閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

808 ふつん

 家に籠る生活は中々に面倒で、いや面倒とは正確さを欠く云ひ方かも知れず、徒歩五分で行ける範囲で、罐麦酒と煙草を買ふだけなのは、喜ばしくないなあと思つてゐる。別に好きで籠る生活になつたのではなく、さうしろと云はれたからさうなつたので、理不尽とはこんな時に使ふのが正しいのだらうか。大袈裟と笑ふ勿れ。

 理不尽は尤も世の中の常であるから、そこは何とか我慢をしてもいい。それが厭なら我慢しなくて済む程度にお財布のゆとりが必要になる。残念ながら今のところその望みが叶ふ見込みはなく、だつたら我慢せざるを得ない。そこの折合ひはついても、食事がまつたくいい加減になつたのはこまる。食パンでなければ惣菜パンや菓子パン、カップ麺の類、後は豆腐だの素麺だのチーズだのが精々なのは、我ながら如何なものかと思ふ。

 がんらいわたしは出不精である。

 ゆゑにお酒と煙草があれば、籠つてゐてもかまはない。

 さう思つてゐたのは事實だが、實際籠りきりになると、これはどうも、まづいらしい。無駄と感じ續けた卅年余りの會社への行き帰りは、公と私の切替へに必要な時間だつたのだらうと云ふと

 「いやそれは純然とした無駄な時間なんだけれど、どうしてまた判らんのかなあ」

首を捻るひとが出るやも知れず、捻られるとこちらも説得されさうにもなるのだが、染み込んだ習慣がかんたんに変るものではない。何を云ひたいのかと訊かれたら、家に籠り續けで少々苛立ちを感じたのですと応じたい。

 「だつたら出掛ければ済むぢやあないの」

と云はれても、週末に仕事を終へて、よいこらと立ち上るのは(冒頭に戻つて)面倒である。籠つて苛々してゐるのに、立つのが面倒と云ふのは、自分でもをかしいと思ふ。

 ある土曜日、洗濯ものを干してゐたら、囃子聲と笛の音が聞こえてきた。暫く聞いて、近所の神社の例大祭だと気がついた。この何年か、感染症の大流行で自粛してゐたのを

 「もう我慢しなくたつて、いいでせう」

御神輿を引つ張り出したらしい。それに気がついたら、こつちも我慢しなくていいかと思へてきた。御神輿とわたしの我慢だか苛々だかに関係がないのは改めるまでもないが、関係はなくても働くのが聯想である。よし行かう。

 行かうと決めたのはいいとして、次はどこに行くかといふ問題がある。食生活がいい加減な所為で、空腹を感じることはあつても食慾には繋つてをらず、詰らない。そこで

 (お摘みが旨いところがいい)

と狭めた。お摘みの部分がこの場合は大事になる。揚げもの焼きものの類は要らず(但し焙つた厚揚げは例外とする)、煮つけや酢のものが望ましい。さうすると何軒かある気に入りの呑み屋が絞り込めた。旨くてもしつつこいのは、お腹の気分に適はない。幾つかが候補に浮んだ中で、大正通の[よつてけ]がいいと思つた。

 念の為に云ふが、大正通も[よつてけ]も、この場で附けた仮の名前である。どこの何といふ店だと書いて、迷惑になりさうだと思ふほど、わたしは自惚れてゐない。仮の名前にしておく方が、気らくに書けさうだと考へたので、實際、[よつてけ]は気らくな呑み屋である。向ひにある小さな呑み屋の女将さんから

 「美味しいですよ」

と教はつたのが、足を踏み入れた切つ掛け。その女将さんの作る摘みは旨い。だつたら信用出來る。どこそこの何々屋は旨いよといふ話は、たれがそれを云つたかで信用の度合ひがえらくちがつてくる。余り踏み込むと、我が身に跳ね返るから、これくらゐにしておくけれども。

 そんなことより話は[よつてけ]で、切つ掛けを得て入つて確かに旨いと判つた。ただこの店にはひとつ欠点があつて、外からは開いているのかどうか、實に判りにくい。建て附けの惡い扉は、建て附けが惡いのにいつも閉つてゐる。ぢやあどうやつて開いてゐるかを確かめるのだと云へば、小さな格子窓があるから、灯りが零れてゐれば、やつてゐるんだなと思つていい。面倒である。併し[よつてけ]に行かうと思つた時点で、あすこのお摘み…といふより肴が浮び、浮ぶともうこれしかないとも思ふから仕方がない。仕方がないと云ふのは自分への理窟なのだが、それは(この稿では)些細な点なのだと云つておかう。

 建て附けの惡い扉と云つたけれど、ちよつとしたこつを掴めば、スムースに開けられなくもない。ひよつとすると、それを知つてゐるかどうかが

 (常聯かどうかのちがひなのか知ら)

と考へながら扉をあけると、がたがたしたから、おれはまだ駄目なのだなと思つた。当り前の話で、[よつてけ]に入るのは何箇月振りかなのだし、そもそもおれは常聯ではない。

 ところで[よつてけ]を仕切るのは、ナノさん(仮名)といふふくよかな美人で、がたぴし扉を開けたおれを覚えてくれてゐた。尤もそのナノさんからいきなり

 「なーんだ。死んだかと思つて心配してゐたのに」

と云はれた。先客のお姉さん(おれより半年くらゐ、誕生日が早いのだ。彼女もまた、ふくよかな美人である)も素早く

 「生きててよかつたね」

気遣ひと揶揄ひをうまいこと混ぜたなあ。感心してから、サッポロの赤ラベルを取り出し(どんな事情か、冷藏庫がカウンタのお客側にあるのだ)

 「ナノさんも、一ぱい呑みますか」

 「有難う」

応じるより早くコップを突き出してきたから、躊躇の無さに大笑ひした。乾盃。實にうまい。麦酒は矢つ張り、かうでなくちやあいけない。

 忘れてゐた。[よつてけ]はカウンタ式の立呑屋で、奥手にふたつ、小さな卓がある。あはせて十五人とか入ると、ぎちぎちな感じになると云へば、ごく狭いのだなと判つてもらへると思ふ。そのカウンタには大振りのお鉢が並んで、それぞれのお鉢には煮ものやら炒めもの、酢漬けに和へものにお漬けものが入つてゐて、三種を撰べる。いはゆる"お通し"なのだが、お摘みも兼ねてゐるから、気に入りがあれば追加も出來る。運がよければおにぎりもあつて、但しこちらのお代は別になる。鯛のあらで出汁を取つて、茸をふんだんに使つたりするのだもの、すりやあ別料金が当然である。

 麦酒をもう一ぱい呑んで、さてお通しだかお摘みだか、何を撰ばうかと考へた。ここは慎重にならざるを得ない。お腹の具合は勿論、赤ラベルの後に何を呑むかも考慮しなくてはならない。先づ胡瓜の酢漬けは慾しい。それから茄子をさつと焚いたのは決りとして、玉子焼きをどうするか。おれは東京風と云へばいいのか、あまい玉子焼きがきらひ(死刑になるなら溶き卵での溺死がいいと思ふおれだが、砂糖だかを多用したあまい玉子焼きだけは認め難い)なので、ナノさんに

 「これ(即ち玉子焼き)、あまい仕立てですか」

 「さうでもないと思ふけれど」

そこへお姉さんが、美味しく出來てゐるよと念押しをしてくれて、彼女はあまいかさうでないかに触れなかつたが、このお店で呑み喰ひを樂めるひとだもの、信用をしていい。さういふ次第で三種目は玉子焼きに決めた。

 最初に胡瓜。唐辛子と胡麻油が効果的で宜しい。白胡麻を散らすのもいいか思つたが、くどくなるかも知れない。それから茄子をひと摘み。おれが茄子との距離を縮めたのは、ほんの二年か三年か前からなので、批評は控へる。まづいと判つてゐたら、自分では撰ばないとは云つておかう。この辺りで赤ラベルを呑み干した。

 「日本酒?」

ナノさんが目敏く聲を掛けてきた。確かにこの三品ならお酒に似合ふ。冷藏庫を覗くと"亀齢"…信州長野のうまい銘…があつた。[よつてけ]ではお酒を自分でそそぐ慣はしで、コップの縁ぎりぎりまで入れていいことになつてゐるが、八分目くらゐで無くなつた。かういふこともあるさ、偶にはね。

 「空になりましたよ」

 「そんならお代りを沢山、入れていいですよう」

 お代りが前提になつてゐるらしい。苦笑しながら(併しお代りをしない、とは云はない)呑んだ"亀齢"はおれ好みの穏やかな味はひ。もう一ぺん茄子を摘んでから、玉子焼き。惡くない。肴ならもちつと、塩を効かすか、しらす干しを足してもよかつたか。これは旨いものが、口に適ふか適はないかの範疇だから、念を押しておく。

 いつの間にやらお客が増えてゐる。名前は知らない、顔は知つてゐる顔があつて、お互ひ目でかるく會釈をする。この辺の距離の取り方が、狭い立呑屋の面白みと面倒さで、そんなのは気にしなくたつて、かまはんだらうさと思ふひとを否定する気にはならないにしても、その微妙さを(面白いか面倒かは別に)樂めないのは、勿体無いなあとは思ふ。呑み屋に何を求めるか、それぞれ異なるのは当然なのだが、立呑屋では"一匹狼の集団"のやうになる時間が何とも愉快だとおれには思へて、それを樂むにのに目配せは使へる技術であり作法ではなからうか。

 などと考へたのではなく、ざはざはしてきた雰囲気も肴ににしてゐたら、"亀齢"を空けてしまつた。ナノさんの予告通りにお代りをする。さうしたら秋田の"角右衛門"といふ銘が目に入つた。知らない銘柄だけれど、秋田なら間違ひはあるまいと決めて

 「ナノさん、"角右衛門"をもらひますよ」

 「呑んだことがないから、試飲をしたい」

試飲はこつちの勘定ではない。今度は自分のコップの縁ぎりぎり一杯まで注いでから、口で迎へにいつた。"亀齢"よりすすどく、濃厚さは感じない。すつきり系統なのだなと思つたら、ナノさんはからいと眉を顰めてゐた。辛くちではないと思ふんだが、彼女とおれの舌のちがひだから仕方がない。かういふ時は

 「これは辛いんではなくてね」

などえらさうなことは云はず、そんなものかなあと曖昧に笑ふのが正しい。

 入口に近い場所で呑んでゐたのに、気がついたら奥の方に立つてゐた。詰りお客がまた増えてゐるからで、繁盛は好もしい。お姉さんは顔馴染みと覚しい常聯さんと喋つてゐる。おれはおれで、エスコさんといふ美人と

 「一ぺん、お會ひしましたでせうか」

 「ええ覚えてゐますよ」

喋り始めてゐて、ナノさんはナノさんで、賑やかな笑ひ聲をたてながらお客をあしらつてゐる。この渾沌具合が宜しく、また危なくもある。お酒でなく、その場の雰囲気に醉ひ出してゐるからで、身を任せるとさてどうなるか。過去の経験で云へば、記憶がふつんと途切れた筈だから判然としない。さうなる前にお勘定を済ましておかう。

 そこまで考へたのは確かなのだが、そのお勘定が幾らだつたものか、今どうしても思ひ出せない。

807 本の話~星々の王國へ

『スター・キング』

エドモンド・ハミルトン(著)/井上一夫(訳)/創元推理文庫

 復員兵のジョン・ゴードンは、ニュー・ヨークの保険會社に勤めてゐる。勇敢なパイロットだつたかれは、ある夜、眠りにつきかけた時、自分の名を呼ぶ聲を聞く。

 

 ザース・アーン。中央銀河系帝國の第二王子である。政治には興味を持たない優れた科學者であり…ジョン・ゴードンに呼びかけた人物はかれであつた。

 

 両者を隔てるのは廿万年といふ時間。

 その想像も六づかしい隔絶…ちなみに云ふ。現代から廿万年を遡ると、ホモ・サピエンスが出現したくらゐの時期になる…を飛び越せたか。ザース・アーンが云ふには

 「いかなる物質も時間を飛ぶことはできない。しかし、思考は物質ではない。思考は時間を飛ぶことができるのだ。きみの心だって、きみがなにかを思いだそうとするときは、いつもちょっと過去に旅している」

からださうで、少しポエティックな感じもする。

 

 さういふ根拠に諸々の事情が重なつて、貧しく無名の復員兵、ジョン・ゴードンは、恒星間帝國の王子、ザース・アーンと、思考と肉体を交換する。

 廿万年後の大帝國は併し、ショール・カンが率ゐる暗黑星雲同盟の巧妙な策略で、密かな危機を迎へてゐた。陰謀に巻き込まれたゴードンに、ピンチは次々と襲ひ、かれは知恵と勇気、そしてちよつとした幸運にも助けられ、それらを切り抜ける。"ザース・アーンの"婚約者(但し政略婚らしい)であるリアンナ王女と共に。

 かれの、中央銀河系帝國の運命や、如何に。

 

 ハミルトンは『キャプテン・フューチャー』や『スターウルフ』で、我われを熱狂させた小説家である。現在の目で見れば、構成や描冩は些か古めかしいが、どつしりと安定し、最初から最後まで不安なく讀み進められる。

 さうさう。"世界の破壊者"との異名を奉られたこの小説家(短篇『フェッセンデンの宇宙』が象徴的だと思へる)は、本作でもその趣向を忘れず、ディスラプターといふ二千年前にたつた一度、使はれた超兵器を用意してゐる。その威力たるや…いやそこまでは触れまい。今から探すのはちつと、面倒だらうが(手元にあるのは昭和四十四年初版。定価百七十円のやつを古本屋で百円で手に入れた)、巡りあへたら買つて損はしない。クラッシックな宇宙冒険活劇を満喫出來る。

806 漫画の切れ端~ライム博士の12ヶ月

 記憶に残る旧い漫画の話。

 

 正直に云ふと、記憶には殆ど残つてゐない。

 

 宇宙人の船から落つこちた(らしい)ロボットが、ライム博士の庭に転がり…いや墜落したところから、話は始まる。

 始まるといつたつて、劇的なことは起らない。最後まで名前のはつきりしないロボットは、壊れてゐるのか最初からぽんこつなのか、傍若無人、我儘勝手なままで、徹頭徹尾、善良なライム博士はそれに振り回される。

 それでもロボットがゐる日々が当り前になつたある日、宇宙人がロボットを回収にやつてくる。どうも宇宙人にも事情があるらしいが、そこは曖昧なままである。ロボットを取り戻す時、ライム博士のロボットに纏はる記憶も消したから、その辺はちやんとしてゐる。

 併しロボットは自分の意思(なのだらう)で宇宙船から逃げ出す。宇宙人は見て見ぬふりをする。綿密なのかいい加減なのか。ロボットは再びあの庭に降り立ち、記憶を消された筈のライム博士は、迷子の仔犬を迎へるやうな、当り前の態度でロボットを受け入れる。

 

 ああ、これはドラえもんのファンタシー版なのだ。

 ぜんたいに淡くちすぎるけれど、それを瑕疵と呼ぶには当らない。妙に忘れ難くつて、映像にすれば…よほど丁寧に作る必要はあるにはしても…、寧ろアメリカでうけるんではないだらうか。

 

 さういふ短篇聯作だつたと思ふが、自信は無い。

805 好きな唄の話~Zean Zean

 昭和の終り…千九百八十年代の後半、ほんの一瞬、併し強烈な輝きを見せた…PINKはさういふバンドだつた。

 わたしと近い年代の小父さん小母さんはきつと、ソニーが提供した『Music TV』の洗礼を受けた筈で、そのオープニングに採用されたのが、この唄…正確にはその一部分だつたと記憶してゐる。

 ロックといふか、ポップスといふか。

 

 兎にも角にも巧い。

 

 としか云ひやうがない。

 尤も今、この唄を改めて聴くとPINKは、恐ろしく高度な技術を誇る"個人の集団"だつたのだなあと思へてくる。わたしの印象だから、信じられると困るのだが、最終的に空中分解したのも無理はない。福岡ユタカホッピー神山とスティーブ衛藤が長く、共同で作業出來るものか。

 發表したアルバムはたつたの五枚。

 併しその鮮烈な音は卅数年を経た令和になつても、未だ耳の底にこびりついてゐる。この唄は確かに、その始まりを高く宣言してゐた。さう考へた時、『Music TV』のオープニングに採られたのは、象徴的であつたと云つてもいい。

804 曖昧映画館~エイリアン2

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 原題は確か『ALIENS』だつたと思ふ。複数形の"S"がポイントで、英語圏の人びとはこの一文字で

 「今回はあのエイリアンが二体以上、出るのだな」

と解つたのだらう。日本で『エイリアンズ』のタイトルだつたら、へんに恰好をつけた野球のチームにしか思へない。

 簡単に云つておくと、前作は"閉ざされた宇宙船"の中、"姿の見えない怪物"に翻弄される少数の人間といふ、古典的なホラー、或はサスペンスの形式だつた。時系列とし直接の續篇になるこの映画を撮つたジェイムズ・キャメロンは、どうやらそれを引つくり返すところから、發想を広げたらしい。

 広大な空間。

 十分な(筈の)武装した集団。

 何より兇暴な怪物の群れ。

 前作を監督したリドリー・スコットが惜しみに惜しんだエイリアンの姿は、お腹がくちくなるくらゐ、露骨に立て續けにあらはれ、人間は数が多い分、あつさりと死んでゆく。その絶望的な状況で、シガニー・ウィーバー演じるエレン・リプリーは、同じキャメロンの『ターミネーター2』で、リンダ・ハミルトンが演じたサラ・コナーのやうに、タフであり續ける。監督好みのキャラクタなのだらう。尤もエレンは、更なる續篇の『エイリアン3』で

 「(ここで生きるには)誰とファックすればいいのか知ら」

と云ひ放つ女になつてしまつたけれど。

 余談はさて措き。

 映画は如何にもアメリカ的に進む。重厚な兵器。派手な爆發と崩壊する建物。内輪揉め。自己犠牲。偽りの勝利からの大逆転。そして脱出。判りやすい娯樂アクションの要素がすべてはふり込まれ、そこにエイリアンといふ訳のわからない怪物がわらわら湧いてゐて…なーんだ、この映画つて、S.F.の皮を被つたゾンビーものぢやあないか。

 などと莫迦にしたものではない。観客が何を望むか、キャメロンは心得てゐて、昂奮も恐怖も驚愕も、パズルのピースを当て嵌めるやうに、ぴたりとあはせてくるから嬉しくなつてくる。秋の長雨の夜、ヰスキィを嘗めながら観るのに、よく似合ふ一本と云つておかう。