閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

346 文明と南蛮漬け

 南蛮といふのは元々中華に対する概念です。眞ン中に華があつて、この華は普遍性、世界性を持つてゐるといふ文明の謂。確かに共和制が終る時期までのローマを除くと、さういふ意味での文明…帝國は八世紀辺りまでの大唐帝國くらゐしか思ひあたらず、自らを華と誇つても苦情は云へますまい。その華人は華鄙のちがひを八釜しく云ひたてた人びとでもありました。

「皇帝に拝跪すれば華の片隅に入れる」

この場合の皇帝は個人といふより、皇帝といふ立場が象徴する文明だと理解する方がいいでせう。その為の儀式が朝貢で、あれは何百年か時代を下つたタタールの軛のやうに、一方的な搾取ではなかつた。周辺の國々は皇帝、詰り文明を慕つてやつてくるのだから、厚くもてなし、使者が帰國する際には受取つた土産以上の返礼をせねばならず…たいへんな物入れだつたでせうな。文明は豪奢で浪費を求めるたちらしい。

 さういふ華の内側に入らない連中もゐて、華人が蔑んだのはいふまでもありません。

「あいつらはおれたちに靡かない。なんて未開野蛮なんだらう」

現代の感覚だと傲慢きはまりない響きですが、實際八世紀前後のアジア…もしかすると世界の規模でも…に文明國は、盛唐以外に無かつたのだから仕方がない。長安は確かにローマと並ぶカプトゥ・ムンディであつた。尤も華人は中々意地惡でもあつて、靡かない、まつろはぬ連中に蝦や夷、戎だのといふ字をつけた。ひどいですな。南蛮の蛮もそのひとつ。虫の字が入つてゐて、人間扱ひされてゐない。倭なんてニンベンが用ゐられてゐるだけましな方で

「あの連中は礼儀も何も知らないけれど、朝貢はしてくるから、蕃族からは省いてやらうか」

といふ文明の温情を感じなくもありません。念の為に云はずもがなのことを申上げると、かういふ話を(微笑と苦笑を半々にしつつも)書けるのは、中世以前といふ大過去だからで、現代の中共が同じ態度を取つてゐたら(有り得ない仮定ですが)、冷笑を浮べざるを得なくなるでせう。

 ま。生臭ひ方向には進みますまい。

 ところで倭國は中華から見れば、文明の縁にぎりぎりゐるかどうかといふ地域でした。海を隔ててゐるからねと断ずるのは早計で、その面がなかつたとは云ひませんが、同時期のインドやアラビアには頑丈な大型船の建造術と高度な航海の技術がありました。それらは勿論唐の文明圏にも入つてゐたのに、不思議なことに倭までは伝はらなかつたのです。倭人即ち我われの遠いご先祖は鈍感だつたと溜息をつく前に、要は当時の倭國に、大型船で遠洋に出るだけの必要性が稀薄だつたと考へませう。かれらがさういふ技術を要したのは、何年かに一ぺん、唐に使ひを派遣する時くらゐしかなかつたのではないか。その程度の島國で中央に従はない地域を生蕃扱ひしたのは、餓鬼大将が陣地を広げたがる姿のやうで、多少なりとも滑稽を感じます。司馬遼太郎の指摘を信用すると、かれらにとつて版図を拡大する…王化と称したさうですが…のは要するに稲作の範囲を拡げるのとほぼ同じ意味だつたらしい。狩猟民や漁撈民(詰り“マツロハヌ”人びと!)に米作りを押しつける為に、わざわざ征夷大将軍といふ重々しい官職まで用意したのを思ふと、滑稽より無邪気と痛々しさを感じるべきでせうか。

 ここで奇妙だなあと思ふのは、生蕃の蔑称だつた筈の蛮、正確には南蛮ですが、いつの間やら蔑称とは異なる用ゐられ方になつたことです。南蛮人や南蛮料理といふ言葉に蔑みの響きを感じるのは六づかしいでせう。唐天竺ではない外ツ國、或は外ツ國渡りの珍奇を示す意味になつてゐて、どんな経緯で変化があつたのでせうな。少なくとも室町の末期頃には、シャムやジャワといつた東南アジアを指す、いはば地域の総称…南方の外國程度の…となつてゐたらしい。この時期の日本は八世紀の貧弱が冗談だつたかのやうな航海技術を身につけてゐました。もしかすると日本史を見渡して、我われ(のご先祖さま)が自ら外へと向はうとしたのはこの頃、最高潮に達してゐたかも知れません。世界史を眺めると、スペインやポルトガルが版図を拡げた大航海時代と重なつてゐます。商人とカトリックの伝道師と兵隊が大洋を埋め尽したやうな時期でもあつて、かれらは当り前と云はん計りな顔つきで、東南アジアにも拠点を有した。所謂植民地支配といふやつで、その是非をここでは触れません。さういふ背景があつて、南蛮が意味する範囲は、前述した漠然とした地域の総称でありつつも、そこには多少なりヨーロッパの匂ひが含まれてゐたと考へればいい。

