閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

269 500年

 茹でた馬鈴薯を潰し、そこにあれこれを混ぜ込んで、マヨネィーズで和へ、塩胡椒で調へると、ポテトサラドが出來上がる。旨い。ああ、さうさう。ポテサラと略す時は、ケンコーマヨネーズの登録商標であることに留意しなくてはならないけれども。

https://www.kenkomayo.co.jp/aboutfood/potesara/#pote_footer

 もう一ぺん云ふと、ポテトサラドは旨い。サンドウィッチの種にしてよく、麦酒や焼酎ハイのつまみにも嬉しいものです。

 キユーピーの[じゃがいも料理の王道!ポテトサラダの基本レシピ]を見ると

https://www.kewpie.co.jp/recipes/basic_sarada/sarada01.html

・玉葱

・胡瓜

・人参

・ハム

・塩胡椒

 を用ゐると書いてある。キユーピーが紹介する作り方だから、マヨネィーズは勿論キユーピー。わたしとしては人参を外して、茹で卵(固茹でを細かく崩したやつ)を追加し、ハムの代りにベーコンを入れてもらひたいところだが、煩いことを云ふのは控へませう。これでも礼儀は心得てある。

 馬鈴薯が日本に渡つたのは16世紀末から17世紀初頭にかけてらしい。判りにくいひとの為に云ふと、太閤豊臣秀吉が“難波のことも 夢のまた夢”と詠んだくらゐの頃です。持ち込んだのはどうやらオランダ人。ペルー原産のこの植物がヨーロッパに伝はつたのが16世紀の半ばを過ぎた辺り(これはスペイン人が受持つた)といふから、恐ろしい速さの伝播と云つていい。

 尤もヨーロッパでも我が國でも、伝來の当初は鑑賞用であつた。それが大々的な栽培に到つたのは17世紀も半ばを過ぎてから(日本は更に100年ほど遅れてゐる)で、切つ掛けは云ふまでもなく戰争である。何しろあの当時は、いつでも何処かでたれかが殴り合つてゐた。陸軍同士の喧嘩が農地を無視するのは当然だから、麦畑が踏み荒らされるのも当り前の帰結で、併しそれでは喰つてゆけない。王侯貴族がそれを我慢出來るだらうか。

 馬鈴薯は相当に強靭で、痩せた土地でも育つ。栄養も採れる。ここで再びキユーピーに頼ると“カリウムや、ビタミンB1、ビタミンC、食物繊維などを含み、栄養満点。さらに、じゃがいものビタミンCは、主成分であるデンプンに守られるので加熱による損失が少なく、効率よく摂取できるという利点”もあつて(農民に馬鈴薯を喰はせれば、貴族連中は麦を食べられる)中々具合が宜しい。

https://www.kewpie.co.jp/yasai/potato/index.html

 馬鈴薯が普及したのはさういふ事情が重なつたからで、考へれば殺伐とした光景である。わたしは臆病だから血腥い方向には進まない。實際のところ、ドイツやアイルランドで栽培された馬鈴薯は貧農の胃袋を満たし、また料理自体にも工夫が施された。半ばは神話と云つていいが、我われが愛する肉じやがを遡ればアイリッシュ・シチューに辿り着くといふ説もあるくらゐで、当方としては愛蘭萬歳と叫びたくなる。

 話を戻す。どこに戻すかといへば勿論ポテトサラドで、マヨネィーズで和へる式のそれはいつ頃に生れたのか。マヨネィーズの原型が出來たのは18世紀中頃の戰場(ああ、矢張り!)で、それは肉料理にあはせるソースだつた。材料は卵黄とオリーヴ油と塩。大蒜や檸檬を搾ることもあるらしいが、漠然としたままでいいでせう。

 日本ポテトサラダ協会といふ権威ありげな団体の[150年の歴史!ポテトサラダの起源はロシアの「オリヴィエ・サラダ」]によると、この“オリヴィエ・サラダ”が、日本のポテトサラドの源流らしいのだが、これは少々あやしいね。

https://potasala.jp/potasala-history/

 先づ“オリヴィエ・サラダ”は19世紀後半から20世紀初め頃、ベルギー人のリュシアン・オリヴィエによつて、モスクワのレストラン[エルミタージュ]で考案されたさうだが、正確な作り方が残されてゐない。オリヴィエは余程、狷介な人がらだつたのか、それとも当時のロシヤ人の調理を信じてゐなかつたのか。

 それに上のページでも、“オリヴィエ・サラダ”がどんな経緯で日本に入つてきたのかは、触れてゐないから、検証が六づかしい。更に云ふと、キユーピーが最初にマヨネィーズを賣り出したのは、[エルミタージュ]が閉店に追ひ込まれて僅か10年足らず後に過ぎない。

 但し一概に否定するのも六づかしく、またしてもキユーピーの[マヨネーズの誕生物語]を讀むと

https://www.kewpie.co.jp/mayonnaise/history/

[アメリカでは、日常的に野菜サラダが食べられていました。それも調味料はマヨネーズ。ポテトサラダに使われているマヨネーズはおいしくて栄養価も高いと中島(筆者註 キユーピー創業者の中島董一郎)は注目しました]

と書かれてある。詰り中島はマヨネィーズと同時期にポテトサラドも知つたと考へられる。日本人に馴染みのない新式ソースを広めるのに、馬鈴薯の応援を得ることを、中島が思ひつかなかつただらうか。何もかもを個人(の功罪)に押し込めるのは慎む必要はあるとして、“オリヴィエ・サラダ”は直接、日本流のポテトサラドを生んだといふより、マヨネィーズを広めたいと思つた人びとに、ヒントを与へたと見る方が、事實に近いのではあるまいか。

 結局のところ、我が國のポテトサラドがいつ、どんな経緯で成り立つたのかは、ケンコーもキユーピーもポテトサラダ協会も口を噤んでゐて、はつきりしない。残念である。500年以上の時間を相手にした、大きな俯瞰のポテトサラド史を讀んでみたいが、これは無理難題だらうか。麦酒とポテトサラドに似合ひの組合せだと思ふのだがなあ。