閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

732 麦酒の友

 世の中の酒精の中で、一ばん馴染み深いのは、わたしの場合、麦酒である。初めて呑んだのは、麒麟ラガー・ビールの中壜だつた。断定出來るのは、父親の晩酌で呑ましてもらつたからである。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏もそんな切つ掛けで、麦酒乃至酒精に馴染んだのではないだらうか。

 今も呑むのは勿論だし、呑めばうまいと思ふ。そして呑む時には摘みが欠かせなくて、この手帖の数少ない讀者諸嬢諸氏ならきつと

 「さう云へば丸太は、何かしら食べながらでないと、呑めないたちだつた」

と思ひ出してくれるでせう。麦酒だつて例外ではない。

 凝つた摘みを求めるのではありませんよ。ピーナツやおかきや煎餅でよく、塩揉みのキャベツ、ハムと竹輪、笹蒲鉾なんぞがあつたら上々と云つていい。参考までに云ふと、父親はある時期、蜂蜜漬けの大蒜を熱心に摘んでゐた。うまかつたのか知ら。ラガーは教はつたが、そつちまでは到らなかつたのは、残念に思はなくもない。

 併し麦酒にあはせて旨いのは矢張り、揚げものや炒めものの類だらう。たとへば大蒜を効かせた肉野菜炒め、豚肉の生姜焼きを挙げれば、成る程と思つてもらへるだらう。いやもしかすると

 「もつ煮や豚の角煮も挙げねばならぬよ」

さう反論が出るかも知れない。尤もなご指摘です。ではあるが、もつ煮や豚の角煮は寧ろ焼酎の親友でせうと再反論する余地は残されてゐる。

 では麦酒の親友と呼べる摘みは何だらう。上に挙げた肉野菜炒めや生姜焼きは、ごはんが慾しくなるから、親友とは呼びにくい。麦酒に密着してゐる点で、ソーセイジとザワー・クラウトの組合せを外すわけにはゆくまい。勿論たつぷりのマスタードは忘れずに。ただこの組合せは、気らくにありつきにくい難点がある。

 「ははあ詰り、丸太には目星を附けた摘みがあるのだな」

さう讀んだひとはすすどい。と褒めてから、少し話を逸らしますよ。ちやんと戻るから、安心なさい。

 

 麦酒の源流はメソポタミヤの文明にまで遡れるといふ。何をもつて麦酒と呼べるのか…といふ定義附けは横に措く。ここでは粗つぽく、メソポタミヤで好まれた(だらう)醗酵飲料が、現代の麦酒まで遷移した(らしい)と考へればいい。

 その麦酒(の原型)は、労働者の呑みものだつたらしい。古代のエジプトでピラミッドだのの建築に従事した労働者(奴隷的に扱はれたのではなく、経済政策のひとつだつたといふ説がある)に振る舞はれたのも麦酒で、出勤簿に"宿醉ひで休み"との記録が残つてゐると、何かで目にした記憶がある。ベッドで頭を抱へて呻く様は、現代と変らなかつたらう。

 矢張り古代のギリシアでも、麦酒は下層民の呑みものだつたらしい。兵隊に玉葱とチーズ(どちらも保存が利く)を与へたさうで、戰場に駆り出されなくていいなら、一ぺんくらゐ試してもよささうな気もする。尤も上級の将軍連中は、"仔を産んでゐない羊"を屠つて神さまに捧げた後、葡萄酒で酒席を開いたから(ホメロスがさう詠つたのだ。間違ひない)、その場にゐたら、腹を立てるとも考へられる。

 ここで大事なのは、麦酒が最初から、或はごく初期から、酒精族の中で低く…下層民でなければ労働者の飲料と位置附けられてゐたことである。エジプトやギリシアの栄光ある時代から、二千数百年を飛ばすと、尊敬する吉田健一は何かと云へば麦酒を呑んだけれど、あの呑み助兼喰ひしん坊とつての麦酒は、お酒やシェリーや葡萄酒より手がるに呑める以上の値うちは無かつたんではないかと思はれる。また矢張り尊敬する内田百閒も、溺愛された祖母に、大人になるまでお酒を呑んではいけないと薫陶を受けたので、それまでは麦酒を呑んだとか(百閒先生がお酒を呑みだしたのは、職を得てからのことである)、書いてあつた。

 といふことは。

 「麦酒に適ふ摘みは、下世話な食べものではないか」

さう推測することが出來て、かう云つたら

 「殆ど三千年前の事情を、現代まで引き摺るのは、如何なものですかねえ」

苦笑を浮べるひともゐるだらうが、酒精と食べものの関係がたかだか三千年で崩れるのかとも思はれる。酒精は文明と共にあり、摘みは酒精と共にあるのだから、緩かな変化はあるとして、引き摺つてはゐないと見る方が正しさうである。では現代の"下世話な"摘みは何だといふ話になるのは当然のことで、ね、話が戻つてきたでせう。

 

 先づ順不同敬称略で候補を挙げてゆく。

 焼き餃子。

 鯵フライ。

 鶏の唐揚げ。

 ミンチカツ。

 もつ焼きや焼き鳥のたれ。

 ハムカツとポテト・サラド。

 韮玉子やポーク玉子。厚めのベーコンとトマトを焼いたのも魅力的だし、回鍋肉に青椒肉絲だつて忘れてはならず、家常豆腐(酢豚の豚肉を厚揚げにした料理)も旨い。何なら玉葱と豚肉を塩胡椒(と醤油)で炒めるだけでも宜しい。祭の夜店に限れば、ソース焼そばやフランクフルトも入れたくなる。

 「ちよつと待ちなさい」

ここで指摘が入るだらうか。牛肉が出てゐないのはどんな事情だ。その気持ちは判らなくもないが、わたしの好みで云ふと、牛肉と組合すなら(牛カツのサンドウィッチといふ例外はあるにせよ)矢張り葡萄酒だと思ふ。

 さて。上に挙げた食べものの殆どは、その気になれば家で用意出來るし、呑み屋の卓で註文しても、お財布に負担の掛かる心配をせずに済む。簡単に安上りと云つてよく、この場合の安上りは褒め言葉である。念を押すと、旨いまづいと高い廉いは、別の目で見なくちやあならない。まして麦酒との相性は、更に異なる視点が必要なのは云ふまでもなく…我われは豊かな食べものに囲まれる代償として、ややこしい撰択を迫られてゐるんです。

 麦酒を呑みたいのだ、文明論的な話はやめませう。

 議論だつて摘みにはなるけれど。

 それでええと、さう、上に挙げた食べものを改めて見直すと、焼き餃子と鯵フライと鶏の唐揚げとミンチカツを

 「麦酒の友の四天王」

と呼びたくなつてくる。麦酒を中心に勢揃ひした卓を想像し玉へ。ホメロスが詠ふアテナイの英雄の列挙のやうではありませんか。これで歓びを感じないとは思へないし、仮にさういふひとがゐたら、酒席は共に出來ないと断じて、きつと異論は出ないだらう。勿論わたしは公正な男だから、同席のひと(貴女のことです)が

 「マヨネィーズとチーズで焼いた茄子、大根とツナの和風サラド(どこがどう和風なのか)、トマトとサーディンのオリーヴ・オイル(粗く挽いた黑胡椒附き)和へにしませう」

と註文しても("麦酒の友"とは呼べないなあと思ひつつではあるけれど)、文句は云ひませんよ。麦酒はにこやかに呑むものである。ひよつとすると、さうやつてにこやかに呑める相手こそ、麦酒の最良の友なのかも知れないが、随分と気障な態度と呆れられるだらうか。