閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

733 お箸と掻き揚げ

 小學校の給食を思ひ出すと、二つだけ、恨みがましい気持ちになる。第一はグリンピースの卵とぢがまつたく、まづかつたこと。未だ記憶に残るくらゐだから、余程と考へてもらつていい。お蔭で今も、グリンピースは苦手にしてゐる。

 もうひとつは食器に先割れのスプンを使つたことで、これには当時、ご飯給食が實施されなかつた事情がある。だから止む事を得ないと云へばその通りではあるのだが、自慢にならない…といふより耻づかしい話をすると、わたしはお箸の使ひ方がたいへんに下手なのです。鉛筆を持つ時のやうに持つてしまふ。ひよつとして六年間、先割れスプンを常用したのが切つ掛けではなからうか。

 また与太話を。

 と云はれたら、さうだなあと思ふ。家ではお箸を使つてゐたんだもの、給食を云ひ訳にするのはをかしい。親の箸使ひを眞似なかつたのが失敗だつた。給食への恨みがましさは、ひとつだけだつたと訂正します。尤も、お箸を鉛筆のやうに持つても、普段はそんなに困らない。困らない食べ方を覚えたのだと云つたら、耻の上塗りになつて、併し事實は動かせない。正直な態度でせう、えへん。

 困つたなあと考へだしたのは、蕎麦を啜る樂みを教はつてからで、ここで云ふ蕎麦はざるである。鉛筆持ちでは最後の二本か三本を取るのが六づかしい。天ざるを奢ると、衣の欠片もつまむのも六づかしくて困る。なので今からでも正しい持ち方の練習をしてゐて、但し中々身につかない。

 その天ざるで供される天麩羅と云へば、海老に茄子、獅子唐に大葉。或は烏賊であらう。お午を過ぎた時間帯に、かういふのをつまみながら、一合のお酒をぬる燗でやつつけるのは、愉快でいい。

 ところで。蕎麦屋で見掛ける機会を持てないのが、掻き揚げではなからうか。記憶にある限り、種ものでも、肴でも、目にしたことがない。単に見逃しただけなのか知ら。立ち喰ひは別ですよ。あすこは枠がちがふ。

 と書いて余談。蕎麦は本格とさうでないのと、区分がはつきりしてゐると思ふ。それだけでなく、両者が並立してもゐる。饂飩でもスパゲッティでもカレー・ライスでも、区分自体が曖昧で、他に近いとすれば早鮓くらゐではないか。蕎麦と早鮓は、町人向けの簡便な食事が高級に成り上つた点で共通してゐる。ただやや遅れた天麩羅も、四文でつまめる屋台の間食が、お座敷に乗りこむに到りはしたが、元の屋台系列は消滅してゐる。この辺りの事情を説明してくれる本は無いものだらうか。余談終り。

 終りと云ひつつ、余談から話を續けると、蕎麦屋が所謂本格と簡易安直に分岐する前、既に天麩羅は種もののひとつに含まれてゐただらう。分岐にあたつて、蕎麦屋本格党と蕎麦屋安直派の間で、話し合ひでもあつたのだらうか。海老は寄越せとか、海苔と大葉と獅子唐は共有すべしとか、春菊はくれてやるとか。侃々諤々あつたと考へるのは面白い。その中で掻き揚げはどんな位置附け…取り合つたのか、押し附けあひになつたのか…だつたのか知ら。

 歴史の詮索はさて措いて掻き揚げはうまい。立ち喰ひ蕎麦屋で註文すると、厚くて堅いのが乗せられて、それをつゆに浸しつつ囓ると嬉しくなる。かういふのはお箸を気にしなくていい。崩れた衣はつゆと一緒に干せる。問題は一品としての掻き揚げで、立ち喰ひのそれとは異なつて、大きくふはりと仕上げてある。技術といふより、揚げ手(と呼ぶのが正しいのだらうか)の藝自慢の感がある。

 眺める分にはいいものですな。

 大したものだと手を拍ちたい。

 併し。併しである。さういふ掻き揚げを目の前にすると、手の動かし方に、戸惑ふのもまた事實である。お箸の持ち方がしつかりしてゐれば、上から丁寧に取れるるだらうが、こつちはさうではない。ふはつとした折角の掻き揚げが、バベルの塔の煉瓦のやうに碎け散つて仕舞ふ。箸先を揃へられない鉛筆持ちの欠点が剥き出しになつて、碎けた煉瓦…訂正、衣の欠片をつまむのに難儀する。ぼう然とするしかありませんな、こんな時は。

 不器用自慢ではありませんからね、念の為。

 天つゆを少しづつ掛ければ、どうにかなるかも知れない。知れないが、それでは敗けであらう。掻き揚げを綺麗に食べて、どうだえへんと胸を張れる日こそ、わたしの勝利なのだと云つてもう少しだけ、話を進めませうか。

 ちよつと調べると、掻き揚げの種は様々にある。

 海老に小柱、烏賊辺りが基本…伝統的。

 他に玉葱や牛蒡、蚕豆、枝豆、春菊、玉蜀黍、じやこ、人参、更には紅生姜。

 挙げてゆけば切りがない。乱暴に云へば、何でもかでも細切れにしてひと纏めにして揚げれば、掻き揚げで御坐いとなりさうな気がされる。天麩羅に眞面目な職人は、巫山戯たことを云ふものぢやあないと腹を立てるだらうか。とは云ふものの、藝事の面は兎も角、その巫山戯…ではなく、融通無碍も掻き揚げの魅力と呼べまいか。簡単に融通無碍と云つたけれど、種に何を撰び、また組合せ、どう食べさせるかが揚げ手次第と考へれば(厭みを承知で云ふと)、センスが求められる料理だとも見立てられる。

 塩か天つゆか、衣に味をつけるのか。

 一種類か幾つかの種類を用意するのか。

 饂飩や蕎麦に乗せるのか、お味噌汁の種にするか。

 丼ものに仕立てるか、お茶漬けなのか、定食式か。

 呑むとしてお酒か(だとすれば冷やか冷酒かお燗か)麦酒か葡萄酒かそれ以外か。

 浮んだだけでもこれくらゐの條件があつて、細かな気配りをするひとなら、季節や盛りつけるお皿や使へる油、供する時間帯まで考へるにちがひない。そんなの掻き揚げでない天麩羅も同じさと思ふのは正しい。それは認めつつ、掻き揚げの考慮乃至気遣ひの幅はより広く、奥行きも深いと思へる。贔屓にしても度が過ぎると笑はれるか知ら。併しさういふ心尽しの掻き揚げが卓にを出てきたら、大事に綺麗に食べたくなるのは間違ひない。

 

 お箸の使ひ方がましになつてから、望むべきことだけれど。