 かう考へを進めると、現代の我われが南蛮何々といふ言葉から受ける微妙な違和感にも得心がゆく。あの實態は東洋の異國に源泉があるのではなく、純然たる西洋(その印象は紅毛…オランダやイギリス…の受持ち)でもなく、東南アジアとイベリヤの混淆であつた。極東の島國に棲む人びとがその欠片を目にし、音に聞き、或は味はつた時、エキゾチックの外には云ひにくい感情を抱いただらうとは容易な想像でせう。ご先祖はエキゾチックといふ単語を知らなかつたから、南蛮の文字にその気分を込めるに到つたのではありますまいか。さうだとすれば、マツロハヌ人びとへの呼び名は元々単純な蔑称ではなく、異質な生活に対する畏れも含んでゐたかも知れません。当時の倭人のたれも認めないでせうが、異質への畏怖と憧憬が、日本の文化に激烈な、でなければ極端な影響を与へるのは、佛教と黒船が鮮やかに證明してゐるでせう。南蛮もまたその實例のひとつが(本來の意から転化して)文字になつたと見て誤りにはならないと思はれます。

 それでこんなことを書き連ねた理由は何かといふと、不意に鯵の南蛮漬けが食べたいなと思つたからで、併しああいふのが南蛮…この場合は西洋にあるのか知らと續けて思つたからなのです。マリネーやピックルスがあるのだから、をかしな疑問ではあります。ありませうが、シャンシャールのマリネーとかホース・マッカレルのピックルスとかいふのがあつたとして、南蛮漬けのやうな甘酸つぱくて脂つぽくてそのくせ妙にさつぱりした、詰り旨い小皿料理なのかどうか。イベリヤにも東南アジアにもめしを喰はしてくれる友人がゐないから、根拠もなく推測すると、大元の元はきつと酢に漬け込む保存法だつた気がする。樽か壷かは判らないが酢の中に、内臓と血を抜いて火を通した鯵だか何だかをはふり込んで、食べる時に改めて焼くなり煮るなりしたのではないでせうか。さういふ保存と調理の手間をまだるつこしいと感じた連中がゐた筈で

「酢がうまければ、待たなくたつて、直ぐに食べられるぢやあないか」

さう云つたかどうかは知らない。またさう考へた気の早い連中がイベリヤの料理人だつたのか、ルソン定食の親仁だつたのかも判然としない。たださういふ方向への変化があつたのは確實で、我が國に伝はつたのはその変化の最中で、長葱や唐辛子と前後しつつだつたらうと思へます。酢漬けから甘酢漬けになつたのは、唐辛子や葱のくせ…風味を調へまたは誤魔化す手法で、保存といふ本來の目的から離れて出來あがつたのだらう。こんな工夫をたれが始めたか、歴史は沈黙してゐますが、わたしは崎陽…長崎が怪しいと思ふ。あすこは大陸にも近いし、日本國の殆どが殻に隠つた後も外向けの小さな窓を開けた土地でしたからね、日本だけでなく、唐渡り天竺渡りは勿論、南蛮渡りの料理法や調味料だつて、不自由はしなかつたにちがひない。イベリヤで生れ、東南アジアでのアレンジを経てもたらされた(恐らくは一種の)酢漬けが、種々の香味野菜や香辛料と共に、日本は長崎の流儀で仕立て直されたのが、我われの目にする南蛮漬けであらうと思ふと、どこ乃至何に分類することもない普遍性…即ち文明が小皿に乗つてゐると見るのも、強引なのは認めるにせよ、丸々間違つてゐるとも云ひにくいのではありますまいか。かういふお皿を大唐皇帝の食卓に差上げれば、華の内に入れてもらへさうな気がするが、何しろ千年余り前の陛下ですからねえ。