閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

332 小雨赤茄子

 某日、小雨の夜に覗きこんだ、某所の臺北料理の呑み屋で、女将さんから

「臺灣料理(の一部)では、トマトで出汁を取ることがあるんですよ」

といふ話を聞いた。へへえと驚いてゐると、にこにこしながら美味しいよと云つて、それから日本人(詰りわたしのことだ)を気遣つてか

「鰹の出汁も美味しいですね」

と言葉を繋いだ。臺灣料理では、鰹節や煮干しで出汁を取らないですかとは訊きそびれた。

 もつと驚いたのは、女将さんが少女の頃は、夏のおやつに砂糖を振り掛けたトマトを食べたさうで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、そんな風に食べた方はをられるか知ら。どうも味はひの見当がつかない…臺灣のトマトは果物扱ひなのだらうか。西瓜の親戚くらゐなのかと思へば、不思議でもなささうではある。

 解らないことはさて措き、と云ひたいが、トマトで出汁を取るといふのも、もうひとつはつきりしない。削節や煮干しや昆布で出汁を取るのと、意味合ひが異なつてゐるのだらう。

 と書いて、“トマト煮”といふ調理があつたのを思ひ出した。ごく簡単で、トマトをざくざく切つて鍋にあけ、鶏肉やセロリーや胡瓜と煮ればいい。味は塩胡椒で調へる。面倒ならカットトマト罐と鶏肉だけでもかまはない。勿論トマトを湯煎して皮を剥き、鶏肉は予め葱と一緒に焼き目をつけ、大蒜や生姜や醤油を使つて複雑な味に仕立て、器に盛つてから、パセリとサワー・クリームで飾つてもいい。簡単な料理は、簡単だから値うちがあるだけではなく、好きなだけ凝れるところにも価値がある。

 この場合のトマトが食べものであるのはその通りだが、味の基盤を形作る要素でもあつて、女将さんが云ふ、“トマトを出汁に用ゐる”のが、この意味なら、筋は綺麗に通る。考へてみたら、臺灣料理だけでなく、佛國英國獨國、西班牙葡萄牙墨西哥伯剌西爾亜爾然丁、どこでもツナやマッカレルを干し固めて薄く削つて、ソップを取りはしない。だから日本の食は特別なんだ、と云ひ出したら話はまつたく誤つた方向に進む。我われは麦酒にソーセイジとザワークラウト、葡萄酒にチーズと生ハムといふ輝かしい組合せ…“世界の眞實であるところの三位一体”を産み出せなかつたぢやあないか。

 話が広がり過ぎですね。

 トマトに絞りませう。

 南米原産のあの野菜がヨーロッパに伝はつたのは十六世紀初頭。日本には十七世紀半ばにもたらされてゐて、当時の物流を想像すると、かなり速い。欧州人…西班牙と葡萄牙がのしてゐた時代だつたか…の沸騰する貿易熱が窺はれる。併しトマトの栽培の最初はアステカ人に帰するのだが、果してかれらがトマトをどう味はつてゐたのか、その辺はよく解らない。主食は玉蜀黍だつたから、煮込み料理のソースにでも使つたのか。メソ・アメリカの文明は、我われが思ふほど未開野蛮でなかつたのは確實なので、曖昧なのは惜しまれる。墨西哥料理を食べに行かなくちやあ。

 さう云へば伊太利人もトマトを偏愛してゐる。かれらは我われがスパゲッティにトマト・ケチャップをまぶすのを見ると、腰を抜かすほど驚き、また髪を逆立てるほど怒るらしい。マンマ・ミーヤなんて嘆くのだらうな。ヴェネツィア美人に日本のナポリタン・スパゲッティを振舞つて、叱られてみたい気がしなくもない…失礼。それは兎も角も、落ち着いて考へると、ヨーロッパのトマトは元々観賞用(毒があると考へられてゐた)で、食用になつたのは十八世紀になつてからであつた。二百年も経たないのに、伊太利人の食卓に欠かせなくなつたのだから、大した出世ではあるまいか。

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  ではそのトマトが臺灣料理で用ゐられだしたのはいつ頃からなのか、これもはつきりしない。日本で食用になつたのは明治…十九世紀後半以降ださうで、臺灣が大日本帝國の統治下に入つたのが同世紀末期。その状態がざつと半世紀續く。この時期に渡つたのか。その前の約二百年、清朝支配下で持ち込まれたかも知れない。トマトには幾つかの日本名があり、その中に唐柿(この“唐”は大陸または外國渡りくらゐの意味)も含まれてゐるからさう思つただけのことである。『臺灣トマト栽培史』を繙いたわけではないが、事實がどうあれ、臺灣トマトの歴史は三百年が精々の筈だから、その短い時間で料理の基調となる食べもののひとつになつたのは、矢張り大した出世であらう。

 詰り南米出身のあの野菜は、地中海(伊太利だけでなく希臘でも大量に用ゐられてゐる)と亞細亞(のある地域)で、重要な地位を占めたわけで、これは凄い。比較の為に同じ南米出身の野菜の馬鈴薯を挙げると、こちらは獨逸と愛蘭土での大出世はその通りとしても、亞細亞ではそこまで重んじられてゐない。これを以てトマトの優位が證明されるのではないとしても、扱はれ方のちがひは何となく面白い。

 さ。そこで我が國のトマト料理を振り返る前に湯木貞一が、あるお寺に行つた時の話を思ひ出した。云ふまでもなく[吉兆]の初代。その料理人にお寺が食べものを振舞ふといふ。湯木が

「何せこちらは玄人だから」

と思つてゐたところに供したされたのが、厚く切つたのを炙つた大根。その簡潔と野趣が、好意的な一筆書きで記されてあつた。詰り住職だか和尚だかは、大根を食べるのに馴染んでゐたから、かういふ振舞ひが出來た。確かに旨さうである。

 住職の大根を考へると、トマトはどうも未だ扱ひに不馴れ、変り種の域を出てゐない感じがされる。お店での焼き肴や焚きものにトマトをあはせたつて、住職流儀に炙つたつて、惡い筈はないのに。トマトを加へた出汁で仕立てたおでん(マスタードが添へてあつた)には感心したが、一過性でしかなかつた。板長或はシェフは、トマトが和風の料理に似合はないと思つてゐるのか、それとも南米と地中海に任せればいいと考へてか、事情は判然としないけれども、頭が固いとか怠慢とか、厳しい指摘が出ても…だつたら自分でどうにかなさいよといふ意見には耳を塞ぐ…、仕方がないんではありますまいか。

 トマトを出汁またはソップで用ゐるなら、脂つこい料理…たとへば豚の角煮やもつの煮込みに適ひさうな感じがある。鯖とあはしても旨いにちがひない。さうだ。臺灣の辛い味噌で焚きものにしてもいいのではないか知ら。さういふ料理が果してあるのかどうか、また小雨の夜に訊きに行かなくちやあ。