閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

520 葱のソースと長屋王

 原産地は印度亞大陸の東部と云はれる。日本には遅くても八世紀の半ばまでには伝はつたらしく、天平六年(西暦だと七百卅四年)、天平勝宝二年(同七百五十年)の日附にその名が記されてあるといふ。もう少し遡つて、長屋王(八世紀初頭のひと)への進物にもあつたさうだから、贅沢な食べものだつたと推察しても間違ひではあるまい。

 茄子の話である。

 訓みはナスビまたはナス。前者の方が旧く、柰須比の字が宛てられてゐる。アケビやキビやワサビのビと共通するのではないかとの説もあるらしく、それだとナスビがナスになつた理由がはつきりしなくなる。宮廷の女官が女房詞でオナスと呼んだのが切つ掛けといひ、江戸の野菜賣りが"成す"に引つ掛けたともいふが、怪しさは残る。

 高級な野菜だつた茄子がぐつと広まつたのは、伝來から九世紀半が過ぎた江戸期に入つてから。十七世紀末頃の農業書には既に複数の品種が栽培されてゐたと思しき記述があるさうだから、そこから数へても三百年余りの歴史がある。ヨーロッパ方面に伝はつたのは十三世紀頃。それも鑑賞用だつたといふ。高温好みの植物だから、食用に栽培するのが六づかしかつたのだらうか。

 我が國で見ればたいへんに歴史のある野菜を、併しわたしは最近まで、殆ど食べなかつた。機会に恵まれなかつたのが理由のひとつ。第二には噛んだ時の歯触りがどうにも厭に感じられたこと。更に云へば、焼いた際の切り口が生肉のやうで、気味惡く思へことも挙げておかう。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にはきつと、呆れられるだらうな。食べない理由なんて、傍目には下らないことが多いのだけれど。

 とは云へ、上の理由に、厭な匂ひがするとか、食べたらまづかつたからといふのが無いのは、念の為に強調しておきたい。詰り自分から註文はしないにしても、酒席でたれかが茄子の何やらを註文したら、ちよいとつまむくらゐはしたし、醉ひにも手伝つてもらつたからか、旨いぢやあないのと思つたりもした。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から、今度は何ていい加減な態度だらうと呆れられるにちがひない。

 いい加減な態度なのはこの手帖の背骨だから諦めてもらふとして、旨いぢやあないのと感じる機会を何度か持てたのは惡いことではなかつた。それは余程信用出來るつまみを出すお店だつたら、茄子を食べてもいいかと思へてきたからで、ただそれは相応に六づかしい。当り前の話で、信用出來るかどうかは、外のつまみを何種類か食べてみないと解らない。呑むのは前提だし、こちらの胃袋はさう大きくもない。従つて何べんか、或は何度も通ふ必要に迫られる。それに様々のつまみが旨いとしても、それが茄子にまで及ぶかどうかは、食べてみないと解らない。たいへんである。

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 東京中野には立呑屋が何軒もある。大半は知らないが、知つてゐるお店はつまみが旨い。その中の某(迷惑になるといけないから名前は出さない)で過日、"豚しやぶ葱そーす"といふのを食べた。さつと茹でて締めた、ほの温かい豚肉に醤油を基にしたと思へる葱のそーす、胡瓜の細切りが乗せてあつて、特別に凝つた眞似はしてゐない筈なのに旨かつた。そこは思ひ出した時に行く程度だが、それまでの経験でも食べものが旨いのは知つてゐたから(序でに記しておくとこの時のつき出しは半熟卵に温めたマヨネィーズ・ソースで、これもえらく旨かつた)、改めて感心したといつてもいい。

 茄子の話はどうしたと云はれさうだが、これが後日の伏線であつて、壁に貼られたお品書きに、"揚げ茄子の葱ソース和へ"とあるのを、わたしは見逃さなかつた。そーすとソースのちがひはあるが、決定的に異なりはしないだらう。それにこのお店なら、口に適ふ適はないとは別に、まづいものは出さないにちがひない。おれの讀みはすすどいなあと思ひながら、その日は帰宅した。さうしたらすつかり忘れて仕舞つた。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から叱られるだらういい加減な態度なのはその通りとして、茄子に恋い焦がれてゐるわけではないから、そこは止む事を得ないとしておく。正直なところ、"チーズ・オムレツ・マヨネィーズ・ソース"を頼み損ねた(親切な女将さんが、つき出しと被つた感じになりますよと助言があつたのだ)方に未練が残つた。

 なのでまた思ひ出してそこに顔を出した時は、つき出しを確めて(みみがーを生ハムのやうに薄切りにしたやつ)、先づ"チーズ・オムレツ・マヨネィーズ・ソース"を註文した。矢張り温めたマヨネィーズのソース(多分醤油か出汁を隠してある)が中々宜しい。平らげて、次は何を食べるかなと壁のお品書きに目をやつて、"揚げ茄子の葱ソース和へ"があつたと気が附いた。気が附いたら試したくなつてきたので、註文をしたら、親切な女将さんが

 「この時期の茄子は美味しいですものね」

と云つて呉れて、さうですねとでも応じればいいものを

 「實は茄子が苦手で、自分からおつまみを頼むのは初めてなんですよ」

正直が美徳になるとは限らない。尤も女将さんは親切な上に客あしらひが上手だから

 「茄子と油は相性がいいですし、お漬物の歯触りがあはないひとにも、あふと思ひますよ」

わたしの外にも苦手なひとがゐたんだらうな、と思ひつつ女将さんの手捌きを見てゐると(カウンタだけのちいさなお店だから、料るところを見物出來るのだ)、茄子を大振りに素早く切り、そのまま揚げていつた。成る程素揚げなのか。

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 茄子が揚がる。

 油を切る。

 ここまでは鈍いわたしでも解る。併しその後、隠してあつたタッパウェアを取り出し、油を切つた茄子をはふり込み、丹念に混ぜたのには戸惑つた。戸惑つてから、ああそれで、葱ソース"和へ"なのかと納得したから、矢張りわたしはにぶい。気が附かなかつたが、アスパラガスの素揚げも一緒に小皿に盛りつけられ

 「はい。熱いですから、気を附けて」

まつたくいい匂ひがする。どうやら葱ソースには大蒜が隠れてゐるらしい。いいぞ、いいぞと思ひながら箸をつけると果してうまい。熱いですよと云はれはしたが、葱ソースのお蔭で温かいくらゐになつてゐて、舌を焼くほどではなかつた。茄子が旨いのかどうかは兎も角(さう云へば茄子料理への褒め言葉は目にするのに、茄子自体の味に触れた文章を讀んだ記憶がない)、目の前の"揚げ茄子の葱ソース和へ"は旨いのだから、文句を云ふ筋ではない。ところでさうなると、茄子を旨く食べるには、いい茄子を撰ぶ以上に料り方が大切なのかと考へられる。であれば、余所で茄子料理を味はふ為には、そこが信用出來るかどうか、改めて確めるところから始めねばならなくなる。面倒でいけない。わたしが長屋王くらゐえらければ、そんな面倒もなく進物を受け取れば済むのだが、千三百年前に葱ソースは勿論、親切で客あしらひの上手な女将さんのゐる呑み屋があつたとは思へない。