。仕入れが上手だつたのだらう、八百円くらゐだつた筈だが、値段以上のお刺身を食べることが出來たのは、何年も前の話である。余談終り。

 もつと安直な"おまかせ"なら、串焼きの類だらうか。はらみでもぼんじりでもせせりでも、タンでもレバでも葱でも獅子唐でも、何本かを纏めて註文し(詰り分量は自分で決めるのだな)、焼き方を"おまかせ"する方法がある。大体はたれか塩になるが、時に味噌を用ゐるお店もあつて、自慢と云ふのか自信の顕れか。何をどうするのか知らないが、色々と調へるのだらう。辛みが効いたり、甘みがあつたり、味噌自体も一種の摘みになる。味噌の話ではなかつた。

 バラエティに富む点だけに目を向ければ、肉と内臓と野菜と魚介がある串焼きの"おまかせ"は、中々莫迦に出来るものではない。塩やたれ、味噌にもそれぞれ味の相違があつて、組合せを含めるともしかして、天麩羅といい勝負が出來るのではないか知らとも思へてくるが、流石に関係無関係各位から、烈しく咜られるだらうから、こつちは取り下げる。取り下げつつ、あれこれを撰ぶのすら面倒で、且つ多少の我が儘を云へる程度のお客になつてゐたら

 「ここは三本。おまかせで」

と註文する手もあると思つた。品書きに"串何本おまかせ"とあれば一ばん樂なのは云ふまでもない。それで出てきたのが画像。やや下品に寄つた…とはこの際、褒め言葉…濃いめのたれと味噌は酎ハイに似合ひの味であつた。かういふのだつたら、外ツ國の客人を招いて

 「オマカセを奢るよ」

と驚かしても、お財布の心配はきつとしなくて済む。まことに安上りな円盤と云つていい。

791 赤い星

 暑い時節に呑む麦酒は壜詰が望ましい。

 生麦酒だと一ぺんに干して仕舞つて、いやそれも喉の快感ではあるのだけれど、酷暑に適ふのは壜詰だと思ふ。好みの話だから、気にしなくても宜しい。

 併し最近になつて思ふのは、わたしが好きで、且つ壜麦酒を置いてゐる店は、サッポロを用意してゐることが多い。それも高い確率で赤ラベル。生麦酒を黑で出し、壜は赤といふ隙の無い布陣。嬉しいねえ。キリンもその気になれば、ラガーと一番搾りで出來る筈なのに(アサヒとサントリーは無理がある)、見たことがない。

 他社に文句は附けまい。

 大事なのは壜麦酒…赤ラベル…正しくはサッポロ・ラガーがうまいことで、麦酒純粋令の信奉者なら

 「不純物を用ゐた呑みものを、麦酒とは呼び難い」

きつと渋い顔をするだらうけれど、そこまではこつちの知らないことである。

 小ぶりのコップがいい。

 注いでは呑み。

 呑んでは注ぎ。

 その繰返しが、どう云へばいいか、リズムを刻んでくれるのだと、ここでは纏めておかう。この場合、スーパードライやオリオンのやうにかるいのは宜しくない。ああいふのは背の高いコップに注いだのを、くーツと呑むのが正しい。一面を見るなら、背の高いコップなりジョッキなりの麦酒を、ひと息に干すには、喉から胃袋にかけて、それだけの量で、炭酸混りの液体を受け入れるだけの余裕がなくてはならず

 「ああ成る程、丸太はもう、その余裕を持てない…詰りリズムを刻めなくなつた、さういふことだな」

ジョッキのリズムに関しては認めざるを得ない。認めはするが壜麦酒…赤ラベル…正しくはサッポロ・ラガーのリズムだつて惡かあない。赤ラベルと小さなコップでリズムを作りながら、ハムカツなぞ囓つたり、烏賊フライや焼き鯖を摘むのはいい気分である。

 「何と云ふか、貧な感じが拭へないねえ」

などと笑つてはいけない。わざわざ壜麦酒、然も赤ラベルを用意するくらゐの呑み屋であれば、一枚のハムカツが十分に美味いのは、簡単に見当がつく。サッポロが品書きを手伝つてゐるとは思はないが、勝手な繋がりを聯想するのも、またひとつの摘みになる。

790 本の話~第壱號カルテ

『カメラバカにつける薬』

飯田ともき/インプレス

 漫画である。この手帖には"漫画の切れ端"といふカテゴリもあるのだが、あつちで取り上げるのは旧作だから、"本の話"で扱ふことにする。

 知る限り、同人誌發。今はデジカメWatchといふWebサイト、それから紙媒体の『デジタルカメラマガジン』に掲載されてゐる。わたしはデジカメWatch版で知つた。金曜日の更新は毎週の樂みである。

 この漫画は雑誌からの抜粋と、新たな描き起こしで構成されてゐる。カメラやレンズの新製品を話題にしてあると、どうしたつて時間の経過でその話題が古びてしまふと判断したかららしい。わたしが編輯者だつたら、寧ろその時間差を面白がるんだが、それは云ふまい。

 

 患者と医者(患者からは医者どのと呼ばれてゐる)とナースさんを主な登場人物に、カメラ内科を主な舞台に幾つかのエピソードが、一応は患者の入院から退院(し損ねた)まで、断片的に描かれる。

 云つておくと、シリアスを期待しては、酷い目にあふ。何せカメラ内科…カメラ外科があつたら、修理と改造のどちらになるのか知ら…だからね、どこか何か、可笑しい。作者はその辺をはつきりさせる為だらう、男性と思しきキャラクタは、(主役衆の一端を担ふ患者も含めて)文字通り、記号化され、そのカメラ・オタクつぷりも記号的に誇張されてゐて、何といふか、身につまされる。

 

 先に触れた通り、刊行時点での最新機種や現行機種の名前は慎重に省かれてゐる。固有名詞に広げても、はつきり書かれたのはフジのコンパクト・デジタル・カメラ(但し旧式)を例外に、ズミクロンとエルノスター、カール・ツァイスニコン。後はベルテレ博士くらゐか。

 またデジカメWatch版ではお馴染みのキャラクタたちも明確には登場しない。"ライカ警察"と"ツァイス信者"は(明言されないまま)、ナースさんの友人として登場するが、おりんさんも松下ルミ子もニッコールちやんもシグマの教祖もペンタキシアン兄弟も姿が見えないのは(本に纏めるには、権利だとか何だとかのややこしい問題があるんだらうな)、矢張り残念な気分にはなる。

 

 尤もこの本とデジカメWatch版とデジタルカメラマガジン版、更に目を通してゐない同人誌版は、同じ"カメラバカにつける薬"でも、ちがふカメラ内科で処方される…いはばパラレルな藥の可能性はあつて(デジカメWatch版では"患者"の奥さんが姿を見せた回があつた)、マルチバースにそれぞれのカメラ内科が在り、"患者"と医者どのとナースさんがゐると思へば納得もゆく。

 

 今後きつと第二巻の企劃も進むだらうから、その日の為に幾つか註文を附けておく。

 

 ・連載版をそのまま残してもらひたい。

 ・掲載時期の新機種などの話題を入れてもらひたい。

 ・デジカメWatch版、ことにシリーズ形式になつたのを再掲させれば、なほ望ましい。

 

ことに大事なのは二番めの條件。先づ周辺の事情を入れ込めば、カメラとレンズを軸にしたクロニクル…訂正、治療記録が成り立つ。更におれはあの時、買ひそびれたと呟くとか、手元のカメラやレンズが案外古いのに驚いたりとか、手に入れて直ぐにデートで大活躍したのを懐かしむとか、讀者それぞれのクロニクルが、マルチバース…訂正、カメラ内科病棟の膨大なカルテ群を造ることにもなる。この本はその第壱號カルテと呼ばれるだらう。

789 冷し中華の荒涼を

 冷し中華の文字を見ると昂奮する。

 暑い時季は何しろ食慾が出ない。だから、素麺や冷や麦やざる蕎麦でなければ、豆腐が主食になる。併し素麺冷や麦ざる蕎麦豆腐では、栄養といふか何といふか、さういふのが乏しい。食慾が出ないのと、空腹を感じるかどうかは別で、そんな時にわたしを昂奮させるのが冷し中華なんである。

 

 酸つぱいたれ。

 ハム(贅沢していいなら煮豚)

 木耳。

 胡瓜。

 錦糸玉子。

 

 ハムと木耳と胡瓜は、錦糸玉子と同じくらゐの細さに切るのが望ましい。

 錦糸玉子の細切りは麺と同じくらゐが望ましい。

 要するに冷たくて細くて酸つぱいのが望ましい。

 

 我ながら實に判りやすい。併し判りやすさと、旨いかまづいかも別であつて、冷し中華はわたしを昂奮させるくらゐにはうまい。と断じるのは實のところ不正確か。マーケットやコンビニエンス・ストアで賣つてあるのは大体まづい。まづいが礼を失する云ひ方なら、うまくない。

 中華料理屋で食べなくちやあ、と思つた讀者諸嬢諸氏に念を押すと、冷し中華は日本生れの麺料理である。冷製スパゲッティもさうだが、我われの直接のご先祖は、外ツ國由來の麺料理を見たら

 「取敢ず冷してみる」

ことに何やら執着があつたらしい。面倒だから、冷し中華史の遡りや振り返りはしないが、紆余曲折を経て、一応は完成と呼べる程度にはなつてゐるから、一定の愛好者(たとへばわたしのやうに)はゐると考へて間違ひはあるまい。

 併し老舗は勿論、専門店名店と称される名前も、不思議なほど耳にしない。冷し中華の歴史の淺さを思へば、老舗が存在しないのは不思議でないとして

 「冷し中華の眞髄を求め續けてゐます」

と云ふひとも、ゐないか、ゐても少数派だらう。冷し中華に打ち込む職人気質の人物なんて、想像をするのが先づ、六つかしいもの。

 

 さういふ気質…冷し中華に熱心な…の持ち主ではない亭主の手になるのが、画像の冷し中華。品書きには"豚しやぶと黑酢の"と銘打つてあつた。なので冒頭に挙げた冷し中華のイメージとはちがふ。"豚しやぶ"を押し出してゐるから、その辺に文句は云ふまい。

 うでた豚肉の上に白髪葱。

 レタース。

 うで玉子(半熟)

 プチ・トマト。

 「混ぜて、食べてください」

と云はれたので、素直に従つたら、深めの器の底に黑酢のたれか忍ばせてあつた。成る程さういふことね。得心して食べた。も少し香味野菜が利いてもいいかと思つたが、この店がおつとりした味附けを得意にしてゐるのは知つてゐる。

 そこまではいい。

 その後がよくない…のは、この店に限つた話でなく、冷し中華全般に云へる。器の様が、食べながら渾沌としてくる。騎馬人に荒らされた憐れな城郭でなければ合戰の後の荒涼とした平原が聯想される。琵琶の音でも聞こえたら、祇園精舎ノ鐘ノ聲と呟いたかも知れない。

 冒頭に書いた昂奮はいづこへ。

 嘆息したくもなつてきて、思ふに混ぜる前提が荒涼の引き金ではないか。画像の冷し中華だつて、上からたれを灌ぎかける式の提供なら、折角の盛りつけを(大きくは)崩さずにすんだらう。見た目より量があつたのには驚いたが、黑酢のたれも豚肉の仕立ても宜しく、麺の加減も矢張り宜しい。それが荒涼になるのは勿体無い。かうなると志高い調理人に

 「冷たくて酸つぱいソップで食べる中華麺」

を改めて作つてもらひたくなるのは、人情の当然であらう。冷し中華が荒涼でなく、涼やかになつた時、夏は豊かにきつとなる。