家に籠る生活は中々に面倒で、いや面倒とは正確さを欠く云ひ方かも知れず、徒歩五分で行ける範囲で、罐麦酒と煙草を買ふだけなのは、喜ばしくないなあと思つてゐる。別に好きで籠る生活になつたのではなく、さうしろと云はれたからさうなつたので、理不尽とはこんな時に使ふのが正しいのだらうか。大袈裟と笑ふ勿れ。
理不尽は尤も世の中の常であるから、そこは何とか我慢をしてもいい。それが厭なら我慢しなくて済む程度にお財布のゆとりが必要になる。残念ながら今のところその望みが叶ふ見込みはなく、だつたら我慢せざるを得ない。そこの折合ひはついても、食事がまつたくいい加減になつたのはこまる。食パンでなければ惣菜パンや菓子パン、カップ麺の類、後は豆腐だの素麺だのチーズだのが精々なのは、我ながら如何なものかと思ふ。
がんらいわたしは出不精である。
ゆゑにお酒と煙草があれば、籠つてゐてもかまはない。
さう思つてゐたのは事實だが、實際籠りきりになると、これはどうも、まづいらしい。無駄と感じ續けた卅年余りの會社への行き帰りは、公と私の切替へに必要な時間だつたのだらうと云ふと
「いやそれは純然とした無駄な時間なんだけれど、どうしてまた判らんのかなあ」
首を捻るひとが出るやも知れず、捻られるとこちらも説得されさうにもなるのだが、染み込んだ習慣がかんたんに変るものではない。何を云ひたいのかと訊かれたら、家に籠り續けで少々苛立ちを感じたのですと応じたい。
「だつたら出掛ければ済むぢやあないの」
と云はれても、週末に仕事を終へて、よいこらと立ち上るのは(冒頭に戻つて)面倒である。籠つて苛々してゐるのに、立つのが面倒と云ふのは、自分でもをかしいと思ふ。
ある土曜日、洗濯ものを干してゐたら、囃子聲と笛の音が聞こえてきた。暫く聞いて、近所の神社の例大祭だと気がついた。この何年か、感染症の大流行で自粛してゐたのを
「もう我慢しなくたつて、いいでせう」
御神輿を引つ張り出したらしい。それに気がついたら、こつちも我慢しなくていいかと思へてきた。御神輿とわたしの我慢だか苛々だかに関係がないのは改めるまでもないが、関係はなくても働くのが聯想である。よし行かう。
行かうと決めたのはいいとして、次はどこに行くかといふ問題がある。食生活がいい加減な所為で、空腹を感じることはあつても食慾には繋つてをらず、詰らない。そこで
(お摘みが旨いところがいい)
と狭めた。お摘みの部分がこの場合は大事になる。揚げもの焼きものの類は要らず(但し焙つた厚揚げは例外とする)、煮つけや酢のものが望ましい。さうすると何軒かある気に入りの呑み屋が絞り込めた。旨くてもしつつこいのは、お腹の気分に適はない。幾つかが候補に浮んだ中で、大正通の[よつてけ]がいいと思つた。
念の為に云ふが、大正通も[よつてけ]も、この場で附けた仮の名前である。どこの何といふ店だと書いて、迷惑になりさうだと思ふほど、わたしは自惚れてゐない。仮の名前にしておく方が、気らくに書けさうだと考へたので、實際、[よつてけ]は気らくな呑み屋である。向ひにある小さな呑み屋の女将さんから
「美味しいですよ」
と教はつたのが、足を踏み入れた切つ掛け。その女将さんの作る摘みは旨い。だつたら信用出來る。どこそこの何々屋は旨いよといふ話は、たれがそれを云つたかで信用の度合ひがえらくちがつてくる。余り踏み込むと、我が身に跳ね返るから、これくらゐにしておくけれども。
そんなことより話は[よつてけ]で、切つ掛けを得て入つて確かに旨いと判つた。ただこの店にはひとつ欠点があつて、外からは開いているのかどうか、實に判りにくい。建て附けの惡い扉は、建て附けが惡いのにいつも閉つてゐる。ぢやあどうやつて開いてゐるかを確かめるのだと云へば、小さな格子窓があるから、灯りが零れてゐれば、やつてゐるんだなと思つていい。面倒である。併し[よつてけ]に行かうと思つた時点で、あすこのお摘み…といふより肴が浮び、浮ぶともうこれしかないとも思ふから仕方がない。仕方がないと云ふのは自分への理窟なのだが、それは(この稿では)些細な点なのだと云つておかう。
建て附けの惡い扉と云つたけれど、ちよつとしたこつを掴めば、スムースに開けられなくもない。ひよつとすると、それを知つてゐるかどうかが
(常聯かどうかのちがひなのか知ら)
と考へながら扉をあけると、がたがたしたから、おれはまだ駄目なのだなと思つた。当り前の話で、[よつてけ]に入るのは何箇月振りかなのだし、そもそもおれは常聯ではない。
ところで[よつてけ]を仕切るのは、ナノさん(仮名)といふふくよかな美人で、がたぴし扉を開けたおれを覚えてくれてゐた。尤もそのナノさんからいきなり
「なーんだ。死んだかと思つて心配してゐたのに」
と云はれた。先客のお姉さん(おれより半年くらゐ、誕生日が早いのだ。彼女もまた、ふくよかな美人である)も素早く
「生きててよかつたね」
気遣ひと揶揄ひをうまいこと混ぜたなあ。感心してから、サッポロの赤ラベルを取り出し(どんな事情か、冷藏庫がカウンタのお客側にあるのだ)
「ナノさんも、一ぱい呑みますか」
「有難う」
応じるより早くコップを突き出してきたから、躊躇の無さに大笑ひした。乾盃。實にうまい。麦酒は矢つ張り、かうでなくちやあいけない。
忘れてゐた。[よつてけ]はカウンタ式の立呑屋で、奥手にふたつ、小さな卓がある。あはせて十五人とか入ると、ぎちぎちな感じになると云へば、ごく狭いのだなと判つてもらへると思ふ。そのカウンタには大振りのお鉢が並んで、それぞれのお鉢には煮ものやら炒めもの、酢漬けに和へものにお漬けものが入つてゐて、三種を撰べる。いはゆる"お通し"なのだが、お摘みも兼ねてゐるから、気に入りがあれば追加も出來る。運がよければおにぎりもあつて、但しこちらのお代は別になる。鯛のあらで出汁を取つて、茸をふんだんに使つたりするのだもの、すりやあ別料金が当然である。
麦酒をもう一ぱい呑んで、さてお通しだかお摘みだか、何を撰ばうかと考へた。ここは慎重にならざるを得ない。お腹の具合は勿論、赤ラベルの後に何を呑むかも考慮しなくてはならない。先づ胡瓜の酢漬けは慾しい。それから茄子をさつと焚いたのは決りとして、玉子焼きをどうするか。おれは東京風と云へばいいのか、あまい玉子焼きがきらひ(死刑になるなら溶き卵での溺死がいいと思ふおれだが、砂糖だかを多用したあまい玉子焼きだけは認め難い)なので、ナノさんに
「これ(即ち玉子焼き)、あまい仕立てですか」
「さうでもないと思ふけれど」
そこへお姉さんが、美味しく出來てゐるよと念押しをしてくれて、彼女はあまいかさうでないかに触れなかつたが、このお店で呑み喰ひを樂めるひとだもの、信用をしていい。さういふ次第で三種目は玉子焼きに決めた。
最初に胡瓜。唐辛子と胡麻油が効果的で宜しい。白胡麻を散らすのもいいか思つたが、くどくなるかも知れない。それから茄子をひと摘み。おれが茄子との距離を縮めたのは、ほんの二年か三年か前からなので、批評は控へる。まづいと判つてゐたら、自分では撰ばないとは云つておかう。この辺りで赤ラベルを呑み干した。
「日本酒?」
ナノさんが目敏く聲を掛けてきた。確かにこの三品ならお酒に似合ふ。冷藏庫を覗くと"亀齢"…信州長野のうまい銘…があつた。[よつてけ]ではお酒を自分でそそぐ慣はしで、コップの縁ぎりぎりまで入れていいことになつてゐるが、八分目くらゐで無くなつた。かういふこともあるさ、偶にはね。
「空になりましたよ」
「そんならお代りを沢山、入れていいですよう」
お代りが前提になつてゐるらしい。苦笑しながら(併しお代りをしない、とは云はない)呑んだ"亀齢"はおれ好みの穏やかな味はひ。もう一ぺん茄子を摘んでから、玉子焼き。惡くない。肴ならもちつと、塩を効かすか、しらす干しを足してもよかつたか。これは旨いものが、口に適ふか適はないかの範疇だから、念を押しておく。
いつの間にやらお客が増えてゐる。名前は知らない、顔は知つてゐる顔があつて、お互ひ目でかるく會釈をする。この辺の距離の取り方が、狭い立呑屋の面白みと面倒さで、そんなのは気にしなくたつて、かまはんだらうさと思ふひとを否定する気にはならないにしても、その微妙さを(面白いか面倒かは別に)樂めないのは、勿体無いなあとは思ふ。呑み屋に何を求めるか、それぞれ異なるのは当然なのだが、立呑屋では"一匹狼の集団"のやうになる時間が何とも愉快だとおれには思へて、それを樂むにのに目配せは使へる技術であり作法ではなからうか。
などと考へたのではなく、ざはざはしてきた雰囲気も肴ににしてゐたら、"亀齢"を空けてしまつた。ナノさんの予告通りにお代りをする。さうしたら秋田の"角右衛門"といふ銘が目に入つた。知らない銘柄だけれど、秋田なら間違ひはあるまいと決めて
「ナノさん、"角右衛門"をもらひますよ」
「呑んだことがないから、試飲をしたい」
試飲はこつちの勘定ではない。今度は自分のコップの縁ぎりぎり一杯まで注いでから、口で迎へにいつた。"亀齢"よりすすどく、濃厚さは感じない。すつきり系統なのだなと思つたら、ナノさんはからいと眉を顰めてゐた。辛くちではないと思ふんだが、彼女とおれの舌のちがひだから仕方がない。かういふ時は
「これは辛いんではなくてね」
などえらさうなことは云はず、そんなものかなあと曖昧に笑ふのが正しい。
入口に近い場所で呑んでゐたのに、気がついたら奥の方に立つてゐた。詰りお客がまた増えてゐるからで、繁盛は好もしい。お姉さんは顔馴染みと覚しい常聯さんと喋つてゐる。おれはおれで、エスコさんといふ美人と
「一ぺん、お會ひしましたでせうか」
「ええ覚えてゐますよ」
喋り始めてゐて、ナノさんはナノさんで、賑やかな笑ひ聲をたてながらお客をあしらつてゐる。この渾沌具合が宜しく、また危なくもある。お酒でなく、その場の雰囲気に醉ひ出してゐるからで、身を任せるとさてどうなるか。過去の経験で云へば、記憶がふつんと途切れた筈だから判然としない。さうなる前にお勘定を済ましておかう。
そこまで考へたのは確かなのだが、そのお勘定が幾らだつたものか、今どうしても思ひ出せない。