閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

333 朝酒玉子焼

 何べんか書いた記憶があるけれど、気にせずに(また)書く。丸谷才一の“小説作法”といふ随筆で讀んだ話。イアン・フレミングが書いた『スリラー小説作法』には

 

「われわれはみな普通晝食とか夕食に取るような食事より、朝食の食べ物の方を好む」

 

と書かれてゐて、その箇所を引いた丸谷は、樂しさうに驚いてゐる。念の為に云ふと、イアン・フレミングは小説家…寧ろ映画で有名なジェイムズ・ボンドの産みの親である。“ウォトカ・マティーニを。ステアせず、シェイクで”といふ註文の方が、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には解り易いか知ら。

 マティーニはむやみにきつい。ジンとヴェルモットのステアが基本なのだから当然だが、これだと味はへる前に醉ひさうだと不安になる。ましてジンでなくウォトカを使はれた日には、東洋の繊細な肝臓への負担が大きくなりすぎる。ボンド・スタイルのマティーニはフレミングの考案らしいが、あちらの小説家はタフな肝臓を持つて引用してないと、商賣にならないのだらうか。

 併しカクテルは夜の飲みものである。朝から飲むのもいけなくもなからうが(カクテルではないけれど『深夜プラスワン』でカントンがフェイ将軍からシャンパンを振舞はれたのは朝だつた。但し将軍は“チベットの太陽は既に中天にある”と宣つてゐた)、朝陽に照らされる中庭を眺めながら、ステアでもシェイクでもマティーニを飲んで、旨いのかどうか。さういふ飲みものを好んだ(だらう)小説家が、食べものに関しては朝食に魅力を感じてゐた(らしい)のは愉快な感じがする。

 

 では何故、フレミングは朝食的な食べものに惹かれたのか。その辺りの事情は前述の“小説作法”で丸谷が

 

「海苔とか、卵焼きとか(中略)朝飯を食べてるくだりを讀むと、ちよつと興奮して出る」

「わたしに言はせると、朝食のおかずといふのは、酒の肴に向いてゐるからだと思ふ」

 

と指摘して、更に干物や生揚げ、山芋を挙げる。具体的で、確かにかういふ肴があれば、寝床から這ひ出て直ぐ、銚釐を用意するかと思はされもする。説得力に富んだ文章の好例と云ふべきか。

 朝酒に似合ふのはお酒と葡萄酒、少し落ちて麦酒が續く。何を根拠に断ずるかと云ふと、肴…つまみがあつて本領を発揮するかどうかの判定で、かう云へば峻厳な讀者諸嬢諸氏からも、異論は出てこないと思はれる。焼酎や泡盛、ヰスキィ、それからマティーニで、かうはゆかないのは、それらが比較的、食べものといふ好もしい條件から離れて…良い惡いではなく、特徴のちがひですよ…ゐるからである。

 サヴァラン教授の『美味礼讚』だつたかに、佛國の某将軍は朝食に何ダースかの生牡蠣と、白葡萄酒を前菜(!)にしたと書かれてある。注意書きをつけると、当時の佛國では牡蠣に食慾増進や消化剤の効能があると信じられてゐた。要するに将軍閣下の朝食は、この後に始まるのであつて、わたしのやうに貧弱な胃袋の持ち主からすると、ガルガンチュワだなあと呟かざるを得ない。序でに書いておくと、生牡蠣に白葡萄酒の組合せは美味いのかどうか…ささやかな経験では、“どちらも旨いけれど、旨いのは別々”だつた。もしかしてシャブリに適ふのは、佛國牡蠣に限られるのだらうか。

 

 尤も現代で生牡蠣を毎朝食べられるのは新嘉坡の富豪でなければ、桂文枝師匠くらゐだらう。だから牡蠣は省く。丸谷の朝食には

「うんとちいさなビフテキなんてもの」

も入つたさうだが、またこれなら葡萄酒を一ぱい、用意したくもなるが、そもそも朝からビフテキをやつつけたいと思へない。なのでビフテキも省かう。

 韮入りの玉子焼き。鯵の干物か塩鮭。梅干に白菜のお漬け物。温めた豆腐。しらすおろし。お味噌汁と書くと、何だか旅館の朝めしのやうだが、確かにこれなら、ごはんの代りにお酒を一本、つけたくなつてくる。

 西洋風にスクランブルド・エグスにベーコン。ソーセイジ。チリー・ビーンズ。ピックルス。バタとバゲットにサラドと挙げれば、葡萄酒の小壜が慾しくなつたところで、当り前の人情と理解してもらへるだらう。

 

 詰りスパイ小説家が示唆し、批評家兼小説家が明快に示した

「われわれはみな朝食の食べ物の方を好む」

傾向はまつたく正しい。牡蠣やビフテキを省いたところで、それは小さな問題と断じていい。前述の“小説作法”では、この辺りの事情を

「一日の發端である朝食のおかずと、一日の末尾である酒の肴は、おごそかに円環を作るのだと考へてもいいし、どつちも味覚の純粋形態だから一致するのだと言つてもいい」

と鮮やかに纏めてゐる。“おごそかに円環を作る”といふのがいいですな。荘重な心持ちになれるし、その心持ちがあれば、朝酒の一ぱいや二はい、大した問題ではないといふ気分にもなれる。

 ただここで、朝からお酒と葡萄酒を同時に呑むのは躊躇はれるといふ事情が浮んでくる。また朝めしの献立は、簡単に変化させにくくもある。そこでどちらにも応じられる献立が求められてくるわけで、併しそんな都合のいい食べものが…あるのですな、これが。勿体振る必要は無いから種明しをすると、玉子焼きまたはオムレツである。そこにチーズを混ぜるか、乗せるかする。後は焼き具合と塩胡椒か醤油、ケチャップかウスター・ソースかデミグラス・ソース次第で、葱や韮やトマトや馬鈴薯の使ひ方あしらひ方までは考へなくたつて(仮にスクランブルド・エグスまたは炒り玉子へと変更しても)、お酒にも赤葡萄酒にも白葡萄酒にも適ふ。尤もジェイムズ・ボンド・スタイルのマティーニには、不釣合ひだらう。フレミングから文句が出ても、これは仕方がない。