閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

789 冷し中華の荒涼を

 冷し中華の文字を見ると昂奮する。

 暑い時季は何しろ食慾が出ない。だから、素麺や冷や麦やざる蕎麦でなければ、豆腐が主食になる。併し素麺冷や麦ざる蕎麦豆腐では、栄養といふか何といふか、さういふのが乏しい。食慾が出ないのと、空腹を感じるかどうかは別で、そんな時にわたしを昂奮させるのが冷し中華なんである。

 

 酸つぱいたれ。

 ハム(贅沢していいなら煮豚)

 木耳。

 胡瓜。

 錦糸玉子。

 

 ハムと木耳と胡瓜は、錦糸玉子と同じくらゐの細さに切るのが望ましい。

 錦糸玉子の細切りは麺と同じくらゐが望ましい。

 要するに冷たくて細くて酸つぱいのが望ましい。

 

 我ながら實に判りやすい。併し判りやすさと、旨いかまづいかも別であつて、冷し中華はわたしを昂奮させるくらゐにはうまい。と断じるのは實のところ不正確か。マーケットやコンビニエンス・ストアで賣つてあるのは大体まづい。まづいが礼を失する云ひ方なら、うまくない。

 中華料理屋で食べなくちやあ、と思つた讀者諸嬢諸氏に念を押すと、冷し中華は日本生れの麺料理である。冷製スパゲッティもさうだが、我われの直接のご先祖は、外ツ國由來の麺料理を見たら

 「取敢ず冷してみる」

ことに何やら執着があつたらしい。面倒だから、冷し中華史の遡りや振り返りはしないが、紆余曲折を経て、一応は完成と呼べる程度にはなつてゐるから、一定の愛好者(たとへばわたしのやうに)はゐると考へて間違ひはあるまい。

 併し老舗は勿論、専門店名店と称される名前も、不思議なほど耳にしない。冷し中華の歴史の淺さを思へば、老舗が存在しないのは不思議でないとして

 「冷し中華の眞髄を求め續けてゐます」

と云ふひとも、ゐないか、ゐても少数派だらう。冷し中華に打ち込む職人気質の人物なんて、想像をするのが先づ、六つかしいもの。

 

 さういふ気質…冷し中華に熱心な…の持ち主ではない亭主の手になるのが、画像の冷し中華。品書きには"豚しやぶと黑酢の"と銘打つてあつた。なので冒頭に挙げた冷し中華のイメージとはちがふ。"豚しやぶ"を押し出してゐるから、その辺に文句は云ふまい。

 うでた豚肉の上に白髪葱。

 レタース。

 うで玉子(半熟)

 プチ・トマト。

 「混ぜて、食べてください」

と云はれたので、素直に従つたら、深めの器の底に黑酢のたれか忍ばせてあつた。成る程さういふことね。得心して食べた。も少し香味野菜が利いてもいいかと思つたが、この店がおつとりした味附けを得意にしてゐるのは知つてゐる。

 そこまではいい。

 その後がよくない…のは、この店に限つた話でなく、冷し中華全般に云へる。器の様が、食べながら渾沌としてくる。騎馬人に荒らされた憐れな城郭でなければ合戰の後の荒涼とした平原が聯想される。琵琶の音でも聞こえたら、祇園精舎ノ鐘ノ聲と呟いたかも知れない。

 冒頭に書いた昂奮はいづこへ。

 嘆息したくもなつてきて、思ふに混ぜる前提が荒涼の引き金ではないか。画像の冷し中華だつて、上からたれを灌ぎかける式の提供なら、折角の盛りつけを(大きくは)崩さずにすんだらう。見た目より量があつたのには驚いたが、黑酢のたれも豚肉の仕立ても宜しく、麺の加減も矢張り宜しい。それが荒涼になるのは勿体無い。かうなると志高い調理人に

 「冷たくて酸つぱいソップで食べる中華麺」

を改めて作つてもらひたくなるのは、人情の当然であらう。冷し中華が荒涼でなく、涼やかになつた時、夏は豊かにきつとなる